「深い健康」


9月2日の日記で触れた「人間性という地獄の劫火」と、ペアのように思い出される乱歩の言葉がある。

「石子責め、鋸引き、車裂きなどの現実を享楽し得るものは、神か無心の小児か超人の王者かであって、現実の弱者である僕には、それほど深い健康がない。しかしそれらが一たび夢の世界に投影せられたならば、それを幻影の国的な恐ろしさで、享楽することが出来る」

これは「残虐への郷愁」というエッセイの一節である(三島の『幻想小説とは何か』と同じ平凡社ライブラリーの『怪談入門』という本に入っている)。「深い健康」というのは実にまったくもって言い得て妙な表現で、これは逆説的なレトリックではなく、アイロニーでもなく、乱歩の実感が自然に吐露されたものだろうと思う。一般には変態と呼ばれるものを「深い健康」と言い切るところに乱歩の頼もしさがある。没後半世紀以上たってもいまだ衰えぬ人気もそんなところに原因があるのだろう。

この「深い健康」が三島のいう「人間性という地獄の劫火」と類縁のものなのか、それともまったく違うものなのか、それはまあよくわからない。三島の「網の上の食べごろの餅」と乱歩の「夢の世界への投影」との関係もうかがい知るすべもない。はっきりしているのは両者ともに犯罪者への共感があったことくらいだろう。

ただ乱歩は三島と違って最後まで夢の世界に逃げ切ることができた。これは乱歩の生温さを示すのか、それとも年の功なのか、それとも「深い健康」がなかったためなのか……

『短編ミステリの二百年 3』


小森収氏編纂の『短編ミステリの二百年』(創元推理文庫) は早いものでもう第三巻が出た。しかも巻を重ねるごとに分厚くなっていく。あまりのボリュームに圧倒されて一巻からずっと積んだままにしてある。

ずっとペースを乱さずに着々と(読むのが追いつかないくらいのスピードで!)出ているのがえらい。さすがミステリである。だてに日頃から時刻表トリックとか四分間の空白とか言っているわけではないのがよくわかる。

18時30分発のはずの特急「あさかぜ」がそのまま十年間東京駅ホームに止まったままだったらミステリでは大ごとになるだろうが、怪奇幻想アンソロジーの世界なら見慣れたいつもの光景にすぎないような気がする。あと百年もしたら動き出すのだろうか(一般論です。特定のアンソロジーのことを言っているわけではありません)。

『つわものども』

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 第一級の天才を持つ、小説を書くために生まれてきたような作家が書いた小説を読むのはなんと楽しいことだろう。ウォーもまさしくそうした作家のひとりで、読む前から面白さは保証されているようなものである。

 主人公ガイ・クラウチバックは由緒ある旧家の末裔である。カトリックの掟で離婚した女が死ぬまでは再婚できず、この旧家も彼の代で終わることがほぼ確定している。1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、ガイは35歳にもなるのに、軍隊に入りたくてたまらなくなる(特に勇敢とか英雄的とか愛国心があるとかいう性格ではない。実によくわからない心理である)。年のせいであちこちで志願を断られるが、なんとかホルバディアーズというこれも由緒ある部隊の見習士官になることができた。ガイともう一人アプソープという男は同期の中でもきわだって年を喰っているので「アンクル」というあだ名がつけられた(ナポレオン・ソロみたいですね。いや全然違うか)。

 このホルバディアーズというのがまた変人ばかりのいっぷう変わった部隊で、いくらイギリスが変人の国といっても、まさかこれが普通ということはないと思う。中でも異彩を放つのが第二章以下の表題にもなっている同期アプソープであった。ガイのときも思ったけれど、なんでこんな人が好き好んで戦争に行きたがるのか。名誉欲というばかりでもないと思うのだけれど、やはり変人だからなのか。それはともかく、やがて戦局は混乱をはじめ、ガイはスコットランドやダカールやシエラレオネと行き当たりばったりな感じで派遣される。だが実際の戦闘は最後まで起きない。ついにはガイが生きているのに過去形で噂されるところでこの小説は終わる。

 戦争ものというのに派手な事件はまったく起きない(といっていいと思う。何をもって「派手」というのかは議論がわかれると思うけれど)。『誉れの剣』というタイトルなのに、主人公ガイは名誉なことは何もしない(不名誉なことなら山としでかす。しまいには部隊を追い出される)。全然つわものでもないし、完全にタイトル負けしている。しかしキャラクターの妙と、携帯用便器とか黒人の首とかけして飲んではいけなかったウィスキーとかいう、いかにもウォー風のエピソードのおかげで一気に読まされてしまった。


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ところでウォーはロナルド・ノックス猊下の伝記を書いている。こんな人に伝記を書かれてノックスは不安ではなかったのだろうか。

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見返しを見るとこれも東京泰文社で買った本だった。往時の泰文社には何でもあったものだ。まるでバベルの図書館みたいに。しかもとびきり安かった。

ひたむきな三島由紀夫(2)

 
 ……『幻想小説とは何か』の東さんによる解説を読んだら、本来は評論の部が巻頭に来るはずが、版元のアドバイスで今の形になったという。小説篇か戯曲篇でこの本が終わっていたら、夢野久作の「瓶詰の地獄」みたいな効果が得られたであろうに、惜しいことであった。これから読む読者は目次に逆らって、編者解説で解説されている順、つまりⅣ→Ⅲ→Ⅰ→Ⅱというふうに読んでみたらどうだろう。

ひたむきさの話に戻ると、三島最晩年のエッセイ「小説とは何か」の中にこんな文章がある。

「法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかって、人間性という地獄の劫火の上の、炭焼きの餅の比喩を用いたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになった餅であり、芸術は適度に狐いろに焼けた喰べごろの餅であると説いたことがあった」(『幻想小説とは何か』p.424)

真面目に書いているのは間違いないと思うが、いかんせん比喩が奇抜すぎて、こういう厳粛な物言いをするときには醸されてはならぬ滑稽味が出てしまっている。例の皿屋敷のエピソードにしても同じだ。たんに阿頼耶識を熱く語るだけなら問題はない。「三島さんは片時も小説のことを忘れないですごいなあ」と尊敬さえされたかもしれない。なまじ皿なんか持ち出して熱弁したがゆえに、「三島さんそれは皿屋敷ですよ」とからかわれることにもなるのである。

でも三島がなぜことさらにこんな変な比喩を好んだかはわかる気がする。「小説とは何か」のお終いのほうに、作品内と作品外、二種の現実の対立緊張が執筆のエネルギーになっているという話が出てくる。とすれば卑俗の極である餅焼き網や皿と己の思想とを対置させスパークさせようというのは当然の話だ。ましてや最後には三島自身が網から転げ出て黒焦げになったからには。

三島の比喩の奇抜さは福音書が語るイエスの喩えの奇抜さを思わせるものがある(キリスト教徒の方々におかれましては無信仰者の妄言にどうかご寛恕のほどを!)。そういえば三島とイエスの最期は、父を、あるいは奇蹟を求めて拒まれるところにも相通ずるものはなかったろうか。


ところで餅焼き網の喩えにある「人間性という地獄の劫火」……これが三島の場合に何を意味していたかは、新資料の公表によって拙豚のような蒙昧者にもだんだん明らかになりつつある。たとえば新全集の補巻に収録された「愛の処刑」がそうだ。あるいは堂本正樹氏による回想 『 回転扉の三島由紀夫』——この本は何年も前の文学フリマで、柳川貴代さんがいらしたブースで買ったものだ。この驚愕の書を薦めてくださった柳川さんに感謝したい。

『幻想小説とは何か』に収録された澁澤あて書簡にこんな一節がある。

「ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボオドレエルのいわゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです」(同p.249)

この「もっとも書きたかった殺し場」「小生の内面のグラン・ギニョール」とはいかなるものかを、『回転扉の三島由紀夫』は赤裸々に説き明かしている。ああ、なんというグラン・ギニョールだろう! まさに「愛の処刑」だ。しかもそれを二十枚も書くとは! ボードレールもこんなところで引用されてさぞかし迷惑していることだろう。

ひたむきな三島由紀夫(1)


「折ふし夕べにシャーロック・ホームズを思う/これはわれわれに残されたよい習しだ (Pensar de tarde en tarde en Sherlock Holmes es una / de las buenas costumbres que nos quedan.)」とボルヘスは歌った。ならば折ふし夕べに三島を思うことも、われわれに残されたよい習わしであるだろう。ああ、三島とは思い出ならずや。

今回東雅夫さんの編纂で出た『三島由紀夫怪異小品集 幻想小説とは何か』はそんな三島を偲ぶにうってつけの書で、平凡社ライブラリー独特の高雅なフォント、瀟洒な本文レイアウトで読む三島由紀夫には格別なものがあり、三島自身の言葉を借りれば「読者の魂を天外へ拉し去る」。

三島由紀夫といえばまず思い出すエピソードは、これはたしか澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』に出てきたと思うが、三島邸で催されたこっくりさんの会の話だ。真剣そのものの面持ちで取り組む三島があまりにおかしくて、その場にいた奥野健男夫人がプっと吹きだした。すると三島は「奥野夫人、不謹慎ですぞ!」と怒ったというのである。「三島はザイン(ある)の人ではなくてゾルレン(あるべき)の人だとつくづく思った」というようなことを澁澤は書いていた。つまりこっくりさんは信じるものではなく信じるべきものであるということだ。

もちろん三島のこのゾルレン趣味は降霊会のときだけ現われるのでなく、本書にもあちこちに顔を出している。たとえば鷗外の「寒山拾得」を称揚するくだり(本書 p.334)。「水が来た」という文を例にあげて、鷗外の文章は「簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません」と書く。でも「水が来た」のすぐ二行後にある「不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪(もっけ)の幸いであった」という、それこそ装飾的な、というかユーモラスな遊びの文章は黙殺している。

あるいはやはり鷗外の「渋江抽斎」を「まるで濃いエキスを飲むように、一般の読者にはにがい飲物であります」(本書p.341)と評す。でも「一般の読者」であるはずの自分はあまりそうは思わない。「抽斎」の中で思い浮かぶギャグシーンを挙げてみると、

・抽斎の父允成はすごいイケメン侍だったので、飲み残しの茶をお女中たちが競い合ってねぶった。

・森枳園はあまりに芝居が好きすぎて、ついには武士の分際で舞台に上って役者の真似事をするまでになった。それがお上にばれてサア大変! とうとう枳園一家は闇にまぎれて夜逃げした。

・比良野貞固が後妻をもらおうとするに際し、信頼する老人にその候補を見にやらせた。老人が美しくしとやかだとしきりに褒めるのでその女をもらうことにしたが、当日輿入れしてきたのはあにはからんや、美しくもしとやかでもない女だった。いったいなぜ?

・抽斎の次男優善はすこぶる出来の悪い息子であって、ついに切腹を余儀なくされるところまでいった。ところが母があんな馬鹿息子は切腹する値打ちもありませんと言ったので沙汰止みになった。

これらのエピソードは、北杜夫ふうに言えば「書いても書かなくてもいいが、どちらかと言えば書かぬほうがマシなこと」だと思うが、なぜか鷗外は書いてしまうのである。あと臍で煙草を喫む男の話や、ナメクジが大嫌いで暗闇の中でも遠方にナメクジがいるとそれとわかる男の話や、片目だけ開けて眠る女の話など、いかにも江戸綺譚らしいエピソードもあったように思うが、これらは抽斎ではなかったかもしれない*1。まあともかくユーモアというのは真面目な顔でやられるとそれだけいっそう効果があるものだ。

しかし三島にとっては鷗外はあくまで「簡潔で清浄な」文章家で、「渋江抽斎」は「一般の読者にはにがい飲物」であらねばならない。ゾルレン趣味たるゆえんである。「鷗外はこうであらねばならぬ」といったん決めたらそうであらねばならぬのである。

このゾルレン趣味はもちろん小説にも発揮されていて、たとえば『金閣寺』は、金閣寺放火犯の動機はこれであるべきだ! とまず決めておいて、そこから逆算して物語を組み立てていったのではなかろうか。本書所収の「仲間」も、これは文字通り煙に巻かれるような話だけれど、たぶん最後の一行がまず頭に浮かんで、そこから残りが書かれたのではという気がする。

またこれは余談だが、この「仲間」は渡辺温の「父を失う話」の絵解きのような気がして仕方がない。つまりこの物語の「僕」はいずれは「お父さん」に捨てられるのではなかろうか。あらゆるものを煙にする「僕」は最後には煙のように消えてしまうのがふさわしいと思う。


 
 

*1:【9/10注記】あとで調べたら全部『抽斎』中のエピソードだったことが判明

元祖オレオレ詐欺

オレオレ詐欺の歴史は古い。旧約聖書によれば、モーセが神に「民にあなたの名を何とお伝えしましょうか」と聞くと、神は "I am what I am. (欽定訳では I am that I am)"と答えたそうだ(出エジプト記3:14)。この英訳は直訳すると「わたしはわたしであるところのものである」となる。くだけて訳せば「俺だよ、俺!」というのに近い。

では神はなぜこんな回りくどい返事をしたのか。ボルヘスの説によれば(正確に言えばボルヘスが紹介しているマルティン・ブーバーの説によれば)、神は自分の本当の名を知られたくなかったのだという。名を知るということはその者を支配することであるから、本当の名を漏らせばモーセに支配されてしまうと恐れて"I am what I am"とごまかしたのだという。

しかし神がモーセにも漏らさなかった本音を打ち明けた相手がただ一人いる。何をかくそうシェイクスピアである。やはりボルヘスの「everything and nothing(全と無)」では、神はシェイクスピアにこう言う。「わたしもわたしであるものではない。わたしはお前がお前の作品を夢見たように世界を夢見たのだ、わたしのシェイクスピアよ」

つまりモーセに答えた "I am what I am."はウソだったということだ。元祖オレオレ詐欺たるゆえんである。

『幻想と怪奇』3号

各所で話題騒然の『幻想と怪奇』3号を買ってきた。
 

 
 
巻頭80ページあまりの平井呈一特集は圧巻で、これだけでも十分にもとはとれるが、さらに圧巻なのはそれに続く短篇群である。実にみごとなアンソロジー(精華集)になっている。アンソロジーのテーマはいわば平井呈一趣味であり、「こわい話・気味のわるい話」趣味である。

不思議な現代性をたたえるウォルター・スコット「タペストリーの間」(和爾桃子さんの訳文のせいかも)、マリオン・クロフォード、E.F.ベンスン、A.M.バレイジなどの遺珠発掘、聡明で清澄なアスキス節が堪能できる「白い蛾」(いわゆるフェミニズム色も感じられる)。ニュー・ゴシックのえげつない(←誉め言葉)匂いがプンプン漂うマイクル・チスレット「ミスター・ケッチャム」。

それから井上雅彦氏の「紙の城館」。並みいる英米の強豪に混じって違和感がないのもすごいが、平井呈一への絶妙なオマージュになっているのには大感服した。
 
 

ディスプレイ用書籍

神保町の北澤書店がディスプレイ用書籍に力を入れ始めたという噂を聞いてさっそく行ってみた。ここの二階に足を運ぶのは何年ぶりだろう。いや何十年ぶりかもしれない。どうもあの威圧するような雰囲気が苦手なのである。大昔には店頭平台に特価本のコーナーがあって(特価本といっても北澤のことだから五冊セット三万円とかいう値で「文句があったらヴェルサイユにいらっしゃい」みたいな感じで並んでいる)いやまあそれでもよくのぞいていたものだが、それも遠い思い出になった。

脇の階段から二階に昇ってすぐの左右二列がいわゆるディスプレイ用書籍らしい。内容別ではなく表紙の色別に並んでいるところがいかにもという感じだ。しかしいい本がリーズナブルな値段で並んでいる。昔の平台特価本のイメージが帰ってきたようでうれしくなってしまった。一時間あまり滞在した後、結局D.H.ロレンスの訳したイタリア作家の短編集 "Little Novels of Sicily (Giovanni Varga)"だけ買って退散。ちなみに900円だった。

それはそれとして、ディスプレイ用書籍と聞いてまっさきに思い浮かぶのはクイーン『第八の日』のラストでうやうやしく取り出される一冊の本である。いかにディスプレイといっても、だいたいの内容は知っておいたほうがいいような気がする。

おお、それからやはりディスプレイと聞いて思い出すのは、東京堂書店の一階にあるペーパーバック・カフェのディスプレイである。向かって左側の上段の列、左から確か二冊目にサイモン・シャーマの本が鎮座しましている。買えば軽く一万円を超す本だ。要らない本を持っていって、「これと交換してください」と言いたくなるがいまだその勇気は出てこない。

本の雑誌9月号

北原尚彦さんが大活躍しているという噂の『本の雑誌』9月号を買ってきた。なるほど大活躍だ!

国書刊行会、早川書房、東京創元社三社の中の人による座談会によると、国書の豆本等のプレゼントがあると真っ先に応募してくれるのが北原さんだそうだ。いつもありがとうございます。

それはそうとこの座談会を読むかぎりでは、豆本プレゼントが中の人にも好意的に見られているらしいのでホッとした。というのは豆本は作る方は楽しんで作るのでいいのだが、発送などの事務は大変だろうと思うからだ。それも中野さんの場合は数十部だけど、こちらは抽選がめんどくさいので実質全プレに等しい百部である。それをいちいち住所ラベルを打ち出して封筒に貼って挨拶状といっしょに本に入れて……となると、想像するだに大変そうで申し訳なさがつのる。それで売り上げはせいぜい百冊増えるだけなのだから……

そうはいうものの、もうすぐ出ると噂される『土の人形(ひとがた)』が無事刊行され、キャベル傑作選が完結したあかつきには、また(巨大)豆本プレゼントをやりたくてウズウズしている。といってもまだ編集の方とは全然話をしていないので、このリモートワーク全盛の折に実現可能かどうかは、現時点ではまったくわからない。

とりあえず『ジャーゲン』『イヴのことを少し』『土の人形』の三冊の書影に、『ジャーゲン』帯の「〇〇〇〇」の解答を添えてツイートすれば(正解でも不正解でも)抽選で百名に豆本プレゼントというのを考えているがサテどうなることやら。

後悔しない秘訣

昨日の日記で「いつなんどき変な圧力がかかって出版差し止めとか回収とかになるかもわからないから」と書いたが、これはすなわち、「あとで後悔しないよう今のうちに買っておく」という意味である。買って後悔するか、買わずに後悔するか、これは千古不易の悩ましい問題だ。

しかし「買って後悔」の場合は、その後悔はしょせん費やした価格だけの問題にすぎない。ところが「買わずに後悔」は、後悔の度合いが定量的に測れないだけに、いつまでも後をひく。とくに古本の場合だと一期一会という場合も多々あるのでなおさらだ。買わずに後悔した本はいまだにどの店のどの棚のどこらへんの位置にあったかまで覚えている。よほど執念深い性格なのかもしれない。

しかし亀の甲より年の功、年歯を重ねるにつれ、「買わずにいて、しかも後悔しない」方法をじょじょに編み出すにいたった。それを一言で言えば「買わないと決めたとき、その理由を明確に心に刻み込む」ということだ。

といっても、お金がないとか、買っても置くところがないとか、重いので持ち帰るのが面倒とか、買ってもどうせ読みやしないとか、そういう普遍的な理由はあとで必ず後悔のもとになるから、絶対に禁物である。「買わない理由」はその本特有のものでなくてはならない。たとえば表紙の角がつぶれているとか、ページが折れているとか、三文判の蔵書印が捺してあるとか、店主がやたらにエラそうであるとか。逆に言えば、どうにもこうにもケチがつけられないような本はエイやっと買うということでもある。この秘訣を編み出して以来、よほど心の安寧がえられるようになった。