いきなり正誤表が出たっ!

『記憶の図書館』は幸いにして好評で、アマゾンの在庫がアッというまに空になりました。今日明日あたり補充が入るそうなのでなにとぞ注文をお願いします。もちろんhontoや紀伊国屋や楽天などからも注文可能です。ただなにしろ元々の部数が少ないので、早めに買ったほうがいいかもしれません。

 しかし一足先に出た『アフター・クロード』にはとてもかないません。昨日みたら860位とかいう恐ろしい順位がついていました。不肖わたくし、国書の本で順位3ケタというのはいまだかって見たことがありません*1。すごいですね。

 それはともかくっ! いきなり恥ずかしいミスを発見したので急遽正誤表を出してもらいました。国書のサイトの『記憶の図書館』のページにある「ダウンロード」というボタンから見られます。

 かつて北杜夫は、「鷗外」をうっかり「鴎外」と書いてしまって、「いくら馬鹿を売り物にしているとはいえ、これでは末代までの恥辱である」とどこかに書いていましたが、今回のミスもまさに末代までの恥辱ものといえましょう。いったいどうしてゲラの段階で発見できなかったのか……もしかしたらアルデバラン星人の円盤に脳波を操られていたのかもしれません。
 

*1:こう書いたら国書I氏から「3ケタなんてしょっちゅうだ。ジーヴスのときは8位だった。みくびってもらっちゃ困る!」とすかさず怒りのメールをいただきました。大変失礼いたしました。

アマゾンで販売開始!

 
『記憶の図書館』がアマゾンで販売を開始しました。お買い上げいただければありがたいです。
 
税込み定価は訳7500円と、一見お高いようではあります。だがしかし! あの伝説の『シュオッブ全集」の50%でしかないのですよ。驚異の大幅ディスカウント、十年前のお値段です。なにとぞよろしく。連休のお伴にでも。

驚異のいいね数

 国書ツイッターの『記憶の図書館 ボルヘス対話集成 』新刊案内告知が膨大な数の「いいね」やリツイートを集めています。もし「いいね」をしてくれた方が全員購入したなら初版が一瞬でなくなるくらいの驚異の「いいね」数です。

 皆さま応援ありがとうございます。まさにボルヘス!というすばらしい装幀をしていただいた山田英春氏にも感謝です。
 


『かわいい女』再説

 
 
 ダネイは1949年4月12日付の書簡で、チャンドラーの『かわいい女』(『リトル・シスター』)をくさしてこう書いている。「一体全体、これは何についての話なのか。誰が誰を、なぜ、どのように、どこで殺したのか――何もわからない」

 わからないって? 困ったものだねえ。それでは僭越ながら拙豚が教えてしんぜよう。

 「これは何についての話」かというと、表題にもあるように『かわいい女』についての話である。当たり前ではないか。表題になっているくらいなんだから。そしてこの "Little Sister" とは誰か? つまり "Little Sister" とは具体的に作中人物の誰を指すのか? というのが物語の始めと終わりで変化しているところにこの作品の最大のミソがある。

 そしてここがこの作品でもっとも本格ミステリ的な興趣を覚える部分でもある。『叔母殺人事件』と同じく、タイトルに叙述トリックが仕込まれているのである。その意味でこの『かわいい女』は、チャンドラーがいわゆる本格ミステリにもっとも接近した作品だといえよう。

 誰が誰を、なぜ、どのように、どこで殺したのかというのはこの作品では一番どうでもいいところで、作者はわざとそこをアイマイにしたフシもある。つまり誰が誰であろうとしょせんは同じ穴のムジナなのであって、わざわざ区別するまでもない、区別してやるのももったいないくらいな有象無象なのである。

 それに比べて最後で明かされる「かわいい女」は作品の中で毅然として立っている。チャンドラー(あるいはフィリップ・マーロウ)が彼女を "Little Sister" と呼ぶ、その呼びかけには、人生の荒波をタフに渡っていく同志への共感が感じられるではないか。いってみれば「兄弟」というのと同じ呼びかけである。

 『九尾の猫』と『かわいい女』のどちらが優れているかと問うことはあまり意味がないと思う。だがこの「人間性への信頼」という一点において、いわゆる高級誌である「コスモポリタン」が前者を退け後者を採ったことは、すくなくとも拙豚には非常に納得がいくのである。

リーの貢献

f:id:puhipuhi:20210902101502p:plain
 
 
 『十日間の不思議』は『九尾の猫』や『悪の起源』よりずっと優れた作品に思われる。中心アイデアは『悪の起源』に劣らず突拍子もないものだが、舞台と人物がそのアイデアにしっくり溶け合っているからだ。近隣との交渉もあまりなさそうな地方都市に植民地開拓以来の旧約的心情が残っていても不思議はないし、家父長制の権化ともいうべき妻や子に極度に抑圧的な人物だっていかにも存在しそうである。ライツヴィルのこういう一家でこういう犯罪計画が企てられるのは、言ってみればアーカムにダゴン秘密教団があるのと同じくらいに自然なものに思える。

 意識喪失のプロットへの絡め方については、江戸川乱歩がはるか以前に同工のアイデアを使っているので、日本では若干サプライズが減少されるかもしれない。でも別にそれはクイーンの責任ではない。

 この物語の主人公ハワードは保身のために友人エラリーを裏切る卑劣な男である。主人公がこういう人物では、読者の共感は得られないのではないかとリーは懸念した(4月16日付の手紙)。「君はどうやったら弱い人間に共感できるというのだ[……] 僕には答えが見えてきた。ハワードに共感を得させる唯一無二の可能性は[……]」(本書 p.83)。

 ここでリーはこの作品に本質的貢献をしていると思う。リーにこの「答え」が見えなかったら『十日間の不思議』は傑作にはなりえなかったのではないか。しかし訳者あとがきで紹介されているダネイの手紙によれば、ダネイはこの「精神分析的」な処置に大いに不満であったという。なかなか難しいものであるが、この作品では共作がプラスに働いたことは疑うべくもないと思う。

 あと驚いたことには、ダネイはこれを「エラリー・クイーン最後の事件」にしようと考えていたらしい。『レーン最後の事件』の二番煎じはできないので「間違う名探偵」にしたらしい。幸いにしてそうはならなかったわけだが、『九尾の猫』のラストの謎のようなセリフは、ダネイのこの決意と絡めて考えればいっそう味わい深いものになるような気がする。

悪の起源


 続いて『悪の起源』のところを読む。この長篇をむかし読んだときは、結末で明かされる贈り物の意味にあぜんとして、今でいうバカミスではないかと思った。「何でこんなものを書いたのだろう」という不思議な感じはいまだに残っている。

 だが書簡を読むとダネイはこの作品に自信満々だ。「私は嘘偽りなく思ってるよ、マン。この本は里程標になり得る――われわれにとって華々しい本になるだけでなく、〈探偵‐ミステリ〉の分野自体においても」(1950年1月27日リー宛書簡)。だから少なくとも冗談で書いたのではないらしい。

 だができあがった作品は、ダネイの期待に反して、「里程標」(マイルストーン)にはならなかったと思う。どこがまずかったのか。この往復書簡集でわかるかぎりでは、またしてもダネイとリーの齟齬――ダネイの真意(というか稚気)をリーがうまく理解しなかったためではという気がする。

 最初の手紙(1月23日)でリーはファンタジーとリアリティの相克について語っている。ダネイはハリウッドを「ファンタスティック」な場所ととらえているが、実際にその近くに住んでいるリーはそれは誇張されたイメージだという。このようなリーのリアリズム癖が、この作品を(あえていえば)失敗させた原因ではないか。この作品の中心アイデアであるダーウィン絡みの着想は、舞台が思い切ってファンタスティックでないと生きてこない。だから不思議の国としてのハリウッドのほうがよかった。

 登場人物にしてもそうだ。たとえば淫婦デリアは、昨日引き合いに出した「不連続」でいえば、あやか夫人みたいな天衣無縫の妖精的キャラとして描くべきだった。おしまいのほうに出てくる盗賊仲間も、たとえば『宝島』に登場するような人物として描くべきだった。そんなふうな童話的雰囲気に包まれてこそ、例の着想も映えるではないか。リーが変にリアリズムにこだわったために、デリアも盗賊仲間も重苦しい人物になってしまった。

 登場人物の名にアナグラムが仕掛けられてたのには驚いた。しかしこれもラストで種明かししたほうがよかったのではないか。エラリーがこのアナグラムを解いたことにして、「もちろん偶然の一致ですが、驚くべき暗合です」とか言わせたら面白かったと思う。

エラリーより名探偵

f:id:puhipuhi:20210831170758p:plain
 
 『記憶の図書館』は発売日を待つだけになり、もう一つの長篇(「君は貴族社会を生き抜くことができるか?」みたいな話)のほうも訳了したので、ヤレヤレとほっとして ずっと積読にしていた『エラリー・クイーン 創作の秘密』を手にとった。

 とりあえず『九尾の猫』関連のところだけ読んだ。というのはこの作品、世評は高いものの、どう読んでいいかわからぬ不思議な作品であったからだ。『ドグラ・マグラ』が奇書であるのと同じ意味でこの長篇も奇書である気がする。成功作か失敗作かよくわからないところも『ドグラ・マグラ』に似ている。

 1948年6月30日から8月13日にいたるまでの往復書簡を読んでこの作品の狙いが少しわかった。つまりダネイは消去法によって犯人を決定する従来のエラリーの推理方法をあきたらなく思い、巨勢博士風の「心理の足跡」による推理をエラリーにさせようとしていたらしい。ところがそれに基づいて組み立てたシノプシスがリーからダメ出しをくらってしまう。8月4日や8月9日付けのダネイ宛書簡で述べられるリーの立論は作中のエラリーよりも名探偵感がある。

 「心理の足跡」というのを言い換えれば、探偵小説の形式で人間精神の奥に入ろうとしているといってもいい。それがダネイの狙いだったかもしれない。ところがこの作品の場合その手法がちょっと無理筋かもしれないと思うのは、犯人が(あえていえば)狂人だったからだ。狂人の心理の道筋をたどることは常人にはむずかしい。そして犯人の身近にいるある人物も、ある意味異常人であり、常識では推し量れないような心理の人であることが問題をさらに難しくしている。

 狂人(あるいは異常人)とはいかなるものかというのは、各人がおのれの内なる狂気(あるいは異常性)に照らし合わせなければ了解できないものだろうと思う。だから人によって開きがあるのは当然だろう。その了解がダネイとリーとで(ちょうど正木教授と若林教授のように)違うと、ダネイには自然に見える心理が、リーには不自然に見えるということも起こってくるだろう。ある書簡でリーは、僕のほうが君より精神医学の知識があると、(今様に言えば)マウントを取ろうとしているが、まあそれほどリーにはダネイのプロットが不自然に見えたのだろう。

 結局『九尾の猫』が成功作か失敗作かはいまだによくわからない。だがもしこの往復書簡で見られるダネイとリーとの論争が、正木教授と若林教授との対決みたいな形で、そっくりそのまま作中に取り入れられていたなら、つまりプロットを故意に曖昧にして、両論併記みたいな形で最終的な判断が読者に委ねられていたら、とてつもない傑作になったかもしれないという気はする。そのほうが恐怖感もより際立っただろう。