田舎から都会に

  

 
 今日はハイデガーを読みながらチャンドラーのことを考えていた。もともと「存在とは何か」より「誰が犯人か」を考えることに向いているミステリ脳なので仕方がない。

 周知のように『長いお別れ』(『ロング・グッドバイ』)ではラストで意外な人物がヒョコッと出てくる。この人物については三つ考え方があるように思う(他にもあるかもしれない)。

  1. 正真正銘の本人であった。
  2. マーロウの幻覚であった。
  3. 亡霊であった。

 『ロング・グッドバイ』のあとがきによれば、この作品は『グレート・ギャツビー』の強い影響下に成ったそうだ。もしそれが本当なら、すくなくとも1.ということは考えにくいように思う。とはいえあのキャラクターなら、またまたマーロウを慕ってやってきても不思議ではない。

 マーロウは酒壜を手放せず、またしょっちゅう頭を殴られて気絶しているから、客観的に見てもっとも蓋然性が高いのは2.だろう(映画でいえば『太陽と月に背いて』のラストみたいな感じ)。しかしいっぽう怪奇党としては3.も捨てがたい。チャンドラーはパルプ雑誌時代にファンタスティックな話も書いているから……

 まあでもこれは考えて解ける問題ではない。むしろ問題は、この作品が、なぜこんなシュレーディンガーの猫みたいな読後感をもたらすかということだ。暫定的な結論としてそれはマーロウが他の人物たちに置く距離感にあると思うがどうだろう。ともあれこの作品がチャンドラーの他の作品にはない感銘を残すのは、この結末のあいまいさのゆえ――つまり最後にねじの一ひねり(Turn of a screw)がなされているからだろうと思う。
 

 
 あるいは『かわいい女』(『リトル・シスター』)。この作品はさして長いものでないにもかかわらず、後半に入るとプロットがものすごく混乱してくる。訳者の村上春樹がこんなことを書いているほどだ。

僕は何度もこの小説を読み返しているし、このように翻訳までしているのだが、結局誰が誰を殺したのかと訊かれると、急には答えられない。「たぶんだいたいこういうことじゃないのかな」としか説明できない。(『リトル・シスター』訳者あとがき)

 村上春樹でもそうなのか!と思わず安堵する一文である。
 
 だがこの作品は、摩訶不思議なことに、「誰が誰を殺したか」が読んでも頭に入らないにもかかわらず、動機だけは鮮明な印象になって記憶に焼きつく。終わり近くでマーロウは依頼人に向かって、「○○家の人間は一人を除いてすべて○○なのです」と漏らす。この「一人を除いて」というところに、すべての悲劇の根源があった。

 動機(むしろ動因といったほうがいいかも)がはっきりしているのに誰が誰を殺したのかがわからない。ふつうにミステリーを書いてこんなことはありえないので、意図的にそういうふうに話を作ったとしか思えない。一人を除いて○○な○○が田舎から都会にやってきたおかげで、連鎖化学反応みたいに事件が起こる。そのありさまを描きたかったので、「誰が誰を殺した」みたいな感じで個人の問題に還元されてしまうのを警戒したのではないだろうか。