百合今昔

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 夏冬のシーズンになると、女性たちがファッション雑誌をぱらぱらめくって流行を確かめるように、わたしはコミケのカタログをめくって流行を確かめる。旬のジャンルはサークル数が激増するのではやりすたりが一目でわかる。これは世間の流行りとは必ずしも関係なくて、たとえば過去にはサイボーグ009の同人誌(いわゆる数字の掛け算)がよくわからない理由で増えたりしたこともあった。

 ところが去年の夏以来コミケの開催がストップしていて、当然ながらカタログも出ない。なんとも歯がゆいことである。漏れ聞く噂によれば最近は百合がはやっているらしくて、SFマガジンが二度も特集を組んだり、某氏などは胆嚢炎の手術の前日まで『裏世界ピクニック』を見ていたという。もしこの夏にコミケがあったら『裏世界~』のサークルがずらり並ぶのだろうか。

 ところでわからないのが昔とのつながりである。これがBLなら前世紀から連綿と伝統がつながっていることが、わたしのような門外漢にもなんとなく感知できる(錯覚かもしれないが……)。埴谷雄高のいう「精神のリレー」というやつである。

 でも百合はどうなのか? 「ラッキーホラーショー」に宝塚のナマモノなどの投稿があった時代と、いやそこまで遡らなくても、「マリみて(マリア様がみてる)」が大人気だった時代と今とでは、一旦伝統が途切れてのだろうか。それとも見えにくい血筋が何かつながっているのだろうか。同じく門外漢ながらも、こちらはつながりがぜんぜん見えない。

吉田訳ポーふたたび

 悪漢と密偵さんのツイート(正確にいえば藤原編集室のリツイート)で、吉田健一訳ポーが中公文庫の一冊として出ることを知る。これは近来にない快事だ。世間もようやく吉田訳ポーの凄さに気づいたかふははははという感じである。ポー一流の沈鬱かつ淀みない思念の流れが、原文とほとんど等価な感銘を与えるという点で、前にも書いたけれど、数あるポーの邦訳の中でこれ以上のものをわたしは知らない。

 ゴシック臭のきつい、佶屈とした、こけ威かしの一歩手前みたいな、おそらく普通の意味では名文とはいいかねるようなポーの文章の底に流れるものをボードレールが感じとったように、吉田健一もまた感じとったのだと思う。いやもしかしたら吉田健一のポー受容はフランス経由なのかもしれない。『マルジナリア』の解説でしきりにヴァレリーを引いているところからもそんな気がしないでもない。もしそうだとしたら、それが吉田訳ポーを他の翻訳と一味違ったものにしているのかもしれない。

 次に何か吉田訳を出すとしたら、原作の知名度と親しみやすさから見て『不思議の国のアリス』でしょうか。

 
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これもなかなか味わい深い訳ですよ。

小栗虫太郎の家庭小説

 小栗虫太郎の未発表小説が発見されたというので、さる界隈は蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。NHKの「おはよう日本」でとりあげられることは事前に本多正一さんに教えてもらっていたのだが、あいにくわが陋屋にはテレビがない。正確にはテレビを置く場所がない。昨日も書いたように「柔らかそうな本の上にでも座ってください」状態なので……

 それはともかく「ほかの作品とは作風が全く異なる家庭小説」というのが期待と不安をそそる。小栗の家庭小説というのがうまくイメージできないが、サザエさんでいうとこんな感じなのだろうか。


1.おーい磯野、降矢木家行こうぜ~と近所の友達がカツオを誘う。

2.サザエさんが町内会の芝居でホレイショに扮する

3.波平がチントンシャンと音曲思案にふける

4.お父さん、あたしだって人の子よ! とワカメが波平をなじる

5.フネがタラちゃんの手をとって「亡き子をしのぶ歌」を弾く


 それとも『女人果』みたいなパッチワーク作品か。あるいは乱歩・正史合作の『覆面の佳人』がそうだったような涙香風の翻案なのだろうか。しかし『覆面の佳人』といい、今回の作品といい、昔の地方新聞というのは何が出てくるかわかりませんね。

 問題の『亜細亜の旗』は今月中に春陽堂書店から刊行される予定。すでに予約が開始されている。あの春陽堂書店から、というのがうれしいではないか。

渡部の呪い

知的生活の方法 (講談社現代新書)

知的生活の方法 (講談社現代新書)


 渡部昇一は好きか嫌いかと言われればまあ大嫌いなのだが、高校生の頃この人の『知的生活の方法』を読んだことがある。筒井康隆がたしか『奇想天外』の連載書評で誉めていたのでつい魔がさして読んでしまったのである。

 この本の言っていることは端的に言うと「死ぬほど本を買え! 借りて読んだりするな!」ということだ。ほかにもいろいろ書いてはあるが眼目はこの一言に尽きる。今思うとこれが人を疑うことを知らぬ素直な高校生に呪いとして作用したとおぼしい。以来四十余年にわたってわが住処は青年時代の明智小五郎と同じく「柔らかそうな本の上にでも座ってください」状態なのだが、その淵源はたぶんこの本にある。おそるべし渡部昇一の呪い!

 あとこの本で覚えているのは、渡部が『ドイツ参謀本部』を書くにいたったきっかけである。これは記憶で書いているので違っているかもしれないが、ようするにずっとドイツ参謀本部に興味を持っていたおかげでモルトケの全集をはじめとして膨大な関連書を蔵するようになったらしい。するとその大量の蔵書が「お前がこのテーマで書いてもいいではないか」と悪魔のささやきをささやきかけるのだそうだ。「日本にお前ほどこのテーマの本を持っている者は他にいない」と言葉巧みに誘惑するので、畑違いにもかかわらず『ドイツ参謀本部』を上梓してしまったという。

 これは実感としてもなるほどと実にうなずける話で、たとえばレオ・ペルッツの本がだんだん溜まってくると「お前が訳してもいいではないか」という声が聞こえるようになる。ドイツ怪奇小説の本が増えてもやはり同様の声が聞こえる。いやもしかしたらこれも渡部の呪いのせいなのか。

ウィリアム・ウィルソン症候群

 これはどなただったか忘れたのだが、その方は一冊の本の翻訳が終わるとその原書を人にあげてしまうのだという。これは実感として何となくわかる気がする。気がするだけかもしれないが。

 翻訳に苦労したので原書はもう見たくもない、ということではもちろんない。そうではなくて、そもそもある本を翻訳するとは、原著の魂を訳書に植え替えることだから、訳書ができあがると同じ魂を持つ二冊の本が存在することになる。これが少々気味が悪い。ドッペルゲンガーの気味悪さである。

 かといって最初に言及した方のように原書を人にあげたりはしない。自分が訳した本は原著ではなく訳書のほうをどっかにやってしまうことにしている。いや正確にいえば、部屋が乱雑なので自然にどこかに行く。

全宇宙待望の新作

 今日はひさしぶりに遠出をした。これを贖うために。

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 漏れ聞く噂によればランボーの『イリュミナシオン』に匹敵する書だという。期待はいやがうえにも高まるではないか。

 ところでこの本については某巨大匿名掲示板で次のような興味深いリークがなされている。

 ほれ、国書が『法の書』を出して以来、日本はバブル崩壊とか阪神大震災とか
 オウム事件とか東日本大震災と原発事故とかオリンピックとかコロナとか
 すんごい災厄が続いとるじゃろ

 そんで責任を痛感した国書有志が、この闇の本に打ち勝つ光の本を
 ゆうこりんにお願いして書いてもらったんじゃ

 すると闇の力も反撃に出て、関係者を帯状疱疹や不整脈でバタバタ倒したんじゃ
 ちうことでこれは全宇宙を巻き込むサイキック・ウォーズなんじゃ
 いずれ「ムー」が特集を組むんとちゃうか

 ま、さすがのアレイスター・クロウリーもとうていゆうこりんの敵ではあるまい
 それが大方の見解じゃ

 じゃけんあの本が出たらこれからは光の時代に入るぞよ
 楽しみにしとりんさい

 
 
 つまり『法の書』の出版が想定外の大災厄を引き起こしたため、事態を重く見た国書首脳陣がこの闇の書に対抗する光の書イリュミナシオンの出版を画策、幾多の犠牲者を出しながらも無事完成を見たと、まあそういうことらしい。

 どこまで真実なのかは一部外者にすぎないわたしなどには知る由もない。ただ装丁から造本から組版からもちろん文章にいたるまでただならぬ気迫がこもっていることだけは確かだ。国書の中の人も「全宇宙待望の新作」と豪語いや断言している。ねがわくばこの本の出版をもって日本が光の時代に入りますように。

「なんなら」新用法の起源

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 今日は目先を変えて基本日本語シリーズ第一弾(第二弾はたぶんない)。前にも一度取りあげた「なんなら」新用法の話である。

 まずは旧来の用法をおさらいしておこう。

 「なんなら」は伝統的には、「明日は雨だ。なんなら賭けてもいい」「俺は潔白だ。なんなら証拠だって挙げられる」「なんなら私の方からお訪ねしますけれど」みたいな感じで使われる。つまり副詞「なんなら」は機能的には接続詞に近く、非現実的な事柄を語る節を導く。ドイツ語やスペイン語なら動詞が接続法をとるシチュエーションで使われるといってもいい。ここで「非現実」というのは、これらの例において、話者はハッタリを言っているだけで、実際に賭けたり証拠を挙げたり自分から訪問したりする気はないからだ。英語でいえば「なんなら」= "if (absolutely) necessary" みたいな感じである。

 ところが最近は、前にも引用した島田泰子教授の論文「副詞「なんなら」の新用法」から例をとると、「ぶっちゃけ6も好き、なんなら7も好き」とか「何が起こっているか気づいていなくて、なんならむしろ、自分ではよく聞き取れたなくらいに思ってたんで」みたいな風にも使われる。つまり

 1. 従属接続詞的な性格が薄れて、等位接続詞的になる。(ドイツ語でいえば定形後置から定形正置になるイメージ)

 2. 「なんなら」に続く文の非現実性がなくなり。「なんなら」の前にある文と同程度のリアリティを持つ。

つまり「あえて言えば」というようなニュアンスで使われる。英語の”I would say” みたいなものである。これもやはり動詞の形は接続法(仮定法?)なのに、ほとんど話法が意識されていない。東西軌を一にしていて面白い。

 ここでようやく本題に入るが、最近必要があって種村季弘の『畸形の神』を読んでいたらこの「なんなら」の新用法が出てきて「うおっ!」と思った。すなわち上の画像である。しかも驚くべきことに、話し言葉ではなく文章語の中で使われている。この本が出たのが2004年だから、遅くともとその頃には新用法の萌芽があったことになる。

 「すべからく」の新用法を確立したのは唐十郎だという澁澤龍彦説をここで思い出さざるをえない。澁澤スクールには新用法を確立するのが得意な人が集まっていたのだろうか。

 それにしてもこの『畸形の神』は種村白鳥の歌とでもいうべき傑作なのに、あまりにも不当に閑却されている気がする。タイトルに差別用語らしきものが含まれているせいだろうか。なんなら改題してもいいから再刊してもらいたいものだ。