過去未来の文学

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ラテン系の人たちは時間にルーズだというイメージがある。でもなぜかスペイン語やイタリア語の時制はやたらに複雑である。天下の奇観といっていい。むかしはラテン系の人たちも時間にきちょうめんだったのだろうか。それとも文法が煩雑なおかげでその反動が出て実生活はルーズになったのか。あるいは「ラテン系がルーズ」というのは単なる都市伝説にすぎず、実はマメな人たちであるのか。

たとえばイタリア語には過去形が四つある(近過去、半過去、大過去、遠過去)。スペイン語にいたっては「過去未来」という不思議なものさえある。この過去未来形の動詞変化は、語幹が不定形であるところは未来風、語尾変化は線過去風で、いかにも過去と未来の折衷という感じである。われわれがスペイン人に抱く印象からすると、「過去か未来かだって? そんなことどうでもいいだろ(鼻をほじる)。アッそろそろシエスタの時間だ!」みたいに、投げやりに時間をとらえるとき動詞が過去未来形になるのかな?と思いがちではあるが、実際はどうも違うようだ。

これは知る人ぞ知る話だが、特に名を秘すある版元が、「未来の文学」と称しながら実は半世紀近く前に出た本を売っている(かく言う拙豚もほとんど全部持っている)。あんまり言うと本を出してもらえなくなるので多くは語らないが、ああいうのが「過去未来」の好例であるらしい。つまり「過去から見た未来」というわけである。具体的に文例であげると

En "Queremos Leer SF 2012", anunciaron que "La Vergüenza de SF" se publicaría muy pronto.
(「SFが読みたい2012」に、『SFの気恥ずかしさ』が近々出ると告知された。)

ここで "anunciaron" は "anunciar"(アナウンスする)の過去形 (点過去)、"publicaría" は "publicar" (出版する) の過去未来。過去から見た未来なのでこの時制になる。ということで過去未来というのは文法的にはラテン系の人のルーズさとは何の関係もない。でもどことなく時間にルーズそうなニュアンスがただよってくるのはいかんともしがたい。なぜだろう。文例の選択を誤ったのだろうか。