防腐剤無添加

『アーモンドの木』における和爾さんの訳文を爽快にしているのは、たとえば、「へスパー号ネタはさんざん出尽くした感がある」の「~ネタ」とか、「祖父の資産はほぼ溶けてしまい」の「(資産が)溶ける」のような、新しめの表現の躊躇ない使用だ。

古典にこういう表現を使うことについては、眉をひそめる向きもあるかとは思うが、自分は必ずしもそうは思わない。むしろある種の潔さを感じる。

もっとも自分ではこういう表現は避けるが、それは新しめの言葉は何年かたつとそのニュアンスが忘れられるのではと恐れるからだ。しかし一方では、時間の重みに耐えた言葉だけを使うということは、いわば訳文に防腐剤を添加させているに等しい。当然のことながら「生きのよさ」は防腐剤を添加すると失われる。

こうした防腐剤抜きの方向をさらに徹底させているのが最近出た浦出卓郎氏訳ファーバンク『足に敷かれた花』である。この本に収められた「見かけ倒しのお姫さま」は昔「人工皇女」という仮タイトルで奢灞都館で近刊予告されていた。
 

 
だが今回出た訳は「奢灞都館近刊『人工皇女』」と聞いて人が漠然と想像するものとは天と地ほど違う。帯には「ちょっぴりクセつよな翻訳で出ちゃいました」などと殊勝らしいことが書かれてあるが、「ちょっぴり」なんて生やさしいものではない。本書中の表現を借りれば「チョーくせつよ」の翻訳である。ある部分では柳瀬尚紀訳「フィネガンズ・ウェイク」や山形浩生訳ウィリアム・バロウズを思わせるほどの言語実験さえくりひろげられている。生田派の牙城エディション・イレーヌの『屋上庭園』の書評欄でもし取りあげられたら、すごい勢いで罵倒されるであろうことは想像にかたくない。

『アーモンドの木』


 
楽しみにしていた和爾桃子さん訳のデ・ラ・メアが出た。さて今回、和爾さんはデ・ラ・メアをどう料理しただろう。

この「料理する」は単なる決まり文句ではなくて、和爾さんの翻訳からは文字どおり原文を包丁でさばいているような感じを受ける。この包丁さばきによってコリアやサキは面目を一新したが、今回のデ・ラ・メアもその例にもれない。啓発的な解説ともあいまって清新なデ・ラ・メア像——あえていえば情緒に流れないデ・ラ・メア像——を提出していると思う。

さてデ・ラ・メアといえば怪奇党にとっては何をおいても「シートンの伯母さん」である。中でも最終部分の謎のような語り手の述懐である。そこを原文で引くと:

And yet I felt a little uneasy. My rather horrible thought was that, so far as I was concerned -- one of his extremely few friends -- he had never been much better than "buried" in my mind.

二番目の文章の後半からは “the only good Indian is a dead Indian” という南北戦争時の誰だったかの言葉が連想される。その連想でいけばこの部分の意味内容は「現実のシートンはどうしようもない奴であって、僕の思い出に "埋め込まれた" シートンより劣る野郎ではなかったのでは?」みたいな感じになる。

このとき rather horrible thought は「僕はずっと友に欺かれていたのではないか。友は(ちょうどミス・デュヴェーンみたいに)かなり頭がおかしくて、その妄想にすぎないものを僕は本気にしていたのではないか」という疑惑を意味しよう。その疑惑が僕をfelt a little uneasy (落ちつかなく)させたのである。おそらく和爾さんの今回の訳もこの線に沿っているように見える。

しかし怪奇党としてはこの解釈ではどうもものたりない。これでは今までの話は全部シートンの妄想で伯母さんがまっとうな人になってしまうからだ。それはあたかも「ねじの回転」が全部家庭教師の妄想だったと考えるようなものだ。やはり伯母さんは恐ろしい吸血鬼でシートンは哀れな犠牲者でなければおさまりがつかない。

いっぽう南條竹則氏はこの部分を少し違って訳している。ブログ「猫城通信/南蝶食単」にある改訳版で引くと「わたしの思い出せる彼は「葬られて」いるよりも特に幸せではなかったということである」。つまり "in my mind" は "buried" に直接かかるのではなく、意味的にはむしろ "he" にかかるという解釈である。

これもちょっと違和感がある。もしそうならばせめて "in my mind" の前にカンマがほしい。しかしこの考えをとって上の原文をくだいて訳すと、「他の人はどう思うか知らないけれど、奴とつきあったごく少数のうちの一人として言わせてもらえば、あいつは生きてるときから死んでたようなものだった、といういささか恐ろしい感慨が僕の心中にはある」とでもなろうけれど、くだきすぎてこれはもうデ・ラ・メアではない。

それよりむしろ、あえて想像をたくましくして、「わたしが今思う彼は、"埋葬されて墓地に眠る"よりも特にましな状態ではなかった」つまり living dead (あるいは吸血鬼) として今なお生きているのではないかというふうにとればどうか。つまり「死んでたようなものだった」説では完了形 had been (時制の一致により過去完了になっている) はシートンの死までの期間(つまり生前)を現わすが、living dead説ではこれはシートンの死から語り手が館を去るまでの期間を現わすと考えるのである。

そうすると少し前の場面で「おまえかい? おまえだね、アーサー?」と呼びかける伯母さんは、別にボケているわけではなく、本当にアーサーを呼んでいることになるし、My rather horrible thought は真に horrible になる。

もちろん自分の英語力では、どれが正しいのか、それともどれも間違っているのか判断がつかない。しかしそれを棚にあげて言えば、この部分はむしろデ・ラ・メアの朦朧法のマジックと考えたい。

【9/10付記】上の原文の引用で"buried"が引用符つきになっているのは、おそらく少し前の場面の会話で肉屋のおかみさんが"buried"という言葉を使ったのを、語り手が思い出しているからだろう。しかし最後の感慨のところで語り手は"buried"に別のニュアンスを付けているのかもしれない。そのこともこの文章を難解にしている。

同人誌丸出し

最近はDeepLも改善されてきて、すくなくとも徳井や山里が「そうですね」「そうですね」と無意味な相槌を打つことはなくなった。しかしあいかわらず珍妙な翻訳を返してくることに変わりはない。近来の傑作はこれ。
 

 
Es scheine sich um einen ganzen Klüngel gehandelt zu haben. は、ごく普通に訳せば「一味全体にかかわった問題のようだ」となるはずだ。それがなぜこんなことに。そもそも「同人誌」とか「丸出し」とかいう面妖な言葉はどこで拾ってきたのだろう。AIに読み込ませるサンプルに問題があるのか。「げんしけん」の独訳本でも使ったのだろうか。

フラクトゥール

今読んでいるのはドイツで1951年に出た稲生平太郎ばりの神秘小説。しみじみした佳作なので、コロナがいい塩梅に収まれば秋の文学フリマに出そうかなとも思っている。
 

 
上の画像はこの本の一部だが、ごらんのとおり、フラクトゥールというドイツ特有の字体で書かれている。俗に亀の子文字ともヒゲ文字とも称されるあれである。慣れさえすればなかなか味のある字体であって、これに親しむと普通のフォントが使われた本は逆に味気なくて読む気がしなくなるほどだ。

しかしこの「慣れさえすれば」というのがクセモノで、なかなかもって慣れ親しむのは難しい。たとえば "s" と "f" がまぎらわしい。上の画像だと、上から二行目、左から二番目の単語の一字目が "s" である(so)。上から五行目、左から二番目の単語の二文字目が "f" である(Ufer)。よく似ているけど、「横棒が右に突き出ていたら "f" 」と覚えておけばまず間違いない(活字がすり減っていないかぎり)。

さらに難易度が高いのが大文字の "B" と "V" の見分け方である。上の画像だと上から三行目、左から二番目の単語の最初の文字は "B" (Bollwerkartige)、同じく上から三行目、左から三番目の単語の最初の文字は "V" (Vorsprünge)である。

これをどうやって見分けろというのか。日本の崩し字みたいにカンで読むよりしかたがない。

『偽悪病患者』


 
少し前の角田喜久雄に続いて今度は大下宇陀児の短篇集が創元推理文庫で出た。全二巻の傑作選になるらしく、その前篇にあたる『偽悪病患者』は初期の名作を集めている……とつい書いてしまったが、名作というよりはむしろ怪作奇作実験作と呼んだほうが適切かもしれない。

一読して驚くのはそのバラエティの豊かさだ。それはたとえば最初期の佐藤春夫みたいに自己の才能を持て余しているようにも見えるし、同時に「探偵小説の魅力はどこにあるのか」を手探りする作者の試行錯誤の軌跡のようにも見える。

長山靖生氏は解説にこう書いている。「犯人の多くはいわばサイコパスで、その功利主義的判断のありようは、生来性犯罪者や犯罪嗜好者と違って我々一般人に近く、その近さが怖さと心の底がヒヤリとするような不気味さをもたらす」。ここに宇陀児の初期作品の魅力が的確にとらえられていると思う。つまり宇陀児的犯罪者は乱歩的犯罪者のいわば対極にあるのだ。

たとえば巻頭の「偽悪病患者」。これは佐野洋の短篇を先取りしたかのような、往復書簡によってサスペンスが増大していく(その巧みさは今読んでもうなる)佳品であるが、いかにも乱歩的な性格を持つ「偽悪病患者」は真犯人ではなく、うわべは「一般人に近い」ある登場人物が平然と人を殺している。ここに乱歩への対抗心を見るのはさすがにうがちすぎとは思うが、ともかくこの犯人のキャラクターは「サイコパス」としか言いようがないではないか。そして探偵役は、物的証拠からではなく、外面に表われた心理の動きから犯人を指摘する。

あるいは「死の倒影」のある登場人物はこう言う。「僕は君が善人であって、それでいてあれだけの悪の美を描き出すことが出来たら、どんなによかったろうと思うのだ。不幸にして君はそうではなかった。そしてあの絵は、君の悪人であることを現すだけに過ぎなくなった」。

おそらく乱歩は根は善人かつ常識人で「それでいてあれだけの悪の美を描き出すことが出来た」のだと思う。ある随筆集のタイトルはいみじくも『悪人志願』である。乱歩にとって悪人とは志願するものだった。

だが宇陀児はどうだったのだろう。「紅座の庖厨」の最後の一行はなまなかな善人には(そしておそらく乱歩にも)書けないもののような気がする。乱歩ならたとえば「赤い部屋」のように夢オチ的に処理するか、あるいは「盲獣」のように「悪人滅ぶ」という結末にもっていくだろう。しかし宇陀児はそうはしない。彼の作品の輝きが今もって褪せない理由はそこらへんにもあると思うのだがどうだろう。

「北の橋の舞踏会」

 
『黄色い笑い/悪意』の感想ではついうっかりマッコルランの作風を「出たとこ任せ」などと書いてしまった。これはまったくの濡れ衣だった。申し訳ない! なにしろ「北の橋の舞踏会」はミステリの技法を使って緻密に構成された小説だったのだから。本書が刊行された1934年前後はいうまでもなく本格ミステリの黄金時代であり、この小説の舞台となったベルギーでも、スタニスラス=アンドレ・ステーマンが盛んに書いていた時期と一致する。

まず最初に老婆心ならぬ老爺心から一言。この小説を読む人はあらかじめウィキペディアの「ゼーブルッヘ襲撃」のページに目を通しておいたほうがいいと思う。

しかし本作はミステリなのだろうか。一人三役(あるいは二人三役?)の跳梁するこの小説は、『両シチリア連隊』と同様、むしろアンチミステリと言ったほうがいいかもしれない。あるいは『毒入りチョコレート事件』ふうの多重解決ミステリともいえると思う。つまり唯一無二の真相は、多くの戦争秘話と同じように、最後まで霧の中に隠れている。ジョゼフィーヌはイギリスとドイツの二重スパイだったのか。それともドッペルゲンガーであったのか。そしてハンスはヤン・ド・フークだったのか。

でも真相なんかは実はどうでもよくて、これは(中井英夫のある種の作のように)第一次大戦が終わって十数年たったあともそのトラウマをひきずり、それぞれの幻視のなかに生きる人々を描いた小説ともいえるかもしれない。

それはそうと、肝心の部分で非常にひっかかるところがある。p.176の1行目から7行目のセリフは誰が言ったのだろう。その直前に「彼(ヤン・ド・フーク)は窓を閉めると[…]わたしの目を見すえた。そして自嘲気味にこう言った」と書かれているので、素直に読めばこれはフークのセリフになる。しかしそうだとするとつじつまが合わなくなる。

このp.176のセリフの5行目には、「ヘントで銃殺されたイギリスの娘の名はまちがいなくジョゼフィーヌ・バークレイです。彼女はドイツ軍にはドーラ・ズウェイフルの名で知られていました」とある。

ところが少し前のp.174でフークはこう言っている。「ジョゼフィーヌ・バークレイであり、ヘルトルーデ・デヴリートルでもあるこの女性の名は、シャルロッテ・フォン・クライストです。彼女はドイツ人で[…]祖国のためにイギリスでスパイ活動をしていました。ドーラ・ズウェイフェルは彼女の親友でしたが[…]」

これははなはだしい矛盾である。p.174ではジョゼフィーヌはドイツ人と言っておきながら、p.176では「イギリスの娘」と言っている。またp.174ではドーラはジョゼフィーヌの親友と言っておきながら、p.176では同一人物と言っている。

いったいどうなっているのか。おそらくp.176のほうは作中の「わたし」のセリフではないかと思うがどうだろう。ともかく肝心カナメの部分がこんなふうにアイマイになっているのが推理の妨げになっていてとても歯がゆい。

マッコルラン・コレクション2


 
待ちに待ったマッコルラン・コレクションの第二巻が出た。今度の表紙は赤天鵞絨である。もしかしたら『黄色い笑い』が黄天鵞絨だったように、集中の「薔薇王」にちなんだ赤なのかもしれない。すると第三巻はどうなるんだろう。タイトルからすれば黒天鵞絨になるはずだが……

まあそんなことはどうでもよろしい。取るものもとりあえず、まずは「薔薇王」を読む。なにしろ澁澤の「マドンナの真珠」の藍本であるというから穏やかではない。ちなみに「藍本 (らんぽん)」とは粉本・手本の意。「マドンナの真珠」にそんなものがあったとは!

しかしあれですね。「マドンナの真珠」を思わせるのは、幽霊船に乗った死んだ船乗りが幼児を拾うという最初の場面だけで、あとは全然違う。「薔薇王」には三人の女も出てこないし赤道も出てこない。少なくとも「犬狼都市」や「錬金術的コント」ほどには原典に似ていないといえよう。乱歩は鷗外の「ヰタ・セクスアリス」の一節から「孤島の鬼」を構想したというが、それと同じように、「薔薇王」も「マドンナの真珠」のヒントにすぎないのではなかろうか。松山俊太郎は『澁澤龍彦翻訳全集』の解説のどこかで「澁澤さんは他人の作品を下敷きにしても、あるところから原典とは全然違ってくる」とかそういう意味のことを書いていたけれど、「マドンナの真珠」もその例にもれない。

これをあえて「藍本」というのは、一冊でも本を多く売りたい版元の謀略ではあるまいか。折からの酷暑で読者の頭もボーとしているから少々ハッタリをかましてもバレはするまいという酷暑刊行会ならではの深謀遠慮にもとづくものではあるまいか。

ただ「薔薇王」のほうも、生と死のパラドックスを軽妙な筆致で描いた名短篇だと思う。これと「マドンナの真珠」のどちらが優れているかは、人によって意見がわかれよう。自分はどちらかといえば、生と死を相対化した「薔薇王」に軍配をあげたいのだが……

叙述トリックとストリック

『狩場の悲劇』の解説を読んだら、これは叙述トリックの一種である、というようなことが書いてあった。いや、それはいくらなんでも違うでしょう、と自分のようなオールドファンは思うのだが、ネットで検索してみると、「叙述トリック」を「語り手=犯人」の意味で使う人も近ごろはいるらしいのがわかった(たとえばここ)。

なぜこんなふうに意味が変わったのだろう。たぶんその淵源は笠井潔の評論書『探偵小説と叙述トリック』にあると思う。ここで笠井は、なぜ『アクロイド』が叙述トリック作品かというと、「一人称小説と思わせておいて実は手記だったから」と説明している(記憶で書いているので正確な引用ではありません)。

これはこれで筋が通っている。しかしこれはやはり笠井一流の論理のアクロバットに近いもので、仮に『アクロイド』が叙述トリック作品であることを認めたとしても、それ以上の一般化はできないと思う。その伝でいけばたとえば乱歩の「人間椅子」だって叙述トリック作品になりはしまいか。手紙だと思わせておいて実は小説だったのだから。でもこれを叙述トリックと考える人はあんまりいないと思う。

ここには一筋縄ではいかぬ問題がある。たとえば中町信の叙述トリック作品以外の何物でもない作品にも「人間椅子」に似たテクニックが用いられている(地の文と思わせておいて実は小説内小説であるとか)。「人間椅子」と中町信の某作品を分かつものは何か。叙述トリックと非叙述トリックの線引きはどこに引くべきか。

何も知らずに何かの叙述トリック作品を読んでアッと驚く*1、その驚きを原体験として、別の作品を読んだときに、アッこの驚きは前と同じものだ、という感じで、いわば帰納的に「叙述トリックとは何か」というものは理解されるものだと思う。「人間椅子」のラストは確かに驚くけれど、それは中町信の某作品の驚きとは異質なものだ。だから「人間椅子」は叙述トリックとはいえない——というふうに。叙述トリックとはそんな風にたくさんのミステリを読んで帰納的に理解されるものであり、それゆえに演繹的に叙述トリックを定義するのは見かけほど簡単ではないと思う。

ただ一つの考え方として、これは前にも書いたと思うが、「読者を、そして読者だけをだまそうとするのが叙述トリック」という定義はどうだろう。『アクロイド』の手記の筆者は作中人物(つまりポワロ)をもだまそうとしているので叙述トリックではない。

ところでむかし斎藤栄が「ストリック」と概念を提唱した。ストーリー自体がトリックになっているというのでこう名付けられたそうだ。斎藤栄の作品はあまり読んでいないので断言はできないが、どうやら地の文と作中人物の書いた小説を故意に混同させるテクニックのことをいっているらしい。とするとこれは叙述トリックの一分野ということになるかもしれない。そして『アクロイド』はどう考えてもストリックではないと思う。

*1:ちなみに自分が初めて読んだ叙述トリック作品は小泉喜美子の某長篇で、何の予備知識もなかっただけにたいそう驚いた。

『お住の霊』

 
湯田伸子のマンガに「ラジオ・ダルニー」というのがある。この作品では日本が第二次大戦で勝利していて、主人公の女性は大連(ダルニー)の放送局でディスクジョッキーをしている。やがて彼女は今いる世界が、自分の老母の思念が作り上げた夢であると知る。母の死とともにこの世界も終わることを知っている日本軍は、必死で母の延命を図ろうとするが……という話。中井英夫の『他人(よそびと)の夢』にも似た発想があったと思う。

岡本綺堂の膨大な作品群に接するとこの「ラジオ・ダルニー」が浮かんでくる。江戸から明治、日本から満州、さらには中国や欧米の怪談へと時空を超えて広がる綺堂の文業は、そのバラエティに富んだ題材でひとつの世界をつくりあげている。だが「文章で独自の世界を作りあげるのだ」という気負いはそこには感じられない。ちょうど半七老人の昔話のように、何もかもがざっくばらんに語られるのみだ。その不思議な浮遊感、不思議な現実感のなさ、そしてしばしば謎を残したまま終わる物語は、すべてが綺堂の見た夢であるかのようだ。

そしてこの世界は、「ラジオ・ダルニー」の老母の夢とは違って、綺堂の死とともには終わらない。たとえば乱歩と同じく、綺堂も絶え間なく文庫の新刊が出て、今に生き続けている。

今度出た東雅夫さんの新刊も、"Kido is alive and well." を示す嬉しい一冊で、舌なめずりしながら読んだ。巻頭の「五人の話」は、一話をのぞいて今回が初単行本化であり、一堂に会した面々が一人ずつ奇譚を語っていくという綺堂十八番の趣向の連作である。「お住の霊」や「青蛙神」など、意外なところで旧知に出くわすような驚きもある。怪奇戯曲「平家蟹」が初演されたときには、機械仕掛けの蟹の大群が舞台をゴソゴソ動き回っていたらしい。どこかでそう読んだ記憶がある。その舞台写真も見たような気がするがハテあれは何の本だったろう。

星とハートリー

 
まだ星新一を読んでいる。星新一もまた夏の読み物だと思う。扇風機と蚊取り線香がよく似合う。

『かぼちゃの馬車』の最終話はL.P.ハートリーのある短篇と発想が同じなので驚いた。共通の願望でもあったのだろうか。

ただ性格は大違いだったと思う。昔の日記に書いたように、ハートリーには動物をいじめるのが好きなサディスティックな一面があったのかもしれない。しかしまさか星新一はそんなことはなかっただろう。