週刊新潮も制覇!

『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』の快進撃はなお続き、「週刊新潮」2月28日号にも書評が載ったようです。石井千湖さん、ありがとうございます。


いっぽう聖杯プロジェクトも新たなステージに入った模様。中野さんにもお礼を言わなくては。


こういうのを見ると自分でも何かやってみたくなりますが、まずは『イヴ』の翻訳を進めるのが先と思ってがまんがまん。

わが創元推理文庫神7(その5)

創元推理文庫は全集の宝庫でもある。とくに和物探偵小説の分野でそれは顕著で、『土屋隆夫推理小説集成』とか、『中村雅楽探偵全集』とか、『天藤真推理小説全集』とか、『渡辺温全集』とか、『大坪砂男全集』とか、はては『高城高全集』とか、正気の沙汰とも思えない企画が続けざまに放たれている。でもことごとく愛好家の秘孔を突いたものばかりだ。読者の弱いところを知り尽くしているのがにくい。

そこで神7の五冊目は全集ものからピックアップして、これ。

ラヴクラフト全集 (3) (創元推理文庫 (523‐3))

ラヴクラフト全集 (3) (創元推理文庫 (523‐3))

ラヴクラフト全集はすでに創土社から出つつあったので神7ルールに抵触する気もするが、無事完結した文庫版全集に敬意を表してあえて選んだ。ラヴクラフトの全集を文庫で出すなんて当時は暴挙としか思えなかった。

この本の訳者大瀧啓裕氏といえば、われわれの世代では、サンリオSF文庫における活躍がまず印象に残っている。何しろ見たことも聞いたこともない傑作が大瀧プロデュースでホイホイ出てくるのだ。のちに出た『魔法の本箱』で、夥しい量の原書を渉猟されていることを知り、さもありなんと納得した。

『探偵ダゴベルトの功績と冒険』の打ち合わせで東京創元社にお邪魔したときの話である。話題がたまたま大瀧氏の訳した『文学における超自然の恐怖』に及び、何気なくわたしは「あの〈カズマパラトゥン〉はすごかったですね」と口にした。

すると編集者の方は「見損なってくれちゃ困るわね」とでも言いたげな顔になって、「〈カズマパラトゥン〉はうちの方が早いんですよ」と教えてくれた。他社の後塵を拝していると思われるのは心外である、というような口ぶりだった。

あとで調べてみたら確かにそうだ。『ゾティーク幻妖怪異譚』の解説ですでに〈カズマパラトゥン〉は使われていて、これは2009年8月の刊行だから、同年9月に出た『文学における超自然の恐怖』より一か月だけ早い。おそれいりました! 厳密な校閲をもって鳴る東京創元社と厳密な発音表記の大瀧氏が組むと最強のタッグチームになるのだなと感服してわたしは社屋をあとにしたのだった。

ストーリセンド版の前書きについて

今日は創元推理文庫神7の話はお休みにして、近く出るはずのキャベル作品集のことを少々。この作品集の翻訳底本は、中野善夫さんとの打ち合わせでストーリセンド版作品集にすることに決まった。この版の各巻にはキャベル自身による長い前書きが付されている。中野さんからの質問のメールで、この前書きも訳すかどうか聞かれたとき、実はわたしは消極的な返事をした。

だが信じてほしい。それはけして訳すのが面倒だからとかそういう理由ではない。

『ジャーゲン』は1919年に、"Figures of Earth"は1921年に、『イヴのことをすこし("Something about Eve"の仮題)』は1927年に刊行された。それに対してストーリセンド版作品集の刊行年は1927-30年だ。だから各巻の前書きも、「この本を書いたときはああだった。こうだった」みたいな回想調で書かれている。そしてそれらは本文と独立した読み物としても面白い。なにしろこれらの前書きを集成した"Preface to the Past"という、キャベル愛好家には楽しく読める本さえ出ているくらいだから。そしてその本に寄せ集めの感はなく、ちゃんと一冊の本として成立している。


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だがこの「一冊の本として成立している」というのがクセモノで、逆から言うと、たとえば『イヴのことをすこし』の前書きだけ読んでも、一冊の本の中途の一章だけを読んだみたいな尻切れトンボの感じがするのだ。

でもそれはキャベルの罪ではまったくない。これはストーリセンド版作品集の前書きなのだから、キャベルはもちろん、その全十何冊かの作品集が読者の前にどかーんと置かれてあるという前提で前書きを書いている。十何冊かのうちの三冊しか読まない読者、あるいは三冊しか出さない版元のことなど眼中にあるはずもない。

さらに同じ理由で、ひとつの巻の前書きで、他の巻に収録されている作品がしきりに言及される。なかにはねたばらしすれすれのものもある。これも三冊だけ刊行という場合にはネックになりそうな気がする。

そんなわけでわたし自身はちょっと消極的なのだが、なにがなんでも省くべきだとまでは思っていない。幸いにもわたしの『イヴ』より『ジャーゲン』のほうが先に出る。もしそこで中野さんが前書きも訳していたら、わたしも訳すのにやぶさかではない。すなわち究極のあなたまかせである。

実際この前書きはものすごく面白いといっていい。創作秘話とか自作の評価に対する評価とかあらぬ脱線とかが満載である。キャベルには"Let me Lie"とか"As I remember it"とかの自伝的エッセイがあるが、ストーリセンド版の前書きもそれと似た調子の、人柄のよく出た、ざっくばらんな座談調で書かれている。だがそれも、キャベルを何冊か読んだあとでないと魅力がとらえにくいような気がする。願わくば今回の三冊の刊行によって世にキャベル愛好家が激増しますように!

わが創元推理文庫神7(その4)

創元推理文庫はアンソロジーの宝庫でもある。永遠のロングセラー(たぶん)『世界推理短篇傑作集』『怪奇小説傑作集』を除けても『恐怖の愉しみ』とか『怪談の悦び』とか『淑やかな悪夢』とか『日本怪奇小説傑作集』とか『秘神界』とか、あるいは七年前の「ミステリーズ!」で予告されながら今はトワイライトゾーンに入った感のある全三巻の某巨大アンソロジーとか、単行本だと荒俣御大の『怪奇文学大山脈』とか超ゲテモノの大盤振舞『怪樹の腕』とか。

こうしたアンソロジーに全力投球する東京創元社のスタンスは(あまり表立って言われたことはないと思うけれど)素晴らしく好ましい。今後もこの方向に邁進してくれればと切に願う。

そもそも怪奇小説とアンソロジーというのは切っても切れない縁がある。英米でも "Not at Night" とかシンシア・アスキスとかピーター・へイニングとかすぐ名が思い浮かぶ。あるいは東雅夫さんが怪奇小説の権威であり、かつ名アンソロジストでもあるというのはほとんど必然みたいなもので、二にして一のものだと思う。

もちろんSFやミステリでもアンソロジーは盛んだけれど、怪奇小説ほどではないのではないか。なぜだろう。百物語への嗜好と何か関係があるのだろうか。

それはともかく神7の四冊目は創元アンソロジー群団のなかで現在唯一手に入りやすい『怪奇礼讃』。これは十五年くらい前に一度出て最近復刊されたものである。衰えぬ人気のほどがしのばれる。

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この本については当ブログでは過去にさんざん語ったので(たとえば2017年9月26日の項)ここでは繰り返さない。アンソロジー・ピースもアクセントとして交えつつ、本邦初訳をメインにして思い切って自分の好みで選び、それでいながら普遍性もそなえているというアンソロジーの王道だと思う。あと作品がたくさん入っているのもお得感があっていい。

わが創元推理文庫神7(その3)

神7の三番手はこれ↓。

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このシリーズから選ぶとすれば1巻か4巻しかありえない。残りの2、3、5巻は収録作品が少々変わっても全然アリだが、この二巻だけはそれは(順番も含めて)動かせない。仮に将来、『世界推理短篇傑作集』みたいに新版が出るとしても、この1巻と4巻だけはみだりに内容を変えないよう切にお願いしたいと思う。

それはそれとして1巻か4巻のどちらを選ぶか。これが究極の難題である。あたかも子供に向かって、「パパとママのどっちが好き?」と問うようなものだ。なんというむごたらしい質問であることか。いや今の場合は自分が自分に聞いているのだけれど。

結局「4という巻数が不吉でいい」「収録作品がこちらのほうが多いのでお買い得である」といった、理由にもならぬ理由によって4巻にした。ここには「緑色の怪物」「草叢のダイヤモンド」「罪のなかの幸福」「恋愛の科学」「仮面の孔」といった、この世のものとも思えない作品がおさめられている。

むかし読んだときは青柳パートが邪魔で邪魔で、「よりによって『列車〇八一』かよ」などと思っていた。だがその後、澁澤パートだけを収めた『仏蘭西短篇飜譯集成I』『仏蘭西短篇飜譯集成II』が立風書房から出るにおよんで少し考えが変わった。これはこれでたいへん結構なものだが、お行儀がよすぎるというか、何とかを入れぬコーヒーみたいな感じがする。青柳瑞穂の一時代前のモダニズム趣味と、ブルトンの洗礼を受けた澁澤趣味が危ういバランスでうまく溶け合っているこの4巻こそが最上のもので、ここに収録されてこそ「草叢のダイヤモンド」その他も一段の光輝を増すのだと思う。

わが創元推理文庫神7(その2)

神7の二番手はこれ。

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マクロイは傑作揃いでどれを挙げようか迷う。しかし『暗い鏡の中に』は早川書房のほうが先に出たし、『家蠅とカナリア』にも別冊宝石に訳があるので神7のルールにしたがってこれになった。『家蠅とカナリア』の真犯人が危険を冒してでもカナリアを逃がさなければならなかった心情なんか、マクロイ節がひしひしと身に沁みてすばらしいのですけれどね。ウィリング博士の心理学的講釈さえもそらぞらしい屁理屈に聞こえるくらいに。

しかし本格ミステリ的な仕掛けではこの『逃げる幻』がはるかに勝っている。これが油断ならないのは、冒頭数十ページでいわば催眠術をかけて読者をある盲点に陥れるところだ。最後まで読んで真相を知ると、「こ、こ、こ、このヤローーーー!」と叫んで本を壁に叩きつけたくなる。もちろん賞賛の意をこめて。(ちなみに作者は女性なので野郎よばわりは不適切である。) つまりそれほど鮮やかに読者を瞞着する技が決まっているということだ。

この作品は、この時代で、この場所でなければありえない犯罪を描いている。そういう意味ではトマス・フラナガンの『アデスタを吹く冷たい風』などと類縁のものだ。しかしマクロイは「この時代」と「この場所」のミスマッチを謎の構成に最大限に利用している。そして作者の筆の魔術はそれをそれと悟らせない。真相を知らされてはじめて「アッそういえば!」と納得することになる。作中でどういう意味があるかわからない(あまり本格ミステリらしからぬ)無茶な犯罪が行われるのだが、犯人がわかってからだと(ことにその隠された性格がわかってからだと)ああそうなのかと深く納得する。

わが創元推理文庫神7(その1)

東京創元社2019年新刊ラインナップ説明会で北村薫氏と宮部みゆき氏が創元推理文庫の神7作品を選んでいた。それを見ると自分でも選んでみたくなった。
ただし選出にあたっては次の縛りを入れる。

  1. 東京創元社オリジナルであること。(つまり既に他社で出た本の文庫化あるいは新訳ではないこと)
  2. 今でも容易に手に入る本であること
  3. 今回は海外作品のみに絞り、かつ創元SF文庫は除外する

最低これくらいは条件をつけないと、とても選びきれるものじゃないから。

で、まず登場するのはこれ ↓

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創元推理文庫はこの他にもクェンティン作品をいろいろ出してくれていて、それには非常に感謝するしどれもまずまず面白く読んだけれど、読み終わっていつも必ず思うのは、「それにしても『二人の妻をもつ男』は傑作だった!」ということだ。そのくらいこれは他のクェンティン作品より頭二つも三つも図抜けている。間然するところのない作品とはこういうものを言うのだろうか。

それなりに幸福な生活を送っている男が別れた前妻にたまたま会って焼けぼっくいに火がついてしまうという、あまりといえばあまりにも陳腐なメロドラマでこの小説ははじまる。ところがどっこい、読むにつれてこれが驚くべき展開をするのだ。つまり初めのうちは作者のプロットの都合で操られるままと思えた登場人物たちが、隠された裏面を顕すにつれて、どんどん血の通った人間になっていく。三島由紀夫はかつて『Yの悲劇』をくさして「犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかってしまうと、彼らがいかにも不用な余計な人物であったという感じがするのがつまらない。この世の中には、不用で余計な人間などというものはいないはずである」と書いた。だがこの『二人の妻をもつ男』には不用で余計な人間は一人も出てこない。下手をすると主役より脇役のほうが魅力的で読後の印象に残るくらいである。

ここに出てくるのはほとんどが悪人あるいは人間的欠陥を持った人物ばかりだ。つまり犯人がいちばん悪い人間というわけではない。ところが不思議と誰も憎めない(ただし被害者は別)。憎めないどころか好きになってしまう。これを作者の筆の勝利といわずしてなんといおう。そして犯人は物語の中途でさりげなく表舞台から去り、あとは他の登場人物の会話によってその隠された性格や犯罪動機が明らかにされる(ここらへんは宮部みゆきの『火車』のおしまいのほうにちょっと似ている)。それも非常によろしい。

物語の終盤に、語り手が登場人物の一人を「お前が犯人だ!」とばかりにつかまえて、その理由を縷々説明するシーンがある。ところがああ何ということか、相手はにわかに破顔一笑して、「君が犯人がわかったといったときには、おれは君がほんとうにわかったのかと思ったよ」と言うのだ。つまりこの相手(ちなみに探偵役ではない)はとっくの昔に犯人の見当がついていて、語り手だけがそこに気づかなかったというわけだ。このシーンのコミックな味わいだけでもこの作品は傑作の名に値すると思う。