『偽悪病患者』


 
少し前の角田喜久雄に続いて今度は大下宇陀児の短篇集が創元推理文庫で出た。全二巻の傑作選になるらしく、その前篇にあたる『偽悪病患者』は初期の名作を集めている……とつい書いてしまったが、名作というよりはむしろ怪作奇作実験作と呼んだほうが適切かもしれない。

一読して驚くのはそのバラエティの豊かさだ。それはたとえば最初期の佐藤春夫みたいに自己の才能を持て余しているようにも見えるし、同時に「探偵小説の魅力はどこにあるのか」を手探りする作者の試行錯誤の軌跡のようにも見える。

長山靖生氏は解説にこう書いている。「犯人の多くはいわばサイコパスで、その功利主義的判断のありようは、生来性犯罪者や犯罪嗜好者と違って我々一般人に近く、その近さが怖さと心の底がヒヤリとするような不気味さをもたらす」。ここに宇陀児の初期作品の魅力が的確にとらえられていると思う。つまり宇陀児的犯罪者は乱歩的犯罪者のいわば対極にあるのだ。

たとえば巻頭の「偽悪病患者」。これは佐野洋の短篇を先取りしたかのような、往復書簡によってサスペンスが増大していく(その巧みさは今読んでもうなる)佳品であるが、いかにも乱歩的な性格を持つ「偽悪病患者」は真犯人ではなく、うわべは「一般人に近い」ある登場人物が平然と人を殺している。ここに乱歩への対抗心を見るのはさすがにうがちすぎとは思うが、ともかくこの犯人のキャラクターは「サイコパス」としか言いようがないではないか。そして探偵役は、物的証拠からではなく、外面に表われた心理の動きから犯人を指摘する。

あるいは「死の倒影」のある登場人物はこう言う。「僕は君が善人であって、それでいてあれだけの悪の美を描き出すことが出来たら、どんなによかったろうと思うのだ。不幸にして君はそうではなかった。そしてあの絵は、君の悪人であることを現すだけに過ぎなくなった」。

おそらく乱歩は根は善人かつ常識人で「それでいてあれだけの悪の美を描き出すことが出来た」のだと思う。ある随筆集のタイトルはいみじくも『悪人志願』である。乱歩にとって悪人とは志願するものだった。

だが宇陀児はどうだったのだろう。「紅座の庖厨」の最後の一行はなまなかな善人には(そしておそらく乱歩にも)書けないもののような気がする。乱歩ならたとえば「赤い部屋」のように夢オチ的に処理するか、あるいは「盲獣」のように「悪人滅ぶ」という結末にもっていくだろう。しかし宇陀児はそうはしない。彼の作品の輝きが今もって褪せない理由はそこらへんにもあると思うのだがどうだろう。