『アーモンドの木』


 
楽しみにしていた和爾桃子さん訳のデ・ラ・メアが出た。さて今回、和爾さんはデ・ラ・メアをどう料理しただろう。

この「料理する」は単なる決まり文句ではなくて、和爾さんの翻訳からは文字どおり原文を包丁でさばいているような感じを受ける。この包丁さばきによってコリアやサキは面目を一新したが、今回のデ・ラ・メアもその例にもれない。啓発的な解説ともあいまって清新なデ・ラ・メア像——あえていえば情緒に流れないデ・ラ・メア像——を提出していると思う。

さてデ・ラ・メアといえば怪奇党にとっては何をおいても「シートンの伯母さん」である。中でも最終部分の謎のような語り手の述懐である。そこを原文で引くと:

And yet I felt a little uneasy. My rather horrible thought was that, so far as I was concerned -- one of his extremely few friends -- he had never been much better than "buried" in my mind.

二番目の文章の後半からは “the only good Indian is a dead Indian” という南北戦争時の誰だったかの言葉が連想される。その連想でいけばこの部分の意味内容は「現実のシートンはどうしようもない奴であって、僕の思い出に "埋め込まれた" シートンより劣る野郎ではなかったのでは?」みたいな感じになる。

このとき rather horrible thought は「僕はずっと友に欺かれていたのではないか。友は(ちょうどミス・デュヴェーンみたいに)かなり頭がおかしくて、その妄想にすぎないものを僕は本気にしていたのではないか」という疑惑を意味しよう。その疑惑が僕をfelt a little uneasy (落ちつかなく)させたのである。おそらく和爾さんの今回の訳もこの線に沿っているように見える。

しかし怪奇党としてはこの解釈ではどうもものたりない。これでは今までの話は全部シートンの妄想で伯母さんがまっとうな人になってしまうからだ。それはあたかも「ねじの回転」が全部家庭教師の妄想だったと考えるようなものだ。やはり伯母さんは恐ろしい吸血鬼でシートンは哀れな犠牲者でなければおさまりがつかない。

いっぽう南條竹則氏はこの部分を少し違って訳している。ブログ「猫城通信/南蝶食単」にある改訳版で引くと「わたしの思い出せる彼は「葬られて」いるよりも特に幸せではなかったということである」。つまり "in my mind" は "buried" に直接かかるのではなく、意味的にはむしろ "he" にかかるという解釈である。

これもちょっと違和感がある。もしそうならばせめて "in my mind" の前にカンマがほしい。しかしこの考えをとって上の原文をくだいて訳すと、「他の人はどう思うか知らないけれど、奴とつきあったごく少数のうちの一人として言わせてもらえば、あいつは生きてるときから死んでたようなものだった、といういささか恐ろしい感慨が僕の心中にはある」とでもなろうけれど、くだきすぎてこれはもうデ・ラ・メアではない。

それよりむしろ、あえて想像をたくましくして、「わたしが今思う彼は、"埋葬されて墓地に眠る"よりも特にましな状態ではなかった」つまり living dead (あるいは吸血鬼) として今なお生きているのではないかというふうにとればどうか。つまり「死んでたようなものだった」説では完了形 had been (時制の一致により過去完了になっている) はシートンの死までの期間(つまり生前)を現わすが、living dead説ではこれはシートンの死から語り手が館を去るまでの期間を現わすと考えるのである。

そうすると少し前の場面で「おまえかい? おまえだね、アーサー?」と呼びかける伯母さんは、別にボケているわけではなく、本当にアーサーを呼んでいることになるし、My rather horrible thought は真に horrible になる。

もちろん自分の英語力では、どれが正しいのか、それともどれも間違っているのか判断がつかない。しかしそれを棚にあげて言えば、この部分はむしろデ・ラ・メアの朦朧法のマジックと考えたい。

【9/10付記】上の原文の引用で"buried"が引用符つきになっているのは、おそらく少し前の場面の会話で肉屋のおかみさんが"buried"という言葉を使ったのを、語り手が思い出しているからだろう。しかし最後の感慨のところで語り手は"buried"に別のニュアンスを付けているのかもしれない。そのこともこの文章を難解にしている。