Webちくまに「ペルッツの世界」が

百合のことはひとまずおいといてたまには宣伝を。

先日雑誌「ちくま」に掲載された「ペルッツの世界」がWebちくまでも公開されました。よろしければ読んでいただければと思います。

ツイッターとか読書メーターとかを見る限りでは『テュルリュパン』はなかなか好評のようでありがたく思っています。これがある程度売れてくれれば今や幻となってしまった例の作品も再刊できるかもしれません。

これが百合か3


 
『安達としまむら』を十巻まで読んだ。いや~よかった。感服つかまつった。これが百合か。百合というものか。なるほどね~。これが男女の恋愛だったらここまで切なくひたむきにはならないように思う。

恋愛感情のひたむきさでこれに近い読後感のものに、中井英夫の『月蝕領崩壊』があった。しかしあちらは不治の病という禁じ手を使っているし、何より実話である。それに対してこちらはアニメ調のイラストが入ったいかにもラノベ風のフィクションである。そのフィクションの力で、しかも悲劇的なイベントをいっさい起こさず、能天気なままであれに拮抗している。

だがこちらにも死のテーマはおぼろに浮かんでいる。しまむらの祖父母の家の老犬がいまにも死にそうで、祖母が定期的にその写メを送ってくるのだ。いや、「死のテーマ」というよりは、時間の移り変わりのテーマといったほうがいいかもしれない。それは高校生から社会人への移り変わりであるし、人としての成長でもあるし、もちろん時間の経過にともなう恋愛感情の変化でもある。だってほら、十巻を読み終った時点で一巻の体育館二階のシーンを振り返ると、「はるけくも来つるものかな」って感じになるじゃないですか。

この小説には老若あわせて四組の百合カップルが登場する。しまむら母と安達母も合わせると五組かもしれないが、これはさすがに百合とはいえまい。あと樽見を入れるとすれば四組半か。しかし四組あるいは四組半のうち二組は、ほんの短いシーンで一回だけ、それも間接的な暗示で現われるにすぎない。しかしそれが小説に奥行を与えているし、百合初心者へのガイドともなっている。

これが百合か2


 
『安達としまむら』の六巻以降は結局多摩センターの丸善で買えた。こちらにもやはり「2020年10月8日(木)から放送開始!」という、すでに放映終了したTVアニメの帯がついている。これが何を意味するかというと……もしかすると多摩センターはうどん県と同じくらいの田舎なのだろうか? より都心に近い他の書店、たとえば経堂の三省堂には、電撃文庫の入間人間作品は本年刊行の『私の初恋相手がキスしてた』1,2しか置いていないのだから。

それはともかく、そういうわけで今『安達と~』の七巻を読んでいるところなのだけれど、未読の方に配慮して故意に曖昧に書くと、安達の狂恋ぶりがどんどん亢進していくのが気になる。この作者のことだから、どんな鬱展開になってもおかしくない。まさか「エミリーに薔薇を」みたいなことにはならないとは思うけれど……。ともかく「読むのをやめろ! 引き返せ!」という赤信号が、あたかも『マルドロールの歌』の冒頭のように灯っている感じがするのだ。百合というのが大体わかったからここらへんで止めておくのが無難か? いやしかしヤシロ(やっちー)の正体だけは見とどけたい。

これが百合か

すこし日記の間が空いてしまったけれど、そのあいだ何をしていたかというと『安達としまむら』を読んでいた。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』で衝撃的なデビューを飾った入間人間の二〇一五年の作品である。
 

 
これを読んで百合というものがわかったような気がした。

 これが百合か
 百合というものか
 ああその水は
 糖分に満ちている

……いやそうじゃなくて、これは安達という人見知りで人付き合いの苦手な高校生が、しまむらという同級生が好きで好きでたまらなくなって、いろいろジタバタする話である。そのしまむらというのが、安達の気持をあまり理解できず、妹みたいなものと思っている。しかもしまむらには姉体質があって、妹に慕われるし、小学生時代の同級生にも慕われるし、安達にはライバルが多くてさあ大変、なのである。

複数一人称というか、それもかなり多くて六、七人くらいの視点を代わる代わる採用する、いわゆる多元描写が用いられているのだが、それが自然に決まっているところに、小説のうまさが光っている。一人だけ視点人物にならないのがいて、それがどうやら宇宙人らしいのも「おぬしなかなかやるな」という感じである。

うまいといえば文章もうまい。何よりも揺れ動く安達の心理をこれでもかというくらいに丹念に描いてくれていて、それが自分のような百合初心者には非常に助かる。百合というものが当たり前に存在する地点からスタートする物語は初心者にはきびしい。これくらいていねいに描いてくれればなんとかついていける。なるほど、自分の中学時代を思い返してみても、いつも一緒にいる女の子二人がいた。ああいうのの発展形が百合の、少なくとも一形態になっていたのですね。

ところでこの間まで故郷のうどん県に帰省していて、『安達としまむら』もそこで五巻まで読んだ。東京に帰ってさあ続きを読みましょうと思ったら、これがどこにも売っていない。うどん県のジュンク堂には「2020年10月8日(木)から放送開始!」という帯を堂々とつけた本が一巻から十巻までピシっと並んでいたのに……。都会では電撃文庫は賞味期限の短い消耗品なのだろうか。おかげで深刻なしまむらロスである。

『地獄の門』


 

訳者解説によれば、作者モーリス・ルヴェルは何百もの短篇を書きながら、多くは新聞に掲載されたきりで、生前は二冊しか短篇集が出なかったという。なんだかジャック・リッチーみたいですね、作風は大違いだけれど。ともあれ読み捨てられたはずだったそんな文章が、極東の島国で丹念に拾い集められ一世紀をへて出版されるとは、作者も墓の下で驚いているのではあるまいか。小説というものの不思議な性質に思いをいたさずにはおれない。

「雄鶏は鳴いた」みたいなシャープな落ちのついた作品も中にはあるが、多くは何らかの事件が語られるだけで、そして語られたきりでそのまま終わる。大時計とか黒眼鏡とか古井戸とか、さりげないけれど効果的なオブジェが中心に据えられて印象を鮮やかにしている。

語られるのはおもに不幸で無気力で、運命のなすがままに翻弄される人たちである。その点では日本の私小説とか心境小説とかいったものに似ている。たとえば芥川の「トロッコ」など「校正の朱筆を握っている」うんぬんという最終パラグラフさえなければ、そのままルヴェルの世界といっていいくらいだ。創元推理文庫版『夜鳥』が何度も版を重ねたように日本で愛好される訳はそこにもあるのかもしれない。

ただ私小説などと違うのは語られるのが異常な事件というところだ。しかしそれにもかかわらず、「それがどうかしましたか? しょせんこうなるしかなかったんですよ」みたいな感じで、それこそ私小説風に淡々と語られる。この淡々と語るところに独自の小説技巧があることは注目すべきだと思う。それは「アア諸君、なんというおそろしいことでありましょう」とかそういうものの対極にあるものだ。

『ちくま』と『本の雑誌』


 
筑摩書房のPR誌『ちくま』5月号に「ペルッツの世界」を寄稿しました。この雑誌はヒグチユウコさんの絵がすばらしく、失礼な言い方になるかもしれませんが、この表紙絵は印刷も含めてPR誌にはもったいないくらいのクオリティです。ヒグチさんは表紙裏のマンガも面白いです。

わたしの原稿はペルッツ紹介という感じで書きましたので、ペルッツを知らない人もご一読いただければありがたいです。

ところで、やはり5月号の『本の雑誌』を読んでいたら、「黒い昼食会」という匿名座談会で、今はウクライナの本がすごく売れているとある方が発言していました。「中公新書の『物語 ウクライナの歴史』もあればあるだけ売れる」というから大変なものです。ウクライナ出身の作家ブルガーコフも注目を浴びているみたいですね。

実はちくま文庫で出たペルッツの『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』にも、ロシア革命当時のロシアとウクライナの戦いをあつかった一章があるんですよ。『ちくま』の記事に書けばよかったと思いましたがすでにあとの祭りです。