在野の底力

 

 
 これはすばらしい本が出た、といってもこのブログを読んでいる皆さんは片山廣子(=松村みね子)のすばらしさについては先刻ご承知であろうから、贅言をついやすまでもないと思う。だがこの本のすばらしさは片山本人のすばらしさばかりではない。何がすばらしいかと言えば編集がすばらしい。編者の未谷おとさんの長年の探求による蓄積が、とくにひけらかすもことなくさりげなく本書全体からにじみ出ていて、本書を唯一無二のものにしている。

 まず瞠目すべきは第I部「かなしき女王」の欄外に付せられた註である。これが多すぎず少なすぎず、抑制を保ちながら貴重な知見をいくつとなく惜しげもなくふりまいている。まるでガリマールのプレイアッド版の註みたいである。この註釈だけでもこの版は原本の第一書房版を凌駕したといっていいと思う。

 それから順不同で挙げると第V部は「燈火節」からのセレクションだが、そのチョイスが絶妙である。といっても元版の『燈火節』も見ないとその選択眼のたしかさはあまりよくわからないかもしれない。しかし稀代の散文がここにはあることは本書だけからも感得されよう。たとえば最初の「北極星」だが、北の窓を開けるところから始まって自然に古伝説に話を持っていく語りの呼吸のうまさを見よ。配給の芋の話からはじまって配給の芋の話で終わる「アラン島」の見事さにも溜息をつくばかりである。

 それから巻頭の地図。これも一見なんでもないようだがかなり苦心して作成されたものだと思う。たとえば大蛇が逃げたあとにできたシャノン川というのはどこにあるのかいな、と思って地図をさがすとちゃんとある。いや~蛇の奴もかなりの距離を逃げたもんだねえと感慨を新たにする。

 あとは「かなしき女王」初出誌テキストとか、片山現代語訳の「幻影の盾」の美しさとか、まあ挙げていけば切りがない。神経が細かく配られた懇切丁寧な作りには頭が下がる。片山廣子関連書籍はいままでにもいろいろ出たが、本書はその最高峰に位置するものだと思う。在野研究の底力をみせつけた格好である。
 

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洋書まつり初日

 一昨日と昨日行われた洋書まつりに行ってきた。コロナ禍のおかげで一時は開催が危ぶまれていたようだが、無事開催されたのはめでたい。河野書店のブログによれば、三軒の古書店が「本年の開催を強く希望した」ということだ。ありがたいことである。この三店には深く感謝したい。

 でもこの三店とはどこどこだろう? まったくの臆測で言うと、羊頭書房、古書ワルツ、三日月書店の三店のような気がする。それくらいこの三店のコーナーには「よぉしやったるでえ」「いっちょいてこましたろかいな」みたいな気迫がただよっていた。棚を見るだけでそんなむんむんした熱気が漂ってきて嬉しくなる。

 とりわけ古書ワルツは、ときどききれいなお姉さんがやってきてテキパキと売れたあとの隙間に本を補充するのが好感度高し。それから羊頭書房の棚には例によっていかにも一癖ありげな客が蝟集していた。中にはSRの会の重鎮S氏の姿も見られた。声をかけるのもはばかられるような真剣な面持ちで本を物色しておられた。

 それに比べると古参勢の棚には「まあお付き合い程度に適当に並べておくかいな」みたいな投げやりな感じが見られたのは残念なことだ。せっかくの年に一度のお祭りなんだから、ツブす予定の雑本でも何でもかまわないから(←ここ最重要)、棚が溢れかえるくらいに持ち込んでほしいものだと思う。


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 上の写真は初日の収穫の一部。ボンテンペリとカスティリオーネの本は河野書店、ゴシック・リバイバルとアウエルバッハは三日月書店の出品だった。値段はいずれも千円以下。

また佐野洋を読んだ

また佐野洋を読んだ。今度は『同名異人の四人が死んだ』。





人気作家名原信一郎がある地味な地方紙に『囁く達磨』という中篇小説を連載した。それからかなりたって、不思議な事件が起こる。その中篇では四人の人物が死ぬのだが、その作中の四人と同姓同名の四人が、現実に次々死んでいくのである。

もちろん名原自身は事件には何のかかわりもない。また名原の証言によれば登場人物の名は実在の人間から採ったものではないという。ということは犯人が作中人物の名と同じ名を持つ実在人物をわざわざ探して殺したとしか思えない。

つまりこの小説は、「ある一定の法則にしたがって連続殺人が行われるのだが、犯人がなぜその法則に従うのかわからない」という謎を扱っている。一種のホワイダニットである。この種の謎の古典的な例としては(殺人ではないけれど)ホームズ譚の「六つのナポレオン」がある。

この種の謎の解決でいちばんつまらないのは、犯人の頭がおかしかった、いやそこまでいかなくても、動機がいわゆる狂人の論理に(あるいはフロイト的な意識下の動機に)もとづいていたというものである。あの『ABC』にさえ少しそのきらいはある(正気の人にはとても実行できまいと思わせる点で)。ましてや『僧正』や『悪魔の手毬歌』などにおいておやである。『五番目のコード』も佳作だったがその点が少し物足りなかった。

いわゆるミッシング・リンクもの、つまり「一見ばらばらの連続殺人に実は意外な関連があった」という謎にしても同じで、動機が狂気じみてきたり精神分析じみてくるとやはり興ざめである。一般に名作といわれている『九尾の猫』も、その点が不満に感じられる(それにあの本の統合失調症だったかの描写には今では少し問題があるような気がする。あと某容疑者について、九件の事件のうち一件にアリバイがあったから残りの八件もシロとするのは、エラリーの推理にしては粗雑すぎやしないだろうか)。

まあそれはともかく、それに比べると、あの『プレード街の殺人』は、動機のまっとうさの点で、さすがに古典の名に恥じない名作だと思う。「一見ランダムに選択されたように思えた被害者たちは、実は本当にランダムに選択されたものであった——ただし犯人以外の手によって」というアクロバット的な真相がすごい。どこかで新訳が出ないものだろうか。それともみんなトリックを知っているから「今さら」と感じられてしまうのだろうか。

余談が長くなったけれど、この『同名異人の四人が死んだ』も、犯人がバリバリの正気である点で高く評価できる。つまり犯人にはその四人全員を殺すのっぴきならない、そして卑俗な動機があるのだ。俺だってそんな事情があればやはりその四人を殺すかもしれないな、という納得感がそこにはある。(ただその動機に説得性を持たせるためか、犯人の告白に佐野洋らしからぬポルノ的描写を交えているのが、若干後味を悪くしているが……)

佐野洋はよく心理的に読者を迷わせる卑怯な手を使うが、この作品にかぎっては大直球勝負である。律儀に一章にひとつづつ重要な手がかりを出してくる。だから本当は第十三章あたりまで読むと犯人がわかってもいいはずなのに……いいはずなのに……やはりまんまとしてやられるのであった。

『アエネーイス』の三種の訳

ラウィーニア (河出文庫)

ラウィーニア (河出文庫)

 ル=グウィンの『ラウィーニア』が文庫になった! 拙豚はル=グウィンはほとんど読んでいないのだが、読んだ中で一番好きなのはこれだ。訳者あとがきにはウェルギリウスの『アエネーイス』を読んでなくても大丈夫というようなことが書いてあって、それは確かにそうかもしれないが、やはり読むと読まないとでは大違いである。というか、ル=グウィンが仕掛けた企みは前もって『アエネーイス』を読んでないとあまり実感できないだろうと思う。

 それではひとつ『アエネーイス』を読んでやりましょうかという気になったとき、今手に入りやすい訳は三種ある。岩波文庫の泉井久之助訳、京都大学学術出版会・西洋古典叢書の岡道男・高橋宏幸訳、それから新評論の杉本正俊訳である。
 
 
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 訳しぶりは三者三様にかなり違う。例としてトゥルヌスの妹婿ヌマーヌスがアエネーアースの息子アスカニウスをdisるシーン(巻9, 612-618行)を比べてみよう。ます泉井久之助訳だとこんな感じである。

兜で白い髪押え、常に新たな戦利品、
たずさえ帰って略奪に、生きるを誇りとするわれら!
それにくらべて貴様らは、サフラン色と紫の、
輝くころもを身にまとい、怠惰にふけって心萎え、
踊りにおぼれて他愛なく、内衣といえば袖があり、
頭に載せる頭巾には、何とリボンがついている!
貴様らトロイアの女たち!——トロイアの男と言えるかい!——
貴様なんぞはディンデュマの、高みをうろうろするがよい。
そこなら貴様らいつものよう、音出す二つの口のある、
笛の音十分聞けるわい。

 
これが岡道男・高橋宏幸訳だとこうなる(訳文中の「プリュギア」とはトロイアのこと)。

われらは白髪にも兜をのせる。つねに奪ったばかりの
戦利品を持ち帰り、獲物により暮らすことが喜びだ。
おまえたちは、サフラン色や輝く紫の糸で刺繍した衣を着て、
心は惰弱、歌や踊りにふけるのが楽しみ。
トゥニカには袖、頭巾にはリボンがついている。
ああ、本当はプリュギア女なのだ。男ではないのだから、行け、高き
ディンデュマへ。そこだ、馴染みの笛が筒二つの調べを鳴らすのは。

 
ところが杉本正俊訳だとぐっとくだけて、いかにもdisっているという感じになる。

 われらはな、白髪頭にこう兜をぐっと押しつけてじゃ、つねに新たな獲物を持ち帰る。略奪こそがわれらの生き甲斐じゃ。
 しかし貴様らにはな、鮮黄(サフラン)染めじゃの紫貝(ムーレクス)染めじゃの、けばい衣装がお似合いじゃ。ダンスなどにうつつを抜かす、性根の腐って抜け落ちた貴様らにはな。
 貴様らの寛衣(トゥニカ)には、長袖がついていやがる。それと、あれあれ、頭巾(ミトラ)の花リボン、何じゃあれは。
 おお、プリュギア人どもよ、いやさプリュギア嬢さんたちよ、ささ、ディンデュマのお山に行きましょ。そこで吹きましょ両穴(りょうけつ)の葦笛。

 
 拙豚はラテン語を一字も解さぬゆえ、どれがいいとか悪いとかいう資格はまったくない。しかし正直に言うと最初の二つの訳は読むのにすごく難儀した。杉本正俊訳が出てくれたおかげでようやくこの名高い名作を最後まで読み通せたのだった。この杉本正俊訳で読む『アエネーイス』はル=グウィンの『ラウィーニア』に劣らず面白い(嘘じゃないよ)。「~じゃ」という時代劇めいた語尾や、「いやさ」というような民謡もどきの表現、さらには「けばい」というような現代の俗語の使用もいい味を出している。もっとも煉獄のウェルギリウスがこの訳を知ったらカンカンになって怒るかもしれないが……。しかしル=グウィンの『ラウィーニア』を百倍楽しむためにはこの杉本正俊版『アエネーイス』は実に強い味方なのだった。

早稲田古書街散策


 
ひさしぶりに高田馬場駅でおりて早稲田古書街へ行く。まずは駅前の芳林堂書店。なんと海外文学の棚がひどく縮小され、片隅に追いやられている。あたかも「銀の仮面」に出てくる老婦人のごとし。それでもきっと書店員の方の矜持があるのだろう、厳選されたいい本が並んでいる。棚に神経が配られているかどうかは一目見てわかるものだ。

モーリス・サックスの "Le Sabbat" が『魔宴』という題で刊行されているのを発見。おおついに訳出されたか! これは伝説の書で、たしか澁澤龍彦が若いころ読んで興奮したとか書いていた本である。むかし英訳で初めのほうだけ覗いたことがある。お母さんとの別れのシーンが印象に残っている。ああこの人は同性愛者になるのも無理はないなあとひしひしと感じさせるいい場面だった。旧ですぺらで一考さんともこの本を話題にしたように覚えている。
 
肝心の古書店街は半分以上の店がシャッターを閉めている。午後早いせいかもしれない。ちょうど二朗の人がシャッターを上げているのに行き合わせた。午後二時ころの話である。古書現世に入ると恰幅のいい店主が番台に座ったまま、グワーとかすごい音でイビキをかいて寝ていた。起こすのも悪いのでそっと棚を見てそっと帰った。こういうノンビリしたバンカラの雰囲気は悪くはない。いかにも早稲田という気がする。

次は丸三文庫。たしか前は別の場所にあった店だ。おそらくまだ若い店主がやっているのであろうお洒落な店で、洋書がリーズナブルな価格で並んでいるのがありがたい。ここではクーデンホーフ・カレルギーとアルベルト・サヴィニオとジャン・ポーランの本を買った。買ったとて本当は読めはせぬのである。いや待てよ、この「買ったとて本当は読めはせぬのである」というセリフは誰のセリフだったか。おうそうそう『どくとるマンボウ航海記』の中で作者がドイツの書店でヤスパースの本を買ったときのセリフだった。

あと古書ソオダ水にも寄ろうと思ったけれど、店を発見できずに断念。たぶん道を間違えたのだろう。ここもいい店なのに残念。

本の雑誌10月号


 
 
「すごい机の写真が載っている!」と巷で話題騒然の「本の雑誌」10月号を買ってきた。
 
たしかにすごい! 机の写真にも驚いたが、もっと驚いたことがある。突撃インタビューのトップバッターに、特に名を秘す版元の、特に名を秘す編集者の方が登場している。この方の机の上には、2007年のゲラが置いてあるという(他にも2010年とか2014年のゲラもあるそうだ)。印刷所から来たゲラなのか著者が赤字をを入れて戻したゲラなのかはわからないが…………2007年というと13年前である。まだ民主党が政権を取っていないころの話である。その頃からずっと机の上に置かれていたのだろうか???
 
この会社の入口を入ってすぐ右側に「今月の新刊」というショーケースがあるのだが、そこには『ベータ2のバラッド』とか『グラッグの卵』とかが並んでいる。これを見たときには、「ほほう、さすがにSFを出している版元だけあって、いち早くスローグラスを導入しているのだな」と感心したものだが、今になって考えてみると別にそんなことは全然なくて、本当に「今月の新刊」みたいな感覚で並べていたのかもしれない…………

いやあんまり言ってると、私のゲラも13年間放置の刑に処せられるかもしれないからこの辺にしておきますが、世の中には常識では計り知れないことがあるのだなとつくづく思い知った。”There are more things”とはこういうことを言うんでしょうね。
 
あと別の方の机の写真を見て、「あーこれは『サラゴサ手稿』は当分出ないな」と思った。地層で言えば白亜紀くらいのところに埋もれていそうな感じだったのである。

得体の知れないインタビュアー

Q&A

Q&A

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以前宮部みゆきの『理由』をこのブログでとりあげたとき、何者ともわからないインタビュアーによるインタビュー形式がこの作品を成功させていると書いた。同じく「何者ともわからないインタビュアー」が出てくる小説では、恩田陸の『Q&A』も忘れがたい逸品と思う。これまで読んだ恩田作品の中ではベスト3かベスト5くらいには入る。

恩田陸という作家は。オーソドックスな小説を書く一方で、おそろしく実験的な、空中分解すれすれの作品も書くという不思議な作家である。後者の系列の作品では、あくどさと洗練が一つの小説の中でパチパチ火花を散らしている。受精卵を中途で割ると、ヒヨコになりかけのものが出てくるが、そんな感じの、作品ならざる不定形のものが作品へと形を取り始めた中途の状態のところを定着して作品にしたといった趣がある。

この『Q&A』はその典型例といっていい。連作短篇の形をとりつつ、いわゆるニュー・ゴシック的な筋立てに回収されようとするプロットを巧みにはぐらかし続けながら、最後にはいままでのあれこれを全部放り投げてアッと驚くところに着地する(いや着地はしていないか。むしろ空に消えるというか……)。内に秘められた暴力性というか破滅衝動というか、その異様さが忘れがたい作品である。

まだ佐野洋を読んでいる

まだ佐野洋を読んでいる。佐野洋というのはなにしろ読んだとたんにキノコの惑星のごとくスカーと忘れられるので、何度でも読み返しがきく。

でも何度読んでも面白い。土屋隆夫や天藤真の作品集成を出すという偉業を成し遂げたS元S理文庫はなぜ佐野洋に目をつけないのだろう。少なくとも初期作品は傑作ばかりなのに。権利関係で難しいところでもあるのだろうか。

今読んでいるのは『古い傷』という短篇集。七十年代の終わりから八十年代にかけての作品が集められている。さすがにこの頃になるとすべてが傑作というわけにはいかず玉もあれば石もある。だがその中にこんな話がある。

AとBは同じ会社を同期に入社した。しかしその後出世に差がつき、Aが課長のままなのにBは人事部長に抜擢された。でも二人は相変わらず同期のよしみで時々一緒に酒を飲む。そんな酒の席で、AはBから会社を辞めてくれないかと打診される。リストラ計画の中にAの名も入っているというのだ。先の見込みもないと思ったAはおとなしく会社を辞める。

その後Aは元いた会社のC子を愛人にした(早くに妻を亡くしたAはずっと独り身の生活を送っていた)。そんなある日、Aは久しぶりにBから酒の誘いを受ける。席上でAはBから、元いた会社のDが死んだことを告げられる。警察は自殺と判断したそうだ。だがBはAに、お前が殺したのではないかと言う。実はDはC子とつきあっていたというのだ。Aはもちろん自分が殺人犯でないのを知っている。そして別のことを考えた。もしかするとC子がDを殺したのではないか……

これでお終いである。真相はわからないまま終わる。でも警察が自殺というならそれなりの根拠があるだろうから、やはり自殺が真相ではないだろうか。少なくとも素人の当て推量よりは正しそうだ。この短篇で面白いのはよりむしろ、同期に会社を辞めさせる、もとの会社の女性を愛人にする、というような気まずい人間関係が醸し出すもつれた心理、そこから発生する疑心暗鬼のほうにある。おおげさに褒めればサマセット・モームやモーパッサンの味があるのだ。

不思議な印刷ミス

手持ちの辞書に不思議な印刷ミスがあるのに気づいた。買ったのは何年も前だが、印刷ミスに気付いたのはつい最近のことだ。

下の画像を見てほしい。"demetritorio" の "de" のところが破れているのが見えると思う。拙豚が破ったわけではない。最初から破れていたのである。さらによく見ると、"demetritorio" の左側の文章がおかしいのに気づく。「無礼の態度は皆が線」とか「③〈口査」とか、とても日本語とは思えない。
 
 

 

これは実はここで半円形に破れて折られたまま印刷されたものなのだ。「市」とか「線」とか「査」は、破れた穴から顔をのぞかせている前ページなのである。折れた部分を垂直に立てるとこんなふうになる。

 

 
おかげで「無礼の態度は皆が」のあとは印刷されず白いままになっている。
 

 
紙が薄くてページ数が多いとこんなことも起こるのですね。まあ読むのに支障があるほどではないからよかった。

チャンドラーのベストとワースト


 
 
レイモンド・チャンドラーの残した七つの長篇のうちのベストといえば、『長いお別れ』であるのは衆目の一致するところだと思う。数年前の日記に書いたような、いくつもの解釈ができる余韻あるラストもいい。それから文章もいい。片岡義男氏と鴻巣友季子氏の対談で構成された『翻訳問答』という本があるが、そこに『長いお別れ』の原文が一ページほど載っている。それを見てひっくりかえった。なんとすばらしい文章なのだろう。

もっとも一般的な意味ではいい文章とは言いかねると思う。片岡氏が指摘するように「視線が刺さって背中から突き出た」みたいなあまりにもアメリカンなジョークには辟易するし、鴻巣氏が指摘するように、"they get" を "there are" の意味で使うのは崩れた感じがする。しかしそれにしても文章全体から漂う静謐な詩情はどうしたことだろう。この一ページだけで読者はテリー・レノックスという青年を好きになってしまう。マーロウが彼を好きになったように。

というわけでベストが『長いお別れ』であるのに文句はないが、それではセカンドベストは何だろう。これは人によってばらつきがあると思う。わたしの好みでいえば『大いなる眠り』と『かわいい女』が甲乙つけがたい。『かわいい女』の魅力についてはさっきと同じ日の日記に書いた。読後心に残るのは間接的にしか語られていない「かわいい女」の面影である。「かわいい女」というと最初に登場する女性のことだと思われがちだが、たぶんそれは違う。ラストで話題にのぼる女こそ真の「かわいい女」ではないかと思う。『大いなる眠り』はリアリズムを通り越してマジックリアリズムにまで到達している人物描写と、それからマーロウと犯人が対決するラストシーンの迫力がすばらしい。

それではワーストは? これも人によって違うだろうが、『プレイバック』に軍配をあげたい。お終いのほうで明かされるアリバイトリックの下らなさの故にである。おそらくチャンドラーの長篇で推理小説のトリックらしいトリックが使われているのはこれ一作だけだと思うが、まあ何というか、使わないほうがどれだけマシだっただろうと思われるトリックなのである。