東京脱出!

コロナ禍のおかげで、今夕にも帝都に緊急事態宣言が出そうな気配である。そのあおりを喰ってか、東京脱出の動きがあるという。

拙豚の故郷は例の一時間以上ゲームができない恐怖の県であって、帰ろうと思えば帰れないこともない。でも自宅にとどまるつもりである。なぜかというと、まず何より乗り物が怖い。車で帰るのなら別だが、夜行バスにせよ新幹線にせよ、密閉された場所で何時間も過ごすのは自殺行為に近いものがあると思うがどんなものだろう。谷崎潤一郎の何かの小説(「黒白」だったか?)に、汽車に乗るのを病的に怖がる男が出てきたが、今となってはあの男の気持ちがよくわかる。

というわけで今後しばらくは自宅に籠って頼まれた仕事を粛々と続けるつもりである。何しろこの「プロジェクト芋粥」(仮称)はやってもやっても終わらないのだ。この仕事が終わったあかつきには、さしもの新型コロナも終息しているだろう。そうあることを願う。それが無理ならせめてジャリ全集が出るころには……

アンソロジーの終わりかた

 
澁澤龍彦の編纂による『怪奇小説傑作集4』はアンソロジー史に残る名アンソロジーだと思う。

と言うと一知半解の徒は「あれはカステックスのアンソロジーが種本になっているから」とか何とかいうだろうが、それは見当違いもはなはだしい。カステックスのアンソロジーの最後はアポリネールの『虐殺された詩人』の最後の短篇「蘇った詩人」である。いわば他人のフンドシを借りるような終わり方である。ところが『怪奇小説傑作集4』のトリはレオノーラ・カリントン「最初の舞踏会」である。これがすばらしい。

と言うと一知半解の徒は「あれはブルトンの黒いユーモア選集に入っているから」とか何とかいうだろうが、それは見当違いもはなはだしい。あれはまさに、澁澤アンソロジーの最後を飾るために書かれたような短篇である。あえていうなら、あそこに出てくる女の子は、はるかに後の『裸婦の中の裸婦』で、澁澤の話し相手となる女の子を予告しているような感じさえする。

この短篇の原題は「デビュタント」といって、「社交界にデビューする娘」という意味である。最後に置かれた短篇が最初(デビュー)というのが洒落ているではないか。しかもこのデビューは社交界デビューで、つまりそれは少女時代の終わりを意味している。ところが主人公の少女はそれに叛旗をひるがえす。澁澤は映画『ブリキの太鼓』を見て泣いたとどこかに書いていたが、それと一脈通じるものがある。

少女が最後に出てくるアンソロジーといえば、都筑道夫編のポケミス版『幻想と怪奇』のラストである「ミリアム」も忘れがたい。しかしあれはどちらかというと少女よりも老婦人の心理のほうに重心が置かれていた気がする。いやそんなこともなかったかな? 

この短篇は「『ヘロー』ミリアムが言つた。」という文章で終わるが、このセリフは二人のミリアムのうちどちらが言ったのか。その解釈によって、この短篇の受け取り方は相当に異なってくるだろう。もちろん作者はそこを故意にあいまいにしているのだと思う。

ボルヘスとフォークランド紛争

年配の方はご存じだろうが、今から四十年ほど前、フォークランド紛争というものがあった。アルゼンチンの沖合にフォークランド諸島というちっぽけな島々があり、ここは昔から領有権がはっきりしていなかったようだ。というか、イギリスとアルゼンチン双方ともこれは自分の島だと主張していたらしい。

一九八〇年代のはじめに、ふとしたことから両国のあいだで戦争が起きた。そのきっかけはよく覚えていないけれど、いずれ肩が触れたとか足を踏んだとかのくだらない原因だったのだと思う。ともかく時の首相サッチャーの号令一下、艦隊がアルゼンチンに差し向けられた。

アルゼンチンの世論は「鬼畜イギリス撃ちてしやまん!」と大いに沸いたそうだ。戦争の数年後に行われた対話で、ボルヘスは「当時この戦争に反対を表明した作家は自分とシルビナ・ブルリッチだけだった」と述懐している。ボルヘスの声明は「フアン・ロペスとジョン・ウォード」という詩の形でなされ、アルゼンチンの代表的な新聞「クラリン」の一面を飾った。のちに生前最後の詩集『共謀者たち』(1985)に収められた。



フアン・ロペスとジョン・ウォード

二人は奇妙な時代に生きる定めだった。

惑星は別々の国に分かたれ、各々が忠誠を、愛しい記憶を、赫々たる古の勲を、権利を、不正を、固有の神話を、青銅の名士を、記念日を、煽動家を、象徴を授かっていた。その分割は、地図を作るにあたり、いくつもの戦争を後押しした。

ロペスは流れない河の畔 (ほとり) で、ウォードはブラウン神父が歩いた町の郊外で生まれた。ドン・キホーテを読もうとウォードはスペイン語を学んだ。

他方はコンラッドへの愛を表明し、それが啓示されたのはビアモンテ街の教室でだった。

友となるべき二人だったが、顔を合わせたのは一度きり、あまりに名高い島の上で、双方がカイン、双方がアベルとして。

二人は共に葬られた。雪と腐敗が彼らを見舞った。

これはわたしたちに理解できない時代に起きたことだ。


f:id:puhipuhi:20200323134703p:plain
これはプレイアッド版の仏訳。注釈と解題が親切で助かる。


「ジョン・ウォード」は初出では「フアン・ウォード」でフアン・ロペスと同じ名にされている。また「流れない河」とはアルゼンチン国境に流れるラプラタ河のことで、あまりにゆったりとしているので流れていないように見えるらしい。

紙ペーパー

拙豚が小学生のころ、図工の時間に「紙ペーパー」なるものを使っていた。と言うと、えっなにそれ? 紙ペーパーって要するにただの紙じゃないの? と皆さん疑問に思われるだろうが、当時はサンドペーパーのことをそう呼んでいた。「砂ペーパー」とも呼ばれていたが、「紙ペーパー」のほうが一般的だった。

でもその後は、今にいたるまでそんな言葉は聞いたことがなかったから、あれは田舎の方言か何かだったのだろうと思いこんでいた。ところがどっこい、紙ペーパーというのはまだあった。それどころではない。検索したら商品名にさえなっている。すると全国的に使われている用語だったのか。

紙ペーパー健在なり! それはとても嬉しいことだが、変には思われていないのだろうか。「目は人間のまなこなり」という格言(?)があるが、なんだかそれに近い感じがする。昨今は「オーバーシュート」なる言葉の是非が話題になっているようだが(拙豚は「予測を大幅に超える」というニュアンスが感じられるのでぎりぎりセーフではと思うが)、どちらかといえば紙ペーパーのほうが気になるのだった。

ポーと乱歩



 ポーといえば乱歩である。少なくとも日本では。その乱歩が、ポーのストーリーを自己流に料理してみたいと思っていたということが、たしか『探偵小説四十年』に書いてあった。それによると、その一つは「ホップ・フロッグ」で、これは「踊る一寸法師」となって結実した。乱歩自身は失敗作として謙遜しているけれど、たとえば飲めない酒をむりやり飲まされるシーンなど、換骨奪胎として第一級のできばえだと思う。若い頃は乱歩自身も酒が飲めなかったらしいので、その鬱屈が投影されているのだろうか。

 もう一つは「スフィンクス」で、錯覚の恐怖というべきものをテーマとしたこの短篇はいかにも乱歩好みのストーリーだと思う。「恐ろしき錯誤」という短篇が乱歩にあるが、この「スフィンクス」も言ってみれば恐ろしき錯誤をあつかったものだから。ただし残念ながら「スフィンクス」の乱歩化はなされなかったようである。

 しかしそれらとは別に、『探偵小説四十年』では触れられていないが、実現したいわば第三のオマージュ作品があるのではないか。他でもない、「防空壕」である。読めばわかるように、これはポーのある短篇と大まかなストーリーが同じで、どちらも「〇〇と思ったら〇〇だった!」という恐ろしき錯誤を扱っている。未読の人にネタを割ってはいけないので詳しくは述べないが、これは戦後の乱歩の短篇では出色のできばえであるといっていい、と少なくとも個人的には思う。創元推理文庫版日本探偵小説全集に収録されたのもむべなるかな。

過去未来の文学

f:id:puhipuhi:20200318124131p:plain


ラテン系の人たちは時間にルーズだというイメージがある。でもなぜかスペイン語やイタリア語の時制はやたらに複雑である。天下の奇観といっていい。むかしはラテン系の人たちも時間にきちょうめんだったのだろうか。それとも文法が煩雑なおかげでその反動が出て実生活はルーズになったのか。あるいは「ラテン系がルーズ」というのは単なる都市伝説にすぎず、実はマメな人たちであるのか。

たとえばイタリア語には過去形が四つある(近過去、半過去、大過去、遠過去)。スペイン語にいたっては「過去未来」という不思議なものさえある。この過去未来形の動詞変化は、語幹が不定形であるところは未来風、語尾変化は線過去風で、いかにも過去と未来の折衷という感じである。われわれがスペイン人に抱く印象からすると、「過去か未来かだって? そんなことどうでもいいだろ(鼻をほじる)。アッそろそろシエスタの時間だ!」みたいに、投げやりに時間をとらえるとき動詞が過去未来形になるのかな?と思いがちではあるが、実際はどうも違うようだ。

これは知る人ぞ知る話だが、特に名を秘すある版元が、「未来の文学」と称しながら実は半世紀近く前に出た本を売っている(かく言う拙豚もほとんど全部持っている)。あんまり言うと本を出してもらえなくなるので多くは語らないが、ああいうのが「過去未来」の好例であるらしい。つまり「過去から見た未来」というわけである。具体的に文例であげると

En "Queremos Leer SF 2012", anunciaron que "La Vergüenza de SF" se publicaría muy pronto.
(「SFが読みたい2012」に、『SFの気恥ずかしさ』が近々出ると告知された。)

ここで "anunciaron" は "anunciar"(アナウンスする)の過去形 (点過去)、"publicaría" は "publicar" (出版する) の過去未来。過去から見た未来なのでこの時制になる。ということで過去未来というのは文法的にはラテン系の人のルーズさとは何の関係もない。でもどことなく時間にルーズそうなニュアンスがただよってくるのはいかんともしがたい。なぜだろう。文例の選択を誤ったのだろうか。

文学フリマ岩手開催なるか?

f:id:puhipuhi:20200318061619p:plain


第五回文学フリマ岩手は6/21に予定されている。先日その事務局から出店料の支払案内が来た。サテこれは順調に開催されるだろうか。6月には自粛ブームもさすがに落ち着いていると思いたいが……。出店料の締め切りは3/30ということだ。ぎりぎりまで様子を見て危なそうならキャンセルする予定。【3/27付記】文学フリマ東京中止の報を受け、岩手のほうもキャンセルしました。

こんな話がある。1889年のこと、ある母娘が万国博覧会を見物にパリまでやってきた。ホテルで母親の気分が悪くなり、娘は医者を探しに街に出て行った。医者とともに戻ってくると母がいない。のみならずホテルの支配人は「あなたは一人で泊まっていましたよ」と言い張る。宿帳を見ると娘一人の名しかない……。乱歩の類別トリック集成にも収められた有名な短篇である。立風書房版の新青年傑作選にも入っていた。今読むと妙なリアリティがある。理由はどうあれ改竄はいけないと思います。

文学フリマ東京開催なるか?

ザ・ナイト・ウォッチ

ザ・ナイト・ウォッチ


パンデミック騒動のおかげで、5月6日に予定されている第三十回文学フリマ東京も雲行きが怪しくなってきた。おそらくキーとなるのはこれに先立って5月2~5日に予定されているコミックマーケット98が無事開かれるかどうかだろう。コミケが中止になったのに文フリを敢行するだけの度胸はおそらく主催者側にはあるまい。
 
ところで話はまったく変わるが、英和辞典で「ブートレグ (bootleg) 」を引くと「密造酒、海賊版(盤)」と出ている。密造酒はともかく海賊版(盤)というのは正しくない。海賊版(盤)は "pirated edition" である。

ではブートレグと海賊盤のどこが違うかというと、時間の前後関係が違う。海賊盤の場合、正規盤がまず出て、それからそれをコピーした海賊盤が出る。しかしブートレグは正規盤よりも先に出る。のみならず正規盤はたいていの場合出ない。例をあげるとキングクリムゾンの1973年アムステルダム・コンセルトヘボウ公演は名演として名高いが、この音源の正規盤が『ザ・ナイトウォッチ -夜を支配した人々-』として出たのは1997年のことである。ところがブートレグは拙豚が高校生の頃つまり70年代にすでに出ていた。当時渋谷陽一がディスクジョッキーをやっていたFM番組でもかかったと思う。ただしこのときの音源はBBC放送のもので、渋谷陽一が「ブートレグでもすでに出ていますが音質はこちらのほうが抜群にいい」とかそういうことを言っていたのを覚えている。あと海賊盤は違法だがブートレグは必ずしもそうでない。権利者の了解あるいは黙認を得て出されるものもあるようだ。

そうそうそういえばむかし新宿にブートレグ専門店が軒を連ねる界隈があったが今はどうなっているのだろう。もう何十年も行ってないのでまったくわからない。

ネクロノミコンはなかった

マドリッドのパリぺブックスなる版元が『ボルヘスの書棚』なる本を出したことをたまたま知り、すかさず注文した。


f:id:puhipuhi:20200315191911p:plain


届いたのはかなりの大型本だ。どのくらい大きいかがわかるように隣に荒俣御大の『世界幻想作家事典』を置いてみた。『書物の宇宙誌―澁澤龍彦蔵書目録』のような網羅的なリストを期待したが、それはなかった。蔵書から百冊か二百冊程度選んで写真にとっただけのものだ。言っちゃなんだが、この写真を撮った人はあんまり本に詳しくないような気がする。ディスプレイ業者ならピックアップするだろうなと思うような本が主にピックアップされているから。おしゃれなグラビア雑誌で読書特集をやるときみたいな雰囲気も感じさせる。ありふれたエヴリマンズ・ライブラリの一冊をさも大変な稀覯書のように仰々しく写してるページなどちと恥ずかしい(それでもボルヘスはライプニッツをエヴリマンズ・ライブラリで読んでいたのか!という驚きはある)。もちろんボルヘスが盲目になった原因といわれる『ネクロノミコン』などあるべくもない。しかし書き込みが判読できる程度の鮮明さで写っていて興味津々である。あとボルヘスの依拠したテキストがどの版のものかわかるのでその意味では貴重な本である。


f:id:puhipuhi:20200315192755p:plain


英語の本についてはおそらく珍しい本はないような気がする。大半の本は神保町あたりの洋書店を回ればどこかの棚にあるようなありふれた版である。だがそこがいい。弘法は筆を選ばずというではないか(ちょっと違うかも)。なによりボルヘスが愛読したのと同じ版が容易に手に入れられるというのがうれしい。

ぬか漬けのきゅうり

 


 吾妻ひでおの『アル中病棟』によると、アル中になった人の脳は、ぬか漬けのきゅうりが生のきゅうりに戻らないように、もとに戻ることはないのだという。アル中ならぬミステリ中毒の場合もやはり同じで、生のきゅうりに戻ることはないのではと思う。

 2月21日の日記に書いたように、ボルヘスは『ドン・キホーテ』について、こんなことを言っている。

 しかしこれが推理小説の発端ならば、わたしたちは不信を抱き、警戒します。郷士はラ・マンチャの村に住んでいないのかもしれないとか、この郷士は本当は郷士ではなく、そのふりをしているだけではないのかとか思います。いっぽうポーの最初の読者は、他の小説と同じように無邪気に、疑いをもたずに読んだのです。しかしその後、推理小説は独特な本の読み方を生み出しました。

 ボルヘスの脳もミステリ中毒でかなりぬか漬けになっていることをうかがわせる発言である。多少ミステリを齧っただけの人なら、「いやこの『ラ・マンチャの村』うんぬんは地の文だから、フェアプレイが遵守されているなら、嘘が書いてあるはずはないではないか」と思うかもしれない。だがそれは素人の浅はかさというもので、ぬか漬けになった人はその程度のロジックでは納得しない。

 なぜかというと、『ドン・キホーテ』の先を読むと、この物語はセルバンテスが街で拾った紙くずに書いてあったものであることがわかる。なぜわざわざそんな枠物語的な設定にしたのか? また冒頭に「名は思い出したくないが、スペインはラ・マンチャのさる村に」とある。なぜ名を思い出したくないのか? ぬか漬けになってしまった頭は恐ろしい真相に思い当たらずにはいられないのである。

 ジェイムズ・サーバーに『マクベス殺人事件の謎』という短篇があるが、あそこに出てくる奥さんも、かなりぬか漬けになっていると思しい。


 奥さんといえば夢野久作の「少女地獄」に出てくる奥さんもなかなかのものである。

 ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀の聴牌 (てんぱい) を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇 (ひま) に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが……

 「女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で」というところがすごいですね。今なら「高校時代から図書館で葛山二郎を耽読していて」とかそんな感じになるのだろうか。