ぬか漬けのきゅうり

 


 吾妻ひでおの『アル中病棟』によると、アル中になった人の脳は、ぬか漬けのきゅうりが生のきゅうりに戻らないように、もとに戻ることはないのだという。アル中ならぬミステリ中毒の場合もやはり同じで、生のきゅうりに戻ることはないのではと思う。

 2月21日の日記に書いたように、ボルヘスは『ドン・キホーテ』について、こんなことを言っている。

 しかしこれが推理小説の発端ならば、わたしたちは不信を抱き、警戒します。郷士はラ・マンチャの村に住んでいないのかもしれないとか、この郷士は本当は郷士ではなく、そのふりをしているだけではないのかとか思います。いっぽうポーの最初の読者は、他の小説と同じように無邪気に、疑いをもたずに読んだのです。しかしその後、推理小説は独特な本の読み方を生み出しました。

 ボルヘスの脳もミステリ中毒でかなりぬか漬けになっていることをうかがわせる発言である。多少ミステリを齧っただけの人なら、「いやこの『ラ・マンチャの村』うんぬんは地の文だから、フェアプレイが遵守されているなら、嘘が書いてあるはずはないではないか」と思うかもしれない。だがそれは素人の浅はかさというもので、ぬか漬けになった人はその程度のロジックでは納得しない。

 なぜかというと、『ドン・キホーテ』の先を読むと、この物語はセルバンテスが街で拾った紙くずに書いてあったものであることがわかる。なぜわざわざそんな枠物語的な設定にしたのか? また冒頭に「名は思い出したくないが、スペインはラ・マンチャのさる村に」とある。なぜ名を思い出したくないのか? ぬか漬けになってしまった頭は恐ろしい真相に思い当たらずにはいられないのである。

 ジェイムズ・サーバーに『マクベス殺人事件の謎』という短篇があるが、あそこに出てくる奥さんも、かなりぬか漬けになっていると思しい。


 奥さんといえば夢野久作の「少女地獄」に出てくる奥さんもなかなかのものである。

 ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀の聴牌 (てんぱい) を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇 (ひま) に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが……

 「女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で」というところがすごいですね。今なら「高校時代から図書館で葛山二郎を耽読していて」とかそんな感じになるのだろうか。