みえすいた嘘

今福氏のボルヘス本のどこがいいのか。今まで必ずしも十分に論じられていなかった詩作品が俎上にあげられているのも嬉しいし、「読書家ボルヘス」という切り口をあえて封印しているのもすばらしい。

なかんずく目を開かれたのは「八岐の園」論である終章の「永遠に分岐しつづける小径」だった。ここではSFでいう多世界解釈というか可能世界が、ボルヘス作品の根幹をなすものとして縦横に論ぜられている。

これがボルヘスの胆と言われてみれば、なるほどと腑に落ちることがいくつかある。

その一つはかねがね不思議に思っていた実在人物の扱い方である。「トレーン……」でビオイ・カサーレスをひっぱってくるのは友人の間柄での悪ふざけともとれるからまあいいとしても、「アルフォンソ・レイエスはうんざりして」(トレーン)とか、「ドロシー・セイヤーズが序文を書いた」(ムターシム)とか、なぜこんな見え透いたことを書くのか。セイヤーズなんか冗談が通じなさそうだから抗議してくるかもしれないのに。ホラ、実生活でもときどきいるじゃないですか、ばれるにきまってる嘘を平然とつく人が。ボルヘスのこうした文章への当惑はそういう人を前にしての当惑に近い。いくらフィクションとしても、もっとまことしやかなことを書いてほしい。「誰かうまい~嘘をつける~」てなもんである。

しかし数限りない可能世界をごく自然なものとして意識しているボルヘスはそうは思わないのだろう。きっと彼にとっては「セイヤーズが序文を書いた世界」と「セイヤーズが序文を書かなかった世界」は、ほんの隣り合わせに存在しているのだろう。だから抵抗感もなく、あたかも隣の家の芝生をのぞきこむように、「セイヤーズが序文を書いた」と書けるのではないか。

それから「ハーバート・クエインの作品の検討」に出てくる「エイプリル・マーチ」という架空の小説の不思議さも、同じく考えればだいぶん軽減される。この「エイプリル・マーチ」という物語は未来に向かって分岐するのではなく、過去に向かって分岐していく。どうしてだろう? ふつうに考えると過去は確定しているが未来は不確定だから、たとえば「明日が雨だった場合」と「明日が雨だった場合」というふうに、できごとは未来に向かって分岐するものではないか。

しかしボルヘスは運命論者だから未来は定まっていると考える。ただ「実現しないはずの未来」(可能未来)が「実現するはずの未来」のまわりに網の目のようにはりめぐらされている。過去も同じように幾多の可能過去があったから、その点で過去と未来は異なるところがない。網のどういう目をたどって、現在という一点にたどりついたか、そこには無限の道筋がある……というところから「エイプリル・マーチ」は発想されたのではないか。それは、カフカから文学史を逆に作っている「カフカとその先駆者たち」(続審問)と同等なものだと思う。

ボルヘスとパンデミック

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)

三島由紀夫の中篇『三熊野詣』に自分の周りをアルコールで丹念に拭きまくる老歌人が出てくる。巷の噂では折口信夫がモデルらしい。むかし読んだときには「えらい神経質な人だな」としか思わず、変な人を見る目で見ていたが、今となってはこの人の心境もなんとなくわかる。

ところで今から一世紀ほど前、スペイン風邪が大流行したとき、ボルヘス一家はジュネーヴに滞在中で、まさにそのパンデミックの直撃を受けた。当時はユーカリの葉を煎じると風邪に効くといわれていたらしく、あちこちにユーカリの香がただよっていたという。

長い間忘れていたその匂いをかいで、当時二十歳くらいだったボルヘスは思った。「おやおや、僕はアドロゲのホテルにいるぞ」故郷ブエノスアイレスにいた少年の頃、避暑のため夏に滞在していたアドロゲのホテルにもユーカリの樹が繁っていたのだった。

「死とコンパス」の冒頭にもユーカリの樹が出てくる。レンロットという北欧風の名とあいまって、どこか外国が舞台だと思いがちだが、やがてアルゼンチンの事件ということがわかる。ここらへんの騙し絵的な効果については、少し前に出た今福龍太氏の『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』が巧みに解読している。もしかしたらジュネーヴで体験したパンデミックとユーカリの結合が、「死とコンパス」という多重殺人の物語に、あるいは舞台の故意の暈(ぼか)し(ここはジュネーヴ? それともブエノスアイレス?)に発展したのかもしれない。

おうそうそう、今福氏のボルヘス本はとてもいい本ですよ。不遜ながら某誌に書評を書きました。

続続吉田訳ポー


吉田健一訳ポーの特徴を見るためには、おそらく「アモンティラドの樽」の最後の一文が最適ではと思う。これの原文は
For the half of a century no mortal has disturbed them. In pace requiescat!
 
これを田中西二郎はこう訳した。
あれから半世紀、何者もまだこれを掻乱したことはない。彼の安らかに眠らんことを!


谷崎精二はこう訳した。
半世紀ほどのあいだ、誰もこれをかき乱す者がなかった。(改行) 彼の安らかに眠らんことを!

ところが吉田健一訳だとこうなる。
それからもう五十年になる。In pace requiescat.

これを見ると、松山俊太郎翁が「吉田健一ってのは英語ができたのかねえ」とつぶやいたのも無理もないと思えてこないこともない。

しかし、しかしである。この短篇を締めくくる文章としては、吉田訳が傑出している。静かな余韻がただよい、語り手の感慨もよく伝わり、塗りこめられた壁がいつまでもそこにある様子が浮かんでくる。他の二氏の訳ではこの短篇のエンディングを支える力はない。あたかも他人事のような口ぶりだから。

吉田訳で工夫されているのは次の三点であろう。
1.「誰もこれをかき乱す者がなかった」をあえて訳さなかったこと
2.「半世紀」を「五十年」としたこと
3. In pace requiescat.を訳さずラテン語のままにしたこと。

1.は言うならば俳句の精神である。アメリカ人はどんくさい(失礼)から、「誰もこれをかき乱す者がなかった」とわざわざ書いてやらねばわからんだろうが、日本人のあいだでなら「それからもう五十年になる」とだけ書けば、誰もそのあいだ訪ねてこなかったことはわかりきっている、「古池やかわず飛び込む水の音/音の聞こえてなお静かなり」(これは太宰治が悪い付句の例として作ったもの)みたいに、言わずともわかっていることをあえて言うと効果がだいなしになるという気持ちである。もちろんこれは翻訳としてはウルトラ大邪道で、おそらく吉田健一にしか許されない手法ではあろうけれど。

2.はささやかだけれどすばらしい効果をあげている。原文のFor the half of a century という流れるような調子を翻訳で再現することは無理で、それならいっそ、異様な感じを与える(そして流れの悪い音の連なりである)「半世紀」を避けて、「五十年」とふつうに言った方が、読み手の気を散らさずにすむという、おそらくは無意識の判断があったのだと思う。

3.は吉田健一一流の考え方から来ている。たとえば『書架記』(だったと思う)で引用される "Jesu, heart's light, / Jesu, maid's son, " というフレーズのように、たとえ意味はわからずとも、音の響きだけで何かは伝わり、そしてそれは意味よりも大切なものであるという考え方である。「アモンティラド」のエンディングで何より大切なのは In pace requiescat. という音の響きであるから、たとえ意味は伝わらずとも、あえて訳さずそのままにしたほうがいいという判断だったのだと思う。ちなみにこの部分は初出の若草書房版では訳注がついていたけれど、集英社世界文学全集版ではそれさえなくなっていたと思う。あとこれもささやかなことだが、原文のエクスクラメーション・マーク(!)を普通のピリオドにしたのもすばらしい。

文学フリマ広島の超収穫

遅くなりましたが二週間ほど前に行われた第二回文学フリマで遭遇した恐るべき本を紹介したいと思います。組糸座(くみとざ)という謎のサークルが頒布する十夜木文麦という方の三冊です。下の画像の左から「いろはなとり」「にしのことりことつきのよる/きたのことりことさくのよる」「虚花幻燈占唄詰合(うろはなうつろいうらうたつめあひ)」。いずれも文庫本サイズの瀟洒な本です。

f:id:puhipuhi:20200306183116p:plain

三冊いずれも傑作ですが中でもすごいのは「いろはなとり」です。無断転載を禁止する旨の断り書きが本に記されているので残念ながら引用はできません。でも塚本邦雄の瞬間小説集を思い浮かべていただければ、だいたいの雰囲気は想像できると思います。

ここにはおのおの百四十字からなる掌篇が四十七収められています。各々の掌篇には「いりす」「ろーずまり」「はまなす」というふうに花の名がいろは順に付けられています。そればかりではありません。最初の掌篇「いりす」の文章は「い」ではじまり「ろ」で終わります。次の掌篇「ろーずまり」の文章は「ろ」ではじまり「は」で終わります……というように瞬間小説がしりとりをしているのです。四十七番目、つまり最後の掌篇「すいせん」は「す」ではじまり「い」で終わります(ちなみに「さようなら恋」という文です)。つまり循環しているわけです。とにかくたいへんな離れ技なんです。

とここまで読んで、ハハアこいつボルヘスみたいに架空の本について語っているなと思った方もきっといると思いますが、違うんですよ! ほんとうにそうなんです!

作者についてはほとんどわかりません。国際標準同人誌番号の登録作品リストによれば五冊の既刊があるようです。あとは尾道てのひら怪談のサイトにお名前がみうけられるくらいです。

とにかくたいへんな傑作で、こんなのが何気なく売っているので地方の文学フリマに行くのはやめられません(たとえ当方の新刊は出せなくとも!)。そういえば去年の文学フリマ京都で買った朔太郎ばりの詩集も装丁内容ともにすばらしいものでした。今本がどこかにいってしまいましたが、見つかったら改めてご紹介したいと思います。

時間からのポー

f:id:puhipuhi:20200315121805p:plain


ポーといえば気にかかることが一つある。ツイッター界隈を流れる噂によれば、ラヴクラフトの "Colour out of Space" を「宇宙からの色」とか、"Shadow out of Time" を「時間からの影」と訳している本があるらしい。ツイッターというのはデマ生成装置みたいなところがあるので百パーセント信頼はできないにしても、まあありえなくもないような気がする。

でもこの "out of Space" とか"out of Time"とかいう形容は、十中八九、ポーの"Dream-Land"という詩から来ていると思う。

 By a route obscure and lonely,
 Haunted by ill angels only,
 Where an Eidolon, named NIGHT,
 On a black throne reigns upright,
 I have reached these lands but newly
 From an ultimate dim Thule—
 From a wild weird clime that lieth, sublime,
   Out of SPACE—Out of TIME.

それを踏まえれば「宇宙から」とか「時間から」とか訳すのはほとんど不可能と思うのだがどんなもんだろう。

あと稲垣足穂の回想によれば、ある日彼が辻潤に会ったとき「あいかわらずout of spaceかね」と言われたという。これもきっとポーから来ているのだろう。「あいかわらず宇宙から来たのかね」という意味ではないと思う。

ちなみに上の詩は島田謹二訳では

 たちかえりつきまとうもの
 ただ悪しき天使のみにて、
 「夜」の妖魔、身を直(すぐ)に、
 黒き王座にしろしめす
 幽暗の世にもわびしき「道」を経て、
 近きころこの里にわれ辿り来ぬ
 ほのぐらき極北のチュウレより——
「空間」をこえ、「時間」をこえて、
 おごそかによこたわるあやしくも恐ろしき宿命のとある国より。

いやあラヴクラフトしてますねえ。いっぽう福永武彦訳だと

 暗く人けない道を過(よ)ぎり
 ただ悪霊の天使の群れにつき纏われ、
 そこに「夜」と呼ばれる一つの「まぼろし」の
 黒い玉座にあってたじろかず治めるところ、
 私は遂にここに達した、この土地に、ごく近頃、
 おぼろげなテューレの国の漄(はたて)から——
 荒びた宿運の風土から、その荘厳に位置するところは、
     「空間」のそと——「時間」のそと。

そして真打ち、日夏耿之介訳では

 夜と呼べる妖鬼ありて
 頭上たかく黒々と玉座うしはく、
 寂として小ぐらき巷路に
 兇(まが)なす天使のみ栖みなしける。
 われ時空を超えて
 おごそかに国居せる荒蕪の幻境
 かのチレが島陰黒の絶域より
 いまあらたにこの里にたどれる也。

苦渋の跡なく凄みも利かせずにサラッと訳しているのにかえって凄みがある。最後の「也」というのは「たどれるか」と読むのか、「たどれるや」と読むのか、それともキテレツ大百科か……
 

続松山翁とポー


松山俊太郎翁のポー解釈は、マリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』の影響を受けていたように思う。ここでいきなり脱線すると、この『エドガー・ポー』といい、プシルスキーの『大女神』といい、松山翁が称揚した本を翻訳出版しようとするとことごとく頓挫するのはなぜだろう? 刊行予告が出てしばらくするといつの間にかフェイドアウトし、あたかも最初から存在しなかったようになる。事情を知らぬ者には、背後で黒い手が働いているとしか見えない。

まあそれはともかく、むかし松山翁が入院することになって、留守宅の整理に駆り出されたとき、ある一室にこの『エドガー・ポー』のフランス語版大冊がうやうやしく鎮座しているのを見て、「ああやっぱり」と思ったのを覚えている。

現代教養文庫版の小栗虫太郎傑作選の解説にもマリー・ボナパルトの影響は見てとれる。ことに『黒死館殺人事件』や『潜航艇「鷹の城」』の精緻な作品分析にそれは著しい。なにしろ「探偵小説史上に現れた密室殺人の何割かは、作者の胎内回帰願望に起因すると思われる」(記憶による引用なので正確ではない)などと松山翁一流の独断を下すのだから。

もちろんマリー・ボナパルトの師匠フロイトの影響も随所に見られる。おそらくその最大のものは、過去の日記でも触れた『蓮の宇宙』に収録された法華経起源論だろう。 『大女神』に触発されたその壮大なヴィジョンには、フロイトの『モーセと一神教』が大きく影を落としていると思うのは拙豚の僻目だろうか。最近出た新訳をぱらぱらめくりながら、翁を懐かしく思い返したことであった。



   わが弊屋に鎮座するのは英訳である。果たして日本版の出る日は来るのであろうか

続吉田訳ポー

 ポーの文章は重い石を積み重ねて城壁を作っていくような感じで、内容はともかくその文体が好きか嫌いかと問われると、まああれだね、ちょっと答えにくいところがある。

 むかしむかし、松山俊太郎翁の講義、というか放談がまだ美学校で行われていたころ、佐々木直次郎訳のポーが話題に出たことがあった。「佐々木直次郎ですか」とわたしが言うと——たぶん揶揄したような口調だったのだろう——松山翁はむっとした顔になって「佐々木訳はいいんだよ」と教え諭された。

 わたしは承服せず、次の回のとき吉田健一訳の「赤い死の舞踏会」のコピーを持っていって松山翁に見せたら、翁はちらと見て一言、「吉田健一ってのは英語できたのかねえ」——皆さんあんまりだと思いませんか。わたしは「佐々木直次郎よりはできたんじゃないですか」と言いかけてかろうじてその言葉を呑み込んだのでした。

 おそらく、ポーの文体や雰囲気を、上手いところも下手なところもひっくるめて、なるべく忠実に日本語に移すと佐々木訳みたいになるのだと思う。ポーの原文を精読した翁にはそれがわかっていたのだろう。しかしそれではちと耐えがたいものになる——少なくともわたしにとっては——だから(たぶん)仏訳を経由した吉田訳がそれだけありがたい。

 そもそも吉田健一の文章の好みは『失われた時を求めて』とかマルドリュス訳千夜一夜物語とかイヴリン・ウォーとかそういうものだったはずで、良くも悪くもゴシックの尾をひきずっているポーが肌にあったはずはないと思う。なのになぜ訳したのかというのは不思議ではなかろうか。そこでボードレール訳経由という疑惑が浮上してくるのである。

史上最強

 東雅夫さんのこのツイートにはわが意を得た思いがする。「史上最強」というのはまったく同感。「中学時代、これでポーにハマりました」というのもまったく同じ。


 
 この本の初版には、中村宏による黄金虫の絵入りの帯がついていて、その「醒めた狂気が」うんぬんというキャッチフレーズにもしびれました。

 まあ正確にいえばわたしがこの本でハマったのは吉田健一訳の部分で、いまだにこの人の訳がポーの翻訳では最強と思っている。嬉しいことにこの集英社版には吉田訳ポーのほとんどが収められている。ただ残念ながら「アッシャー家の崩壊」は他の人の訳だ(吉田訳アッシャー家は若草書房版で読める)。

 吉田健一のポーの訳しぶりはわたしが翻訳の真似事をはじめたときも、「なるほどこうすればいいのか!」とたいそうな教えを受けた。これは臆測にすぎないが、吉田訳が名訳になったのはボードレールの仏訳をおおいに参照したためではなかろうか。どうもそんな気がする。おそらく仏訳がほどよい解毒剤として作用して(たとえば佐々木直次郎訳みたいに)過度にゴシック風になるのを免れたのではなかろうか。

続ホワットダニット

 こんな話を聞いた。もしかしたら業界では有名なエピソードなのかもしれない。

 むかしむかし、作家X氏の傑作集が出ることになって、その解説をY氏が担当することになった。ところが、いざ出来上がった解説に目を通したX氏は、「これではだめです」と言い張り続ける。でも具体的にどこがだめかは教えてくれない。とにもかくにも頑として、「これではだめ」の一点張りなのである。もちろん解説文中にX氏を悪く言った部分などあるはずもないし、事実関係の誤りもなさそうである。

 乱歩なら、「読者諸君、事件はなかなか面白くなって来た」とでも言うところであろう。Y氏はいったい何をしたのだろう。これはホワットダニットの好個の問題である。いわゆる日常の謎でもある。そのうえ「なぜX氏はだめな部分を教えてくれないか」という点からいえば、ホワイダニットでもある。(もちろん当事者の方々にとっては、最悪の場合は本が出ないこともありえたので、もちろん「なかなか面白くなって来た」どころの騒ぎではなかったろうが)

 その後いろいろあって、X氏が蛇蝎のごとく嫌っているZ氏の名が解説文中にあることが発見された。Z氏の名だけ消してふたたびX氏の閲覧を乞うと、こんどはすんなりOKが出たという。

 ちなみにX、Y、Z氏のいずれも今はこの世の人ではない。それほど昔の話なのである。

MONKEYの探偵特集

MONKEY vol.20 探偵の一ダース

MONKEY vol.20 探偵の一ダース

  • スイッチパブリッシング
Amazon


ボルヘスはマリア・エステル・バスケスとの対話でこんなことを言っています。

ボルヘス ……第二に(これははるかに大切なことですが)探偵小説は特殊なタイプの読者を作りあげたのです。つまり、わたしたちが何かを読むとき、大きな疑惑を抱きながら読むことはしません。作者がわたしたちをだまそうとしているとは思わないのです。
 
バスケス セルバンテスが「ラ・マンチャの地に(……)一人の郷士が住んでいた」と書けば、本当に郷士がラ・マンチャの地に住んでいたとわたしたちは信じますね。
 
ボルヘス まさしく。しかしこれが推理小説の発端ならば、わたしたちは不信を抱き、警戒します。郷士はラ・マンチャの村に住んでいないのかもしれないとか、この郷士は本当は郷士ではなく、そのふりをしているだけではないのかとか思います。いっぽうポーの最初の読者は、他の小説と同じように無邪気に、疑いをもたずに読んだのです。しかしその後、推理小説は独特な本の読み方を生み出しました。
 
バスケス つきつめて言えば、推理小説を読むわたしたち自身もポーの創造物なのですね。
 
ボルヘス まさしくその通りです。


つまりポーは推理小説を創造したと同時に推理小説の読者をも創造したというのです。事実、MONKEYの探偵特集号に載っている柴田元幸氏と西村義樹氏の対談を読むと、本当にそんな読者がいるみたいで驚きます。

柴田 "本当らしさ"と"本当"の違いということですよね。これは推理小説の特徴というか、逆に普通の小説を読むときにはむしろこういう読み方をしない方がいいことも多い。大学で短篇小説の授業をやっていると、学生がホームズのようにほかの可能性を排除していって、「こう考えれば筋が通る」という解釈を出してくる。で、それはたいてい駄目なんですね(笑)。つまり、推理小説って一番肝心なことは書いてなくて……(中略)……だけど普通の小説を読むときには、外部から何かを持ってきてこれを入れると筋が通る、とやると、その小説に向き合わずに別のものに読み換えることになってしまう。(MONKEY No.20 p.114)


この学生の人は頼もしいですよね。将来はぜひミステリー作家になってもらいたいと思います。

そういえば最近出た鯨統一郎氏の『文豪たちの怪しい宴』も「走れメロス」、「銀河鉄道の夜」、「藪の中」、「こころ」について「『こう考えれば筋が通る』という解釈を出してくる」短篇集でした。

なかでも「藪の中」の真相究明はすばらしく、「そうだったのか!」とおおいに納得しました。しかしそれはミステリ脳のなせる技で、柴田教授にいわせればやはり駄目な解釈になるのでしょうか……

そういえば柳瀬尚紀氏がジョイスの『ユリシーズ』のある章について「語り手は犬ではないか」という説を唱えましたが、これもやはり、「外部から何かを持ってきてこれを入れると筋が通る」とやる駄目な解釈なんでしょうか……

ちなみにMONKEYの当該号では、柴田氏がまえがき「猿のあいさつ」で触れている阿部主計氏のプロフィールもミステリ愛好家なら必読です。