『沖積舎の50年 増補版』


 

同社より『世界最古のもの』『セルバンテス』が出た縁で、『沖積舎の50年 増補版』を贈っていただきました。どうもありがとうございます。

国書刊行会と同じころのスタートだったんですね。なんとなく六十年代からあったように思っていました。

この本では五十余名の方々が祝辞を寄せられています。それも実に錚々たる執筆陣で、たとえば多少なりとも幻想文学に関係した方のお名前をあげさせていただくと、佐藤弓生氏とか井辻朱美氏とか堀切直人氏とか佐藤恵三氏とか富士川義之氏とか……。こんな版元から訳書を出してもらえたのか! と思うと、今さらのように感に堪えません。

『国書刊行会50年の歩み』とは違って販売価格がついていますので、非売品ではないようです。興味ある方は問い合わせてみればいかがでしょう。

『迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成』


 

藤原編集室の『本棚の中の骸骨』ですでに公表されているとおり、『迷いの谷 平井呈一怪談翻訳集成』の解説を書きました。これは『幽霊島』『恐怖』に続く平井呈一怪談翻訳集成の第三弾です。少し前に東雅夫さんの解説による『世界怪奇実話集 屍衣の花嫁』も、『幻想と怪奇』の平井特集号も、荒俣宏編『平井呈一 生涯とその作品』も出ました。時代はすでに平井呈一ですかね。

まあそれは冗談としても、平井呈一の文章は、絶えず再刊される岡本綺堂と同様、古いようで永遠に新しく、マイナーなようでメジャーで、書店で見かけると思わず手にとらせる魅力を秘めています。

なぜかというと、抜群の文章力を持ちながらそれに溺れず、一行一行に書いた者の魂がこもっていて、それが読者の心に共振するとしか——いやこれもあまりうまく言い当てた気はしませんね。とにかくいわく言い難いものです。

ところで今回はブラックウッドとM. R. ジェイムズがメインです。ウホッこれは良いカップリング! といってもどちらが受でどちらが攻とかそういう意味ではなくて、宿命のライバルが相対してバチバチ火花を散らしている感じです。

解説にも書きましたが、この二人は並べて読むと互いの美質が引き立ちます。怪談の醍醐味を形作る二要素のそれぞれの極を代表していると言っていいかもしれません。平井呈一の名訳ということを別にしても、この組み合わせはまたとない好企画であると思いました。「ブラックウッド? M. R. ジェイムズ? そんな古臭いのもう飽きたよ」という人も、この本を読めば思わぬ発見があるでしょう。

小野塚力氏への対応

昨日のブログ (削除済み) にも書いた通り、その後小野塚氏よりメールが来なくなったので、直近の三エントリ「小野塚氏の高飛車メール」「小野塚氏の高飛車メールふたたび」「その後の小野塚氏」を削除し、エントリ「一人三役疑惑」を修正した。もっとも削除した三エントリは保存してあるので、もしその必要があるときは、いつでも復活させるつもりである。

左川ちか全集を編纂された島田龍氏が小野塚氏に迷惑をこうむったことは知っていたが、まさかこちらにも累がおよぶとは……。島田氏は「関係者には様々な圧力を受け続け精神的及び実害を被りました」とツイッターで書いておられる。そこまで書くとは、よほどのことがあったのだろう……。また「日本の古本屋」のメールマガジン記事「なぜ『左川ちか全集』は生まれたか―書物としての「左川ちか」と解放の企図―」で、「書痴を気取るマニアたち。先人の書誌学に裏打ちされた校訂の術を無視する素人編集」「詩人の言葉が無惨に切り刻まれ、決して安くない額を支払った一般読者の方々を思うと、研究者としてもっと早くに警鐘を鳴らすべきだったと悔やんでいる」とも書いておられる。

昨日も書いたが、今後は小野塚氏からメールが来ても読まずに捨てる。葉書や封書も同様である。ある人から「小野塚氏には絶対に自分の電話番号を教えるな」と言われたが、今になるとその意味がよくわかる。

人を犯罪者扱いするような無礼なメールをよこす輩にまともに応対をしてやる必要はない。

杉山淳『怪奇探偵小説家 西村賢太』に関して疑惑をあくまで糾弾してやまない銀髪伯爵を陰ながら支持したい。

一人三役疑惑

日ごろから愛読している『銀髪伯爵バードス島綺譚』によると、杉山淳さんの『怪奇探偵小説家 西村賢太』がヤフオクで59,000円で落札されたそうです。すごいですね。大好評を博していることがうかがわれます。ちょっとこの本に興味がわいてきましたが、肝心の西村賢太の作品はまだ一作も読んでません……

このブログで「善渡爾宗衛/小野塚力/杉山淳」一人三役説が提起されていますが、善渡爾宗衛氏と小野塚力氏は明らかに別人です。それは文学フリマにでも来れば一発でわかります。一発でわかりはしますが、ただ、文学フリマで盛林堂のスペースにデーンと大きな顔をして座ってるのは、「盛林堂書房とズブズブ」とか思われるのでやめたほうがいいと思わないでもありません。「李下に冠を正さず」というではありませんか。

銀髪伯爵は「杉山淳と小野塚力って、単なる同類じゃなくて同一人物だったんかい」と書いておられます。また他にも別名があるという話も聞きました。多羅尾伴内みたいなものでしょうか。今後の八面六臂の暗躍、いや活躍が期待されます。

『国書刊行会50年の歩み』

カラーページが16pもついた超椀飯振舞・大豪華冊子『国書刊行会50年の歩み』を送っていただきました。どうもありがとうございます。
 

 
 表紙からして眼とかドクロとかバラバラの手足とか気色の悪いゴシック趣味が横溢してますが実は中身はもっとすごい。

「用務員さんが四階までついてきた話」「『法の書』愛蔵版を出したら大変なことになった話」「物故した著者が売り込みに来た話」「八重洲BCで大手他社が覚醒した話」「煉獄の炎で焼かれてカバーが消失した話」「いまだに夢に見るタケノコ掘りの話」などなど、このAI全盛の世の中にこんなことがあっていいのか! というような、一読肌に粟を生ずるエピソードがてんこ盛りです。こんなのに比べたらオトラントの大兜が落ちてくる話やマッケンの白い粉末の話などかわいいもんです。
 

こちらは通称「死のロード」に用いられている箱。『人狼ヴァグナー』『JR』『金枝篇』など比較的最近のタイトルが映っているということは、いまだ伝統は健在らしい。ボブ・ディランの「ネヴァー・エンディング・ツアー」みたいなものなのだろうか。

この冊子は全国で開催中のフェアで無料頒布予定の由。6月末まで開催しているらしいので、皆さん奮ってご入手ください。あと図書館の方々は「死のロード」ツアーの人が来たらどうか大量注文してあげてください。

どんでん七傑


 

『本の雑誌』3月号の特集はどんでん返しである。ついにどんでんが来たか!——と言うと違う意味になってしまうが、ともかく表紙にはでかでかと「どんでん返しが気持ちいい!」とうたわれている。

さっそく特集の驥尾にふし、読後あぜんとしたどんでん返し七傑を選んでみた(発表年順)。「ただし叙述トリック系は除く」という縛りを入れてみました。

1. チェスタトン『木曜の男』(1905)
2. 夢野久作『ドグラ・マグラ』(1935)
3. ジャン・レイ『マルペルチュイ』(1943)
4. グレアム・グリーン『情事の終わり』(1951)
5. ピエール・ブール『猿の惑星』(1963)
6. 三島由紀夫『豊饒の海』四部作(1969-71)
7. 乾くるみ『リピート』(2004)


以下一言コメント。

1. 昔の創元推理文庫ではハテナおじさんマークで出ていた。これは詐欺ではあるまいか。
2. 中盤で発せられる「どうだ、読んでしまったか」の一言の衝撃。発狂者続出というのも肯ける。
3. なんだこれは。いったい作者は何を考えているのだ。
4. 前半はパトリシア・ハイスミスみたいな変態すれすれの愛の物語。後半で一挙に幻想小説に化す。神話と宗教の差こそあれ殊能将之の『黒い仏』に一脈通じる怪作。こういうシリアスな文学は苦手なので読み方が間違っているかもしれないが……
5. 映画版とは結末が違って二段落ち。ウルトラQでいえばカネゴン風の終わり方である。出口なし。
6. 今まで築いてきた伽藍を紙屑みたいに丸めて捨てる暴挙。読まなきゃよかったと読後鬱になった。
7. いわゆる新本格以降のミステリから一作。運命というものを考えさせられた。

腿太郎の誕生

 

あの深掘骨氏の新作が今月24日に出るというので世間は騒然としている。しかも岸本佐知子氏の推薦つきで。

きっと「他の誰にも絶対に書けない小説を書こう」という固い決意があるのだろう。あるいは最初期の都筑道夫のように、ミステリその他の本をあまりに読み過ぎて変な小説しか書けなくなったのか。いずれにせよ深堀氏はおそるべき寡作である。この前(といっても何年も前)に読んだのは郷田三郎が出てくる短篇で、その何年か前にはお岩さんとかお菊さんとか小平次とかが容疑者になる本格ミステリ短篇、そのまた何年か前は「キーポッポ」と、ほとんど何年周期かで地球に近づく彗星みたいなものだ。

「腿太郎」というからには美脚フェチなのだろうか。それとも鳥モモ肉が大好きなのか、それとも腿太郎電鉄という路線が日本のどこかにあるのか。いやいやそんなありきたりの設定であるわけはない。かならずや人類の手がまだ触れていない恐ろしい世界が開けているはずだ。

怪談の訳註

あるアンソロジーのために怪談の短篇を一つ訳した。そのとき少し悩んだのは怪談に訳註はどうあるべきかということだ。

訳したのはストレートな怪談で、おそらくポーの影響をたっぷり受けている。すなわちあらかじめ計算された展開のなかで雰囲気をジワジワと盛り上げていき、その後で緊張感を少しゆるめて油断させてから不意に怪異を起こし、読者の肝を冷やすといったタイプである。

こういった作品に大切なのは緩急のテンポと細部の気持ち悪さだと思う。細部の気味悪さというのはたとえば、中井英夫が称揚した夢野久作「あやかしの鼓」の中の「豆腐のように白く爛れている」妻木君の唇の両端とか、あるいは都筑道夫の称揚した岡本綺堂訳クロフォード「上床(上段寝台)」の「それは何とも言いようがない程に恐ろしい化け物のようなもので、僕につかまれながら動いているところは、引き延ばされた人間の肉体のようでもあった。しかもその動く力は人間の十倍もあるので……」といったくだりが例としてあげられるだろう。

それはそうとここに一つ問題があって、それは訳註をどうするかということだ。原作者が語りの力で読者を呪縛しようとしているときに、訳者がバスガイドみたいにしゃしゃり出て、「右に見えますのは富士山でございます」なんてやるのはいかがなものか。訳註はできるだけはぶいて「なんだかわからないがあそこに山みたいなものがあるな」みたいな感じを残したほうが怪談としては雰囲気が高まるのではあるまいか。

しかし訳註をつけてはいけないと思うと、かえってつけたくなるのは人情である。日本ではあまりなじみのない状況で話の前半が進むので、結果的にたくさん訳註をつけてしまった。校正のとき削るかもしれない。

消えないうちに読もう


 

『都筑道夫の読ホリデイ』にこんな ↑ 一節がある。「やたらに本が消える」とはおだやかでない。

大変失礼な想像で恐縮なのだけれど、大胆な想像をあえてすれば、もしかしたら都筑夫人は、都筑氏の留守中に本が届くと「ああまた本が増えた。片付かないったらありゃしない」と思って、そのままゴミ箱に放るのではあるまいか。そして都筑氏に聞かれると「さあ、どこに置いたか忘れましたねえ」ととぼけるのではあるまいか。奥様は魔女ならぬ奥様はこんまりではあるまいか。まことに同情を禁じえない——もちろん奥方のほうに。

だがおかげでわれわれは都筑道夫から『ナイン・テイラーズ』の読後感を聞きそこねた。それだけは残念だ。都筑は『ポケミス全解説』に収められた『忙しい蜜月旅行』の解説で、「セイヤーズの探偵小説を、文学的探偵小説というのは、まったく見当外れであると思う。教養人の遊び、といっていいもので……」と、やや微妙な評価をしているが、『ナイン・テイラーズ』を読んでもやはり「教養人の遊び」と思うだろうか?

ともあれ家庭内にこんまりがいなくても、整理が悪いといつのまにか本は消えるものだ。『読ホリデイ』のどこかにも「消えないうちに急いで読んだ」というようなフレーズがある。

『恐ろしく奇妙な夜』が面白かったので、続いて同じ夏来氏の編による『英国クリスマス幽霊譚傑作集』を読もうと思った。だが確かに版元からいただいたのに、これがどこにも見つからない。そのうち出てくるだろうけれど「消えないうちに読む」というのはきわめて大切なことだと痛感した。

ヨーロッパに船出する高丘親王


 

『みすず』の読書アンケート特集を見ていたら、宮下志朗氏が『高丘親王航海記』の仏訳をあげておられました。仏訳が去年出てたんですね。全然知らなかったので驚きました。ちなみに訳者は先に『ドグラ・マグラ』を訳されたパトリック・オノレ氏です。

検索したらイタリア語訳も出ていました。

すでに中国では澁澤の訳書は多数出ていますが、さらにフランスやイタリアへも進出するとは愉快ではありませんか。いまにヨーロッパの読書家たちのあいだで、澁澤本がもてはやされるようになるかもしれません。ぜひ「澁澤なんてもう古いよ」とか言っている人たちの鼻をあかしてもらいたいものです。

もっともフランス人なら著者の名を「たちゅいこ・しびゅさわ」と発音しそうで、そこは少々不安です。なにしろボルヘスだって平然と「ボルジュ」「ボルジュ」と言う人たちですから。澁澤はコクトーに手紙を出すとき Tasso と署名したそうですが、これもトルクァート・タッソにあやかると同時に、 Tatsuo だと「たちゅお」と読まれるかもしれないと懸念したのかもしれません。しかしまあ「たちゅいこ」もインファンティリスムの発露ということでそれはそれでいいのかもしれません。