米澤さんに感謝

米澤穂信さんにツイッターで『両シチリア連隊』をご紹介いただきました。ありがとうございます。


東京創元社さん、『赤い夢』の企画を通すのは今をおいてありませんよ。殿、なにとぞご決断を!

情報解禁!

『怪奇骨董翻訳箱』の詳細が国書刊行会のサイトにアップされました。収録作品一覧も載っています。いずれ劣らぬ変な作品ばかりですから楽しみにしていただければと思います。アマゾンの予約ももうすぐはじまるのではないでしょうか。

サイトには書影も出てます。いつものように柳川貴代さんのアートワークが冴えわたっています。ロバート・バートンの『憂鬱症の解剖』のタイトルページを思わせるデザインが嬉しくもありがたい。

そして、実はアンソロジー第二弾も表題だけはひそかに決めてあるのです――いわく、『綺譚殺人者の凱旋』。だが残念ながらこの第二弾が実現する可能性は限りなくゼロに近いです。

方針決定!

Fragment兎影館|柳川貴代さんのツイートによれば、「『怪奇骨董翻訳箱』は昨年の『英国怪談珠玉集』と同じくらいの資材と造本に」する方針に決まったということです。うわあありがとうございます。二冊並べても(中身はともかく外観は)違和感のないたたずまいになりそうなので、『英国怪談~』を買われた方はなにとぞ『怪奇骨董~』もお買い上げくださいますよう。『怪奇~』は厚みがおそらく『英国~』の7~8割くらいなので、価格も千円かそこらは安くなるはずです。

でも前にも書きましたが、造本の方針は決定したものの本文はまだ決定していません。本当なら初校ゲラの段階で(いやそれ以前に訳稿を版元に渡す前に)つぶしておくべき誤りが三校の段階でもまだ残っているではありませんか。ああなんということ! 

しかし誤字誤変換は世の習い。今日ある精神科医の方が書いた本を読みました。この方は都立松沢病院に勤務したことがあるそうなのですが、その構内には「呉修三の銅像もあった」そうです(本文ママ)。だれやねん呉修三って! 呉博士は幻文クラスタで敬われているほどには本職クラスタでは敬われていないらしいのがなんとなく雰囲気として伝わってきました。

巽昌章氏の不在

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5/6の文学フリマで探偵小説研究会の『CRITICA vol.13』を買ったけれど、この号には巽昌章氏が寄稿していなかった。おお、なんということだ。がっかり。だがこの不在の悲しさを噛みしめているうちに、巽昌章氏の批評の特質といったもやもやしたものがなんとなく固まりかけたような気がしてきた。的外れかもしれないが忘れないうちにここにメモしておく。走り書きになるけれどもご勘弁を。

9年前のブログで紹介したSR Monthlyの戸川安宣氏インタビューで戸川氏が言うには、東野圭吾や宮部みゆきの愛読者のなかにも、自分がミステリを読んでいるという意識がない人がいて、「だから、なんで宮部さんや東野さんの小説ではこんなに人が死ぬんだろう、って不思議な顔を」するのだそうだ。
もちろん、こういう読者をも楽しませるということは、東野氏や宮部氏の作家としての手腕が優れていることを意味している。だがこういう読者はミステリを楽しんでいるわけではないと思う。

ミステリをミステリとして楽しむためには、作中のミステリとしての構造を(無意識にでも)感知することが必要だと思う。数学のたとえを出して恐縮だが、それは単なる集合に位相構造とか代数的構造を見るようなものだ。たとえば{・・・,-3,-2,-1,0,1,2,3,・・・}と単に数字が並んでいるだけなら、それは単なる集合(=数字が並んでいるだけ)であるが、ここに2+3=5というような演算規則を導入してやるとそれは群(代数的構造の一種)になる。3と8の間の距離は5というように距離を定義してやると、それは距離空間(位相空間の一種)になる。

同じようにミステリ小説にはミステリとしての構造が内包されているのだが、それは必ずしも「発端の謎・中段のサスペンス・論理的解決」というように明示的に定義できるものではない。たとえば、一応はミステリの体裁を整えていて、一応は目新しいトリックも案出されている小説でも「これはミステリではないよなあ」という作品は往々にしてある。逆に、明らかに作者はミステリとして書いていない小説でも、見方によってはミステリでしかありえない作品もある(たとえば北村薫氏のエッセイやアンソロジーにはそんな例がいくつも出てくる)。それより何より、「〇〇という作品は本格ミステリか否か」といった判断が人によってあきれるほどまちまちである(しかも当の本人が「これは本格ミステリである/でない」理由を明確に説明できなかったりする)ことがこれを雄弁に語っていよう。

つまりミステリのミステリ構造(=ミステリ性)は、語の本来の意味で「名状しがたいもの」であって、ちょうど流れ星みたいに、チラッと見えたときに、「アッあれあれ!」と指さすことしかできないものだ。つまりそれだけ人間の本性の内奥に(対象化してことさら言語化するのが難しいくらいに)根ざしているものだといってもいい。われわれがミステリに惹かれるのはまさにそのためであって、何もトリックやロジックを愛でるためではない。

巽昌章氏のミステリ評論は、そこをなんとか言語化しようとする試みだと思う。それはたとえば前の号に出ていた松本清張の『点と線』論にそれは顕著だ。まず大前提として松本清張はまぎれもないミステリ作家でありその作品はミステリであるというのがある。しかしそのミステリ性は作中では(たとえばアリバイトリックみたいに)わかりやすい形で露出しているとはかぎらない。平野謙の『点と線』論に氏が感じる不満はそこにあるのだと思う。

ルリユール叢書の二冊

中井英夫や椿實の単行本未収録作品集をはじめとして、数々の魅惑的な書物をわれわれに送り届けてきた幻戯書房が、ルリユール叢書なる新しい叢書をはじめるようです。刊行ラインナップの書目にはいずれもわくわくさせられますが、特に期待される二冊があります。

一冊目はパリヌルスことシリル・コナリーの『不安な墓場』(The Unquiet Grave)。

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シリル・コナリーはかつて故・篠田一士がさかんに称揚していて、わたしなどもそれで名を知った口です。でも最近はとんと聞かなくなりました。文学趣味の精髄ともいえる彼の本が、こうして忘れられず翻訳が出るということはまったくありがたいことです。篠田一士が褒めたことでもわかるように彼は文学の賞味家であって、この『不安な墓場』には読書と人生を巡る思索が芥川龍之介風の短文スタイルでくりひろげられています。

もう一冊はヴァレリー・ラルボー『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』(Sous l'invocation de Saint Jérôme)。(下の画像はドイツ語版で、原本から一篇だけを抄出したものです。)
 
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文学の賞味家といえばラルボーも負けていません。あの絶妙なエッセイ「罰せられざる悪徳・読書」に舌鼓を打った方もたくさんおられると思います。本書はそのラルボーの翻訳論を収めたものです(聖ヒエロニムスは翻訳家の守護聖人)

むかし渡辺一考さんからお聞きしたところによれば、岩崎力氏のもとには「読書、この罰せられざる悪徳 何々の領分」シリーズ三冊の訳稿が日の目を見ないまま眠っているのだそうです。なんとか出版できないものでしょうか。

骨董箱特典

いよいよこの夏、国書刊行会から待望(?)の超弩級ドイツ幻想短篇アンソロジー『怪奇骨董翻訳箱』が出ます。

不肖わたくしのザル校正のせいでまだ本文は校了していません。しかし早々と購入者特典の話が出ています。といってもまだ本決まりではなく「やろうやろう」という掛け声がかかっているだけの段階なのですが、うまくいけばいずれ版元サイトで正式な告知があると思います。前の『ワルプルギスの夜』と同じく抽選で百名の予定です。つまり実質全プレです。

ということで明日はさっそく世界堂まで紙を買いに行こうと思っています。