日本三大ゆたか

・埴谷雄高
・麻耶雄嵩
・玉袋ゆたか

 なぜこんなことをいきなり言い出したかというと、今書いているペルッツ新企画のあとがきで『夏と冬の奏鳴曲』にちらっと言及したからなのです。でも最終的には消すかもしれません。黒死館からもさりげなく引用しましたが、これもやはり消すかもしれません。

米澤屋書店

 
 米澤穂信さんが新刊『米澤屋書店』で、わたしが昔訳した『両シチリア連隊』を紹介してくださっています。それも「詩のように美しい滅びの小説」という絶妙な評言とともに。米澤さん、ありがとうございます。この本は東京創元社の "in print"リストから消えてだいぶんになるのですが、今でもときどきこのように言及してくださる方がいて、訳者冥利に尽きると感じています。
 
 当時は担当編集者の方が相当に販促に奔走してくださり、これも嬉しい思い出です(今でも覚えているのは新宿紀伊国屋と川崎ラゾーナ内丸善のフェア)。ただ売れ行きは残念ながら東京創元社の期待には達しなかったようで、二冊目のレルネット=ホレーニア訳出の野望はいまだかなえられていません。しかしまだまだあきらめていませんよ。彼のたくさんある長篇の中にはペルッツ並みに面白いものもあるのでなんとか紹介したいものです。

第二の迷楼記

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 荻窪の古書ワルツで『山口剛著作集』全六巻を千八百円で買いました。つまり一冊三百円です。しかも帯が多少日焼けしてくたびれている他は一度も読まれていないような美本で月報完備。いったい何がどうなっているのでしょう。嬉しいことは嬉しいけれど、碩学の業績がここまで軽んじられるとなかなか複雑な心境にかられます。

 それはともかく、さっそく拾い読みをしていると、なんと! 山口剛が「迷楼記」の翻訳をしているではありませんか!「第五巻 翻訳篇」に収録されています。あの松山俊太郎翁が『澁澤龍彦文学館 最後の箱』で翻訳した「迷楼記」です。

 この『最後の箱』のあとがきで翁が触れた「迷楼記」を、盛林堂書店のナイアガラ棚でみつけた話は三年前の日記に書きました。こちらの「迷楼記」は大正十四年に出た本です。いっぽう山口訳「迷楼記」は、その一年後に近代社から出た『世界短篇小説体系 支那篇』に収録されたもので、もちろん訳文も両者でかなり異なっています。

 『最後の箱』のあとがきによれば、大正十四年版『迷楼記』は、ある中国文学の大家の方が「唯一の国訳」と太鼓判を押したということです。ところがどっこい第二の訳があったとは。しかも山口剛の訳で。

 ところで山口剛といえば、一般には江戸文学研究で有名だと思います。少なくともわたしは今までその側面しか知りませんでした。しかし五巻に入っている『桃花扇伝奇』の訳はすばらしく流麗な仕上がりで、これほどまでに人を酔わせる翻訳は久しぶりに読みました。六巻所収の徒然草評釈も兼好法師とウォルター・ペイターに共通なものを見出していたりする面白い文章です。山口剛あなどりがたし!

読ホリディ

 
 いま書いているペルッツ新企画のあとがきで『都筑道夫の読ホリデイ』を参照する必要が出てきて手にとったのが運の尽き、その面白さに引きずりこまれてたちまち上下巻を読破、あとがきは一向にはかどらなくなってしまった。この本を編集された小森収氏も書いているように、昨今の出版事情の中でこの超長期連載を一本残らず収録して本にするのは大英断だったと思う。版元のフリースタイルに満腔の感謝をささげたい。小口の黄色が本家ポケミス以上に昔のポケミスの雰囲気を醸しているのもいい。『読ホリデイ』という相当にくだらないダジャレさえも読者をくつろがせる効果を持っているように思う。これがたとえば『都筑道夫ミステリ時評』といったようなこちたきタイトルだったら何もかもだいなしだ。
 
 この『読ホリデイ』は今まで何度くりかえして読んだかわからないが、何度読んでも興趣尽きない本である。似たような趣向の長期連載に佐野洋の『推理日記』があるけれど、あれはまあ忌憚なく言えば面白くて啓発されるのは最初の三冊か四冊くらいで、あとはもうマンネリに次ぐマンネリ、生きる化石にしかすぎない。だから読者もマンネリで読むしかない。何より著者のミステリに対する切り口が全然変わっていないのがつらい。一定のモノサシを持った審判官としてミステリに対峙しているといえるかもしれない。

 それに比べると『読ホリディ』は著者がミステリの変遷に柔軟に対応し、それに応じて評価軸を変えているさまが読み取れる。おこがましい言葉をあえて使えば、ミステリの成長にともない都筑道夫の目も成長しているようなのだ。ここで見られる都筑の目は、もはや『黄色い部屋はいかに改装されたか』に現れている都筑の目ではない。またこの本上下二冊だけをとっても、十年以上の時間の流れによる著者のミステリ感の変化がうかがえる(時間の流れの中にはもちろん著者の筆力の衰えという好ましからざる要素もあるけれど)。
 
 残念なのはハヤカワミステリ文庫にせよ創元推理文庫にせよ、都筑が推奨しているミステリの大半が今では入手不可能なことだ。それらの本を、ハヤカワでも創元でもいいから、「都筑道夫推奨の十冊(あるいは五冊でもいい)!」として一斉に重版すればある程度の話題は呼ぶと思うのだがどうだろう。



 

在庫の減りが速くなった

 
 最近やけに『記憶の図書館』のアマゾン在庫の減りが速いなと思っていたら、『本の雑誌』12月号で藤ふくろうさんがこの本を紹介してくださっていたことが判明した。ありがとうございます! こんな高価な本をボンボン買わせる力を持つとはすごいと感服しました。もちろんお買い上げくださった方にも感謝です。
 

ノースウェスト・スミスふたたび

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 かつて斯界を驚嘆させた松本零士イラスト入りハヤカワSF文庫からおよそ半世紀の星霜を経て、ついにノースウェスト・スミスがふたたび新訳でよみがえった。喜ばしいではないか。


 帯には「伝説的スペースオペラ・シリーズ」と書いてあるが、単に宇宙は舞台になっているというだけで、本質はむしろ怪奇小説ではないかと思う。だってノースウェスト・スミスはスペースオペラのヒーローにしては全然弱っちいし、性格的にも攻めというより受けであるから。

 作者の幻視者(ヴィジョネール)としての資質も見逃すわけにはいかない。たとえば「生命の樹」の一節。「レース模様が流れて彼をつつみ、彼の体に合わせて形を変えた。その境界の外側では、なにもかもが摩訶不思議な形でわずかに横へずれたり、すべったりして、目の錯覚であるように、まったく別の風景に変わった」
 CGも何もない時代にこんな描写は驚きだ。きっと作者には普通の人には見えないものが見えていたのだろう。
 あるいはスミスの相棒、金星人ヤロールの描写。「まつ毛を伏せていると、地球の大聖堂の少年聖歌隊で通りそうだが、目を上げた瞬間、けしからぬ知識が顔を出すため、その幻影は長続きしなかった」

 当時『ウィアード・テールズ』にはどれくらいの女性読者がいたのだろう。C. L. ムーアの新作めあてに胸をときめかせてこの雑誌を手にする少女たちの姿が目に浮かぶ。
「今度のノースウェスト・スミスはどんなひどい目にあうのかしら。楽しみでたまらないわうふふふふふふふふふ。でもいざとなったらヤロールが助けにくるから大丈夫うふふふふふふふ」さぞかしそんなふうにつぶやきながら読みふけっていたことだろう。そしてその『ウィアード・テールズ』はたぶんお兄さんの部屋からこっそり持ってきたものだ。

死せる生田生けるプヒ氏を走らす

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 その後また三日月書店に走り生田旧蔵書を今度は八冊買ってきた。死せる生田、生けるプヒ氏を走らす。
 
 生田といえばある種の人たちには蛇蝎のごとく嫌われているらしい。むかし『東京人』だったかの神保町古書店特集で某老舗古書肆の店主がインタビューされていたが、「どんな恩人でもいったん死ぬと悪しざまに言う」とか盛んに生田を罵り、「うちではあの人の本は思い切り安く売るんです」とまで語っていた。言う方も言う方だがそれを記事にする方もする方である。さらにむかし『幻想文学』という雑誌に「堕ちた偶像」という、ケンカを売っているとしか思えない記事が載ったこともあった。
 
 かくのごとく性格には問題のあった人かもしれないが、本はなかなかいい本を持っていた。「人を憎んで蔵書を憎まず」と古人も言っているではないか。

 ところで先日話題にしたマッコルラン・コレクションだが、とある秘密結社の極秘情報によって、箱のギュス・ボファの絵はマンダラゴラではなくマルセル・シュオッブであることが判明した。ボファがシュオッブをイメージして描いた絵ということらしい。フランスではシュオッブはこんなふうに受け取られているのだろうか?

 こう書いたあとで秘密結社より連絡あり。「シュオッブをイメージして描いた絵」ではなく「シュオッブの作品をイメージして描いた絵」とのこと。それにしても日本で考えられている「シュオッブの作品のイメージ」とは相当かけ離れているのでは。