叙述トリックとストリック

『狩場の悲劇』の解説を読んだら、これは叙述トリックの一種である、というようなことが書いてあった。いや、それはいくらなんでも違うでしょう、と自分のようなオールドファンは思うのだが、ネットで検索してみると、「叙述トリック」を「語り手=犯人」の意味で使う人も近ごろはいるらしいのがわかった(たとえばここ)。

なぜこんなふうに意味が変わったのだろう。たぶんその淵源は笠井潔の評論書『探偵小説と叙述トリック』にあると思う。ここで笠井は、なぜ『アクロイド』が叙述トリック作品かというと、「一人称小説と思わせておいて実は手記だったから」と説明している(記憶で書いているので正確な引用ではありません)。

これはこれで筋が通っている。しかしこれはやはり笠井一流の論理のアクロバットに近いもので、仮に『アクロイド』が叙述トリック作品であることを認めたとしても、それ以上の一般化はできないと思う。その伝でいけばたとえば乱歩の「人間椅子」だって叙述トリック作品になりはしまいか。手紙だと思わせておいて実は小説だったのだから。でもこれを叙述トリックと考える人はあんまりいないと思う。

ここには一筋縄ではいかぬ問題がある。たとえば中町信の叙述トリック作品以外の何物でもない作品にも「人間椅子」に似たテクニックが用いられている(地の文と思わせておいて実は小説内小説であるとか)。「人間椅子」と中町信の某作品を分かつものは何か。叙述トリックと非叙述トリックの線引きはどこに引くべきか。

何も知らずに何かの叙述トリック作品を読んでアッと驚く*1、その驚きを原体験として、別の作品を読んだときに、アッこの驚きは前と同じものだ、という感じで、いわば帰納的に「叙述トリックとは何か」というものは理解されるものだと思う。「人間椅子」のラストは確かに驚くけれど、それは中町信の某作品の驚きとは異質なものだ。だから「人間椅子」は叙述トリックとはいえない——というふうに。叙述トリックとはそんな風にたくさんのミステリを読んで帰納的に理解されるものであり、それゆえに演繹的に叙述トリックを定義するのは見かけほど簡単ではないと思う。

ただ一つの考え方として、これは前にも書いたと思うが、「読者を、そして読者だけをだまそうとするのが叙述トリック」という定義はどうだろう。『アクロイド』の手記の筆者は作中人物(つまりポワロ)をもだまそうとしているので叙述トリックではない。

ところでむかし斎藤栄が「ストリック」と概念を提唱した。ストーリー自体がトリックになっているというのでこう名付けられたそうだ。斎藤栄の作品はあまり読んでいないので断言はできないが、どうやら地の文と作中人物の書いた小説を故意に混同させるテクニックのことをいっているらしい。とするとこれは叙述トリックの一分野ということになるかもしれない。そして『アクロイド』はどう考えてもストリックではないと思う。

*1:ちなみに自分が初めて読んだ叙述トリック作品は小泉喜美子の某長篇で、何の予備知識もなかっただけにたいそう驚いた。