MONKEYの探偵特集

MONKEY vol.20 探偵の一ダース

MONKEY vol.20 探偵の一ダース

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ボルヘスはマリア・エステル・バスケスとの対話でこんなことを言っています。

ボルヘス ……第二に(これははるかに大切なことですが)探偵小説は特殊なタイプの読者を作りあげたのです。つまり、わたしたちが何かを読むとき、大きな疑惑を抱きながら読むことはしません。作者がわたしたちをだまそうとしているとは思わないのです。
 
バスケス セルバンテスが「ラ・マンチャの地に(……)一人の郷士が住んでいた」と書けば、本当に郷士がラ・マンチャの地に住んでいたとわたしたちは信じますね。
 
ボルヘス まさしく。しかしこれが推理小説の発端ならば、わたしたちは不信を抱き、警戒します。郷士はラ・マンチャの村に住んでいないのかもしれないとか、この郷士は本当は郷士ではなく、そのふりをしているだけではないのかとか思います。いっぽうポーの最初の読者は、他の小説と同じように無邪気に、疑いをもたずに読んだのです。しかしその後、推理小説は独特な本の読み方を生み出しました。
 
バスケス つきつめて言えば、推理小説を読むわたしたち自身もポーの創造物なのですね。
 
ボルヘス まさしくその通りです。


つまりポーは推理小説を創造したと同時に推理小説の読者をも創造したというのです。事実、MONKEYの探偵特集号に載っている柴田元幸氏と西村義樹氏の対談を読むと、本当にそんな読者がいるみたいで驚きます。

柴田 "本当らしさ"と"本当"の違いということですよね。これは推理小説の特徴というか、逆に普通の小説を読むときにはむしろこういう読み方をしない方がいいことも多い。大学で短篇小説の授業をやっていると、学生がホームズのようにほかの可能性を排除していって、「こう考えれば筋が通る」という解釈を出してくる。で、それはたいてい駄目なんですね(笑)。つまり、推理小説って一番肝心なことは書いてなくて……(中略)……だけど普通の小説を読むときには、外部から何かを持ってきてこれを入れると筋が通る、とやると、その小説に向き合わずに別のものに読み換えることになってしまう。(MONKEY No.20 p.114)


この学生の人は頼もしいですよね。将来はぜひミステリー作家になってもらいたいと思います。

そういえば最近出た鯨統一郎氏の『文豪たちの怪しい宴』も「走れメロス」、「銀河鉄道の夜」、「藪の中」、「こころ」について「『こう考えれば筋が通る』という解釈を出してくる」短篇集でした。

なかでも「藪の中」の真相究明はすばらしく、「そうだったのか!」とおおいに納得しました。しかしそれはミステリ脳のなせる技で、柴田教授にいわせればやはり駄目な解釈になるのでしょうか……

そういえば柳瀬尚紀氏がジョイスの『ユリシーズ』のある章について「語り手は犬ではないか」という説を唱えましたが、これもやはり、「外部から何かを持ってきてこれを入れると筋が通る」とやる駄目な解釈なんでしょうか……

ちなみにMONKEYの当該号では、柴田氏がまえがき「猿のあいさつ」で触れている阿部主計氏のプロフィールもミステリ愛好家なら必読です。