高原英理さんから近著『祝福』を贈っていただいた。ありがとうございます。
もらったから言うわけではないが、これは傑作だと思う。少なくとも近来になく刺激的な読書体験であった。十年以上前にこの日記で三日にわたってとりあげた「記憶の暮方」(1, 2, 3)の発展形の印象もあるこの作品は、幻想文学愛好家・一般文学愛好家ばかりでなくミステリ読みにも全力で薦めたい。
というのは、この連作短篇からなる長篇は伏線が随所に振りまかれていて、ある短篇での些細なエピソードが別の短篇で意味を持っていたり、ある短篇で謎の人物として登場した者の正体が別の短篇で明かされたりするから。そうしたいわばジグゾーパズルのピースをまめに拾い集めて絵を組み立てるのが一番好きなのはたぶんミステリ読みだろう。
「唯物論」「唯名論」「唯幻論」といったタームにならっていえば、この作品での世界観は「唯言論」とでも言うべきものだと思う。まさに「はじめに言葉があった」の世界である。ここで大切なのは意味よりも先に言葉が存在していることだ。別に不思議なことではない。たとえば、「人生に意味はあるのか」と問うより先に人生そのものはスタートしているではないか。
あるいはこうも言える。われわれは意味の分からない詩に心を動かされることがある。意味がわからないどころか、音の(既知の)美しさもリズムの美しさも感じられない詩に心を動かされることがある。それはなぜだろう。意味とか音やリズムの美しさ以前に心を動かすものがあるからではないか。だってそうでなければ、誰も言葉など習得しようとは思わないだろう。
第七短篇の最初から二行目に、「ただ一言がわたしを用いる」とある。ここでの一人称「わたし」はおそらく個人を超越した魂のことである(ちなみにこの個人を超越した魂は第五短篇にも一人称で出てくる)。つまりこの短篇の世界観では、魂は言葉の手先(エージェント)として人の心に降り立つ。つまりここでは、言葉 >(超個人的な)魂 >(個人の)心あるいは意識、というヒエラルキーが存在している。
降り立たれた心は降り立った魂を理解できない。したがって自分勝手に解釈する。そこからネガティブな軋轢も生まれる(その例として三島由紀夫をヒントにしたと思しい人物が出てくるのが面白い)。
あるいは第六短篇に出てくる仏教徒は魂の存在を否定する。人によってその解釈あるいはイメージがあまりに違う仮構的な存在であるからだろう。しかしヒエラルキーの上位にある言葉までは否定しない。仏教のある宗派では「ナミアミダブツ」と唱えるだけで、たとえその意味はわからなくても、救われると教えているようだが、それに似たようなものだろうか。
あるいは言葉が意味を付与されずナマのままで人の口から出てくることもある。それにもかかわらず、意味を持たないままでコミュニケーションが成り立ったりする(第八短篇・第七短篇)。あるいは他者に伝えたいと願ったりする(第四短篇)。
あるいは場合によっては魂はふたたび心を去ることもある(第九短篇・第七短篇)
あるいはその言葉が心によって恣意的に意味を付与され物語に織りあげられることもある(第九短篇)
というふうな非常に面白くユニークな作品である。今から半世紀ほど前、SF界でニューウェーブ運動が華やかだったころ、SFとはサイエンス・フィクションではなくてスペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)だと盛んに言われていた。この作品などまさにその意味でのSFと言っていいだろう。ここを読んでいる皆さま方にも一読を乞いたい。