浜辺のポウイス


 

うみの図書館近くで開かれた海辺ブックフェスをのぞいてきました。絶好の連休日和に恵まれてものすごい盛況でした。

浜辺沿いにずらりと並ぶ古本出店。振り返って海に目を向けると子供たちが波と戯れています。裸足で浅瀬にジャブジャブと入って砂浜近くに流れてきた海藻を棒の先で拾ってはしゃいでいます。心が和む光景です。来てよかったと思いました。

そしてそこでとんでもないものと遭遇してしまったのですよ。上の画像にある瀧口直太郎訳『ポイス短篇選集』です。砂浜で子供たちが遊ぶなかで T. F. ポウイス。実にポウイス的かつ運命的な出会いでした。ちなみに出品者は高松の名物古書店なタ書さんです。

このポウイスは晩年の平井呈一翁のお気に入りで、今はなき早稲田進省堂の主人から大昔に伺った話によると、何回忌かの折に未定稿のポウイス短篇の訳稿複写が配られたそうです。そういえばナイトランド・クオータリーの最近の号にもポウイスの短篇が載っていましたね。

中野善夫さん(と失礼千万ながら唐突な呼びかけ)、ウォートンの次はポウイスはいかがでしょう。ジョーキンズ的な味もありますよ。

闇に一条の光


 
日本翻訳大賞のツィッターが寄付を募っていた(詳しくはここをクリック)。「かなり苦しい状態ではあります」とのことだ。

義を見てせざるは勇無きなり。さっそく雀の涙ではあるが寄付金を振り込んできた。「途中でやめたら承知せんぞ」という圧を関係者が感じとってくれたらうれしい。

この賞はたとえば 本屋大賞のような「ただでさえ人気のある本をさらに売る」賞の対極にあって「世に知られていない本の存在を知らしめる」ことにその意義があると思う。つまり闇に一条の光を当てるための賞なのである。実際過去どれだけ裨益されてきたかわからない。

(画像と記事は関係ありません)

恋二題

「恋二題」は乱歩の最初期の作品で、二つの短篇「恋二題(その一)」「恋二題(その二)」からなっている。これらはのちにそれぞれ「日記帳」「算盤が恋を語る話」と改題されて単行本におさめられた。この二篇や「恐ろしき錯誤」「疑惑」などのいわばサイコロジカルな習作期の作品には異様な魅力がある。

のちに乱歩自身によってその芽はつまれたようだが、戦後の『幻影城』などでマーガレット・ミラーの『目の壁』『鉄の門』などの心理的探偵小説の動向を気にしているところを見ると、やはりなにがしかの未練は残っていたのだろう。

「日記帳」は一見偶然と見えたものが実は意図されたものであったという話。「算盤が恋を語る話」は逆に一見意図されたように見えたものが実は偶然であった話である。

あるいは今の言葉でいえば、どちらも認知バイアスの話で、「自分に都合よく物事を解釈する」楽観的な人のバイアスと「自分に都合悪く物事を解釈する」悲観的な人のバイアスを取りあつかったものといえるかもしれない。

いずれにせよこの二篇は初出通り二篇で一組になるべきものだと思う。「日記帳」は超俗的な話、「算盤が恋を語る話」は俗的な話で、いわば怪人二十面相と遠藤平吉のようなものだからだ。

乱歩にはこのような、人あるいは物事にはかならず表裏二つの面があるという、ある意味では非常に常識的な固定観念があったと思う。乱歩は自分の探偵趣味、つまり物事の裏あるいは秘密を探る趣味についてくりかえし語っているが、その底には、何ものにも裏があるはずだというこの固定観念がより強力なものとして根を張っていたのではあるまいか。

二十面相の正体が遠藤平吉なんていわれると読者のほうははなはだしく興ざめで辟易するけれど、乱歩にいわせれば表と裏があってはじめて人は全きものとなるのだから、当然そうあらねばならないのだろう。

平井呈一と吉野家コピペ


 

今回の『迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成』には、平井呈一の推理小説関連のエッセイがまとまって収録されている。平井が推理小説について語った文章はおそらくこれで全部ではあるまいか。解説では書く余裕がなかったがこれも今回の集成の目玉であろうと思う。

荒俣宏の平井呈一年譜には「程一は推理小説については基本的に文学性が足りないと言う理由で評価が低く、しばしば自身の訳した作品についても辛辣であった」と書かれている。しかしエッセイをまとめて読むと必ずしもそうではない。もちろん宣伝のためのリップサービスもあったのかもしれないけれど……

平井がどんなことを書いているのかは『迷いの谷』を読んでからのお楽しみということにして、人も知るように、平井の翻訳は、怪奇小説界での好評とは裏腹にミステリ界ではあまり評判がよろしくない。たとえば都筑道夫は、平井の俳句は評価しているものの、翻訳については「きざを通りこして、嫌みというべきだろう」(『読ホリデイ』)と手きびしい。小林信彦も『ペテン師まかり通る』の訳文について「当人は悦に入ってるつもりだろうが、読まされるコチラは、はなはだ迷惑」(『地獄の読書録』)とボロクソである。「都会人向けの清新な読み物」としてミステリを売り込みたかった当時の若い編集者たちには、平井の訳文はどうにも困ったしろものであったのかもしれない。

そこで気になって図書館から平井呈一訳の『Yの悲劇 神の灯』を借りてきた。講談社から出た世界推理小説体系の第八巻で、宇野亜喜良が挿絵を描いている。まあ確かに「これはこれで悪くはないんだけどどうも……」みたいな感じはする。なんというか、昔はやった吉野屋コピペを思い出してしまうのだ。「ミステリってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ」「刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか」というフレーズが頭に浮かぶ。ドルリー・レーンが「あたしはただ感想をのべただけだがね」みたいな感じで呑気そうにしゃべっていると。

ちなみに吉野家コピペには国書刊行会バージョンも存在する。

とほい空でぴすとるが鳴る


 

また佐野洋を読みました。例によって「佐野洋のどこがそんなにいいんだ」というようなクレームは却下です。

さて今回は『十年物語』という短篇集。1997年に文庫オリジナルで出た本です。ですから晩年の作といっていいでしょう。「とほい空でぴすとるが鳴る」というのはこの前読んだ高原英理さんの『詩歌探偵フラヌール』でも引用されていた朔太郎の一節ですが、それと同じように、『十年物語』でも遠くで事件が起こります。

つまりこの本に収められたたいていの短篇では主人公は探偵でも犯人でも被害者でもなく、多くの場合は事件に直接にも間接にもかかわりを持っていません。はたして事件と主人公とはどういうつながりを持っているのか? という謎が主に扱われます。

さらにそこに「十年」という縛りを入れています。つまり十年前に起きた事件の波紋を、しゃれたコントに仕立てているのですよ。やや大げさかもしれませんが晩年の新境地といっていいでしょう。これだから佐野洋を読むのはやめられません。

『腿太郎伝説』を読んでしまった


 
サイン本が乱れ飛んでいるとかいう世紀のウルトラ大怪作『腿太郎伝説』。ついに読んでしまいましたよ。今の気分は「どうだ……読んでしまったか」と正木博士に話しかけられた呉一郎です。

キャラがメインか? 漫才がメインか? ストーリーがメインか? というくらいに登場人物の掛け合いがすさまじい。マンガでいえば『マカロニほうれん荘』みたいな感じでしょうか (古くてすみません) 。長篇一冊分の分量でひたすら続く『マカロニほうれん荘』……こいつは恐ろしい。恐ろしすぎる……ナント恐ろし、〇〇〇〇地獄じゃ、数をつくした八万地獄じゃ……

小説でいえば、まあそうですね、石川淳の後期作品を思わせるところがあります。マレビトが爆誕して、周囲の奇人変人を巻き込んで、奇想天外なことが起こって、行き当たりばったりみたいなストーリーがあれやこれやすったもんだしたあげくにけだるく終わる……と書くと褒めてないであきれてるみたいですが褒めてるんですよ! 少なくともこの小説に乗れない人は『狂風記』や『六道遊行』を読んでもおそらく乗れないでしょう。

ピアノは打楽器

昨日書いたようなわけで、近ごろは荻窪ミニヨンにしげしげと通っていて、あたかも仕事場のようになっています。ここは名曲喫茶としてはルールがゆるくて、パソコンを打っていても怒られないし、会話も普通の声ならOKです。ただし携帯電話はだめ。

しかしそのゆるさを濫用して、ときたまあたりに聞こえるような大声で話をする人がやってきます。そんなときはどうするか。バルトークのピアノ協奏曲をリクエストするのですよ。ピアノはポリーニで。これをミニヨンの巨大スピーカーで鳴らすとすごい迫力です。




ほらほら、ろくに話もできないくらいやかましい音楽でしょう。そのうるささに魂消た会話客はそそくさと帰ってくれ(ることもあり)ます。こういう曲を聞くとピアノは打楽器の一種だとつくづく思いますね。そもそも弦をハンマーで叩くというのが野蛮ではありませんか。

もちろん世の中にはもっとうるさい音楽だってあります。「月に憑かれたピエロ」とか。さしものピアノもうるささでは人の声にはかないません。しかしそういうのはこちらが翻訳に集中できなくなってしまうので論外であります。

いま訳しているもの


 

いま翻訳しているものを村上春樹風にいえば、「世界の終わりとクラシック音楽・ワンダーランド」みたいな感じになるかもしれません。荻窪の名曲喫茶「ミニヨン」にひんぱんに通っては作中に出てくる曲をリクエストし、訳をチェックし、あわせて作中の雰囲気を感じとろうとしています。

わざわざ荻窪まで行かないでも家で聞けばいいだろうと思う方もいるでしょう。しかしわが家の貧弱な装置では、オーケストラの音は歪みまくってドロドロした轟音にしか聞こえないのです。それにあまり音を大きくしたら隣近所に迷惑という気もしますし。

それはともかく、今訳している小説では、本家の村上春樹作品と同じように、「世界の終わり」と「ワンダーランド」が痛ましく分裂しています。この二作が同じテーマをあつかっているのはもちろんまったくの偶然でしょうけれど、それにしても不思議な暗合です。どちらも60年代独特のある種の雰囲気——グスタフ・ルネ・ホッケの『絶望と確信』みたいな——を察知してそれを切りとったためでしょうか。あるいは共通の祖型でもあるのでしょうか。『野生の棕櫚』? いやいやまさか。

こちらの「ワンダーランド」のほうは、その一部を来月21日の文学フリマ東京36で頒布の予定です。乞うご期待。文学フリマにはその他にもいろいろ持っていきます。

セルビアの星新一


 

盛林堂ミステリアス文庫から渦巻栗氏の訳でゾラン・ジヴコヴィチ『図書館』が出ました。こいつはすばらしい! ゾラン、ゾラン、ゾラ~ン、はるかな宇宙か~ら~——いやなんでもありません。

一読して驚くのは星新一そっくりなことです。それも後期星新一、つまり作品の枚数がやや多くなり、オチもオープンエンドというか、はっきりとは落とさない後期星新一を思わせます。

たとえばここに収められた短い短篇にはどれも人物名が出てきません。星新一は人物名を「エヌ氏」とか「エフ氏」とかいう風に処理していました。この短篇集は全部、主人公は「わたし」「おれ」「小生」などの一人称で、それ以外の人には名がつけられていません。

また風景描写や人物描写もほとんどなく、ひたすらストーリーを語るだけというのも星新一に似ています。浅羽通明さんの『星新一の思想』によれば、都筑道夫は星新一の本を読んで、あまりの描写のなさに「はて、これは小説だろうか」と疑問に思ったそうです。都筑道夫がこのゾランの本を読んだら同じことを思うかもしれません。

でもそれは必ずしも欠点ではなくて、そのおかげでインターナショナルな性格が強まり、普遍的な物語になっています。これらの短篇は、おそらくは作者の故郷が舞台なのでしょうが、日本のできごとであってもちっともおかしくありません。たとえば最初の短篇で主人公は大量に来るスパムメールに悩まされているのですよ。

短篇はどれも人と本とのかかわりを探ったもので、最後に行くほどメタ性が高くなっています。ですから各短篇は独立してはいますが、最初から順番に読むのがおすすめです。そうすれば最終話『高貴な図書館』でおおっと驚けます。

YOUCHANさんの解説によれば、この後も引き続き盛林堂ミステリアス文庫からゾランの本は続刊されるそうです。実に楽しみです。この作者、おそらく変幻自在のクセモノであるような気がしてなりません。今度はどんな顔を見せてくれるでしょう。

盛林堂で『アーカムハウスの本』を買う


 

今日は西荻まで出かけて『アーカム・ハウスの本』を買ってきました。あいにく店主は留守でしたが……

こういうリストは大好きなのでさっそく舐めるように読みましたよ。なんという至福の時間。邦訳情報には気の遠くなるような手間がかかっていると思います。『SFマガジン』や『たべるのがおそい』などの雑誌に掲載されているものも拾っているのがすごい!「アーカム・サンプラー」「アーカム・コレクター」の書評一覧が掲載されているのも随喜の涙です。 

また巻末あとがきには今回のアーカムハウス書誌のきっかけとなった、盛林堂主人小野純一氏の仁賀克雄氏とのかかわりが書かれていて、これもしみじみといい文章です。
 

……でも一つ言っていいですか? No.96 The Green Round (Arthur Machen)の書影はアーカムハウス版ではないと思います。これはたぶんイギリスの初版本。