平井と小林信彦


 

(これは昨日の日記の続きです)

こういう、フランス料理を箸で食べるような感じにときどきなる平井の翻訳態度が、ある種の人たちをいらだたせるのは当然といえば当然だろう。「ある種の人たち」というのは、大ざっぱにいうと海外の文化にあこがれる人たちである。

小林信彦はまぎれもなくそうした者の一人で、アメリカ文化へのあこがれは、たとえば『ぼくたちの好きな戦争』に痛いほどあらわれている。おそらく都筑道夫にしてもそれは同じだと思う。

この小林信彦は、身辺の人物を極端にカリカチュアライズして喜劇的人物に仕立てるのが得意であった。『仮面の道化師——定本小林信彦研究』をまとめた藤脇邦夫によれば、小林信彦の第一長篇『虚栄の市』の主要登場人物には全員モデルがいるという。藤脇氏はそのモデルを「全員当てられると思う」とこの本に書いているが、自分には大藪春彦と宇野利泰くらいしかわからない。モデルにされた宇野がこの『虚栄の市』を読んだときのエピソードは宮田昇の『戦後「翻訳」風雲録——翻訳者が神々だった時代』に出てくる。

そういう人であるから平井呈一も標的にならないわけはなくて、平井をモデルにしたとおぼしい短篇がひとつある——いやモデルというと言いすぎかもしれない。ヒント程度だろう。何かというと、短篇集『発語訓練』に収められた「翻訳・神話時代」で、ここで小林は「久保田万太郎の弟子にあたる人が訳した『マルタの鷹』」なるパスティーシュを試みている。

その一部が上の画像で、小林はもちろんギャグのつもりでこれを書いているのだが、自分のような平井ファンにはこれはこれで悪くないと思う。この調子で訳された『マルタの鷹』の全文を読んでみたいとさえ思う。

日夏と平井


 

『迷いの谷』が出た。さいわい好評のようでうれしい。漏れ聞く噂によれば今度の『ジャーロ』でも取りあげられるという。そこでこの機会に解説で書き漏らしたことをひとつふたつ。

平井呈一と日夏耿之介はどちらもゴシック・ロマンス移入の功労者で、また超自然に親しんだ者であるが、ゴシック・ロマンス(あるいはさらに話を広げると怪奇小説)へ向けるまなざしは正反対といっていいように思う。日夏の愛したポーに平井が妙に冷淡であるところにそれは端的にあらわれている。

日夏は晦渋で綺語にあふれた自らの詩体を「ゴシック・ローマン詩体」と名付けた。つまり日夏のゴシシズムはロマン派寄りのもので、そこには彼方への憧れ、まだ見ぬものへの憧れがある。つまり中世にあこがれたホレス・ウォルポールと同じように(あるいはウォルポールの感化を受けて?)日夏はゴシックにあこがれるのである。

ところが平井は「彼方」というような距離感とは無縁だったように思われる。むしろゴシックに親しむことはそのまま己のふるさとへの回帰だったように思う。建部綾足の文体模写で訳した『おとらんと城綺譚』は日本文学史上の一大奇観ともいうべき摩訶不思議なもので、比肩できるものとしては昔国書から出た神西清のバルザック訳しか思い浮かばないけれど、どういう心的機構を通ってこういうものができたのだろう。それはドルリー・レーンのせりふに躊躇なくある歌舞伎役者の口調を移してしまうこととつながっているような気がするがどんなもんだろう。

日本男児ここにあり


 

盛林堂ミステリアス文庫の新刊は渡辺啓助。この前皆進社から出た『空気男爵』がやや期待外れだったので、今度の啓助はどうだろうとおそるおそるページをめくってみた。だがこれは大当たりだった。まだ最初の二篇を読んだだけだが、めっぽう面白い。短い枚数で波乱万丈の物語を要領よく語る腕の冴えがみごとだ。

一篇目は放浪医師の話、二篇目はコモド島でコモドオオトカゲと戦う話で、どちらも日本男児が秘境で大活躍する。二篇とも昭和十七年、つまりシンガポール陥落の年に発表されたもので、当然ながら大国策小説である。

しかしいくら国策に沿っていたからといって、たとえばイギリス文学でいえば、『キム』や『知恵の七柱』を読まないのはあまりにもったいない。そうした時代環境ならではの人間精神の広がりというものがあって、それは他の時代には求めがたいものだからだ。

同じように、かつての日本が植民地を求めて秘境や人外魔境に進出していたという経験は貴重なものだ。善悪の問題は別として、そういう事実がなければ広がらなかったであろう想像力は絶対にあるだろうから。

同時にこれは明治の押川春浪と戦後の香山滋の人見十吉ものやウルトラQをつなぐミッシング・リンクの一本であるような気もする。もちろん秘境冒険小説には他に虫太郎のものもあるが、主人公が変に屈折していて(まあそこがいいのだけど)春浪直系熱血路線とは言いかねる。

ウルトラQではやたらに怪獣が東京を襲うけれど、あれはもしかしたら、日本が秘境に進出していた記憶の遠い残響ではあるまいか。

実在したケルト・ルネサンス様式


 

黒死館附属幻稚園の新刊がすばらしい。今回の文学フリマで出たマーガレット・オリファント『秘密の部屋』である。これも黒死館研究史に新たな一歩をしるすものだと思う。

『黒死館殺人事件』の舞台、黒死館の建築様式は「ケルト・ルネサンス式」であるらしい。しかしこれは作者虫太郎の捏造というか妄想の産物であるというのが今では定説になっていると思う。しかしこの『秘密の部屋』を読んであっとびっくり。最初のページにこんなくだりがある。

「アングロサクソンの王族は初期ケルト文明の技術を一つにまとめて整備しようとしていたが、彼らが技術を互いに持ち寄る頃には、少なくともゴーリー城の一部は完成していたのである。初期のケルト文化とは、例えば未完成の墓の上に切り出した石を載せたり、十字架に神秘的な結び目を捩って飾りつけるような技巧の中に認められるものだ。ゴーリー城の装飾にはこうした原始的なケルトの遺風を見出すことができる。」

つまりこのゴーリー城は古代ケルトの文化や技術を今に蘇らせて建てられたものらしい。これがケルトの再生、ケルト・ルネサンスでなくて何であろう。

しかもこのゴーリー城はスコットランドにあるという。いやでも黒死館の建つ丘の描写「ちょうどそれは、マクベスの所領クオーダーのあった——北部蘇古蘭 (スコットランド) そっくりだと云えよう。そこには木も草もなく……」を思い合わさざるをえない。

むろんこのゴーリー城のモデルとなった(と巻末解説に書いてある)グラームス城がケルト式であったかどうかはわからない。つまりケルト・ルネサンス様式の建物が「実在」したとはかぎらない。

むしろ虫太郎とオリファント夫人が時をへだてて同じ城館の夢を見た可能性が大きいと思う。だがそれはそれでボルヘス的な驚異ではあるまいか。

文学フリマ御礼とおわび

昨日の文学フリマでは大勢の方に来ていただきありがとうございました。

一月の文学フリマ京都では5部、二月の文学フリマ広島では1部しか新刊が売れなかったので、たかをくくって15部くらいしか作って行かなかったところ、予想を上回る方に来ていただき、40分ほどで全部売り切れてしまいました。まことに申し訳ありません。

また今回は会場が二手に分かれていたためもあり、ひんぱんに席を外してしまいました。そのため留守のときにお見えになった方もいらっしゃったかもしれません。まことに失礼しました。

それにしても今回はとても文学フリマとは思えない人出でした。あたかも三日目のコミケのようです。これは完全な誤算でした。反省して次回に臨むつもりなのでどうか見捨てないでくださいますよう。

明後日は文学フリマ

ということで明後日は文学フリマですが、おかげさまでなんとか新刊が出せそうな雲行きです。それから商業刊行物で現在品切増刷未定のものも何冊か持っていきます。

それから矢野目源一の『ゆりかご』が、あと3~40部くらい探せば在庫があるはずなので、見つかったら持っていきます。しかし新刊作成が忙しすぎて探す時間があるかどうか……いやそれ以前に寝る時間があるかどうか……奇絶! 怪絶! また壮絶!!!

あとそれから黒死館附属幻稚園から久々の新刊が出るそうです。なんとマーガレット・オリファント! 実に楽しみではありませんか。

仙台はいい町だ


 

『本の雑誌』六月号の掲載図書索引をながめていたら「テュルリュパン」の文字が。すわ何事かと該当ページを開くと、佐藤厚志氏が「図書カード三万円使い放題」でこの本を選んでくださっていた。ありがとうございます。

佐藤氏によれば氏の勤務先丸善仙台アエル店では、「白水uブックスの『第三の魔弾』は根強い人気で棚指しで定期的に売れている」そうだ。仙台はいい町だ。『第三の魔弾』がコンスタントに売れるとは。機会があれば一度行ってみたいと思う。

北原尚彦・永江朗・中野善夫三氏による「無尽蔵に本を置ける本棚が欲しい!」は例によって異次元を垣間見るような座談会。除湿器ってそんなにどこの家にもあるものなのか。加湿器ならわかるけど——。おすすめの機種を教えてほしい気もする。でもわが家の場合は除湿器を設置する場所を確保するのが先決か。いやいやそれより前に掃除をするのが先決か。

「本棚が見たい!」には国会図書館勤務の鈴木宏宗氏が登場。本棚にずらり並ぶ専門書にまざって『ヨコジュンのびっくりハウス』があるのがうれしかった。アメリカのディズニーランドでバンビのくつ下を買ったエピソードなどが出てくる例の本である。

ヴィヨンと皇帝ネロ


 

ヴィヨンといえばこの機会に大々的に宣伝したいのですが、拙訳『イヴのことを少し』にもヴィヨンは出てくるのですよ。しかもあの皇帝ネロと友だちでいっしょに旅しているのです。文字通りの悪友ですね。悪者でありながらどちらも文学に憑かれていた二人をペアにするというところに作者キャベルの着眼が光ります。

この『イヴのことを少し』は、少なくともアマゾンの順位で見るかぎりでは、わが訳書の中でダントツに売れていない本なのです。今見たら順位1,000,000位という国書史上でも未踏の領域に近づきつつあります。おお……

何が悪いんでしょうね? あんなに面白いのに。もしかしたら煉獄の炎でカバーを焼かれたほうがよかったのか……。あるいは三冊シリーズの第二巻なので、まず『ジャーゲン』から読まなくては、と思った人がいるのかもしれません。そこで声を大にしていいたい。『イヴのことを少し』はこれだけ単独で読んでも全然大丈夫! ですから『ヴィヨン全詩集』を買う人はもれなく『イヴのことを少し』も買ってくださいね。二冊合わせても『マルセル・シュオッブ全集』より安いです。


ここで鎌倉のほうからタレコミあり。花田清輝『復興期の精神』の中の「楕円幻想 ─ ヴィヨン」の初出にはヴィヨンの花田訳が入っていたそうです(単行本では削除)。



なかなかいい味を出してますね。もっともこれも渡辺一夫に見せたら「ヴィヨンとはこんな方ではなかったと思いますが」と慇懃無礼に言われそうですが。

中世フランス詩という魔笛


 

毎度お騒がせの国書刊行会がまたまたすごいものを出した。宮下志朗氏の翻訳・註解による『ヴィヨン全詩集』である。問題の国書税も『マルセル・シュオッブ全集』などに比べればだいぶ手加減してくれているのがありがたい。日本国も国書に倣って減税をしてくれないものだろうか。

矢野目源一、佐藤輝夫、渡辺一夫、鈴木信太郎から天沢退二郎、堀越孝一、そして今回の宮下志朗氏にいたるまで、中世フランス詩に魂を奪われた人たちは文学史に連綿と続いている。もちろん宮下氏が最後尾ということはあるまい。魔笛に誘われて行進に加わる者はこれからも出てくるだろう。

そして不思議なのは、訳されるたびに作者ヴィヨンがどんどん若返っていくことだ。今回の訳詩に映るヴィヨンの面影はいままでで最年少の感じがする。「俺のものは何もかもお前らにくれてやるよ、じゃあな、あばよ」みたいな感じで延々と続く詩行はデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』みたいな切なさにあふれていて、今に生きるわれわれの心をも打つ。延々と続くその長さに言葉とは裏腹の未練が感じられて切ないではないか。

ちなみに矢野目の「ふともも町の角屋敷」の一節は、今回はこんな感じに訳されている。弁天様から花唇まで。思えば遠くに来たものである。


 
むかし渡辺一夫が太宰治の「ヴィヨンの妻」を読んで「ヴィヨンはこういう方ではなかったと思います」(大意)とどこかに書いたら太宰が怒って「お前は翻訳だけやってりゃいいんだ」(大意)と言い返したことがあった。太宰の見たヴィヨンは渡辺一夫の見たものよりずっと若々しいものだったのかもしれない。

この本には帯裏にマルセル・シュオッブの言葉として「力や、権力や、勇気だけが、なにがしかの価値を持った世紀にあって、彼は小さく、弱く、卑怯で、嘘つきであった」とある。おそらく太宰とシュオッブのヴィヨン理解には共通するものがあったのだろう。ひとり渡辺一夫だけが異質なのである。

だから太宰は怒ったというより渡辺一夫の無理解にあきれたのかもしれない。キリストに背くキリスト者としてのヴィヨン——それはおそらく渡辺一夫の理解の埒外にあったものだろう。

それはともかく書誌も広く目配りがきいていてたくさんのことを教えられた。書目のたんなる羅列ではなく「(この本は) もっと読まれてよい」「これは全訳とはいえない」「以下のサイトがおすすめ」などの短い評価コメントがついているのがうれしい。(ちなみにスティーヴンスン「その夜の宿」は古典新訳文庫から南條竹則氏による新訳が出ている)