まだ佐野洋を読んでいる

まだ佐野洋を読んでいる。佐野洋というのはなにしろ読んだとたんにキノコの惑星のごとくスカーと忘れられるので、何度でも読み返しがきく。

でも何度読んでも面白い。土屋隆夫や天藤真の作品集成を出すという偉業を成し遂げたS元S理文庫はなぜ佐野洋に目をつけないのだろう。少なくとも初期作品は傑作ばかりなのに。権利関係で難しいところでもあるのだろうか。

今読んでいるのは『古い傷』という短篇集。七十年代の終わりから八十年代にかけての作品が集められている。さすがにこの頃になるとすべてが傑作というわけにはいかず玉もあれば石もある。だがその中にこんな話がある。

AとBは同じ会社を同期に入社した。しかしその後出世に差がつき、Aが課長のままなのにBは人事部長に抜擢された。でも二人は相変わらず同期のよしみで時々一緒に酒を飲む。そんな酒の席で、AはBから会社を辞めてくれないかと打診される。リストラ計画の中にAの名も入っているというのだ。先の見込みもないと思ったAはおとなしく会社を辞める。

その後Aは元いた会社のC子を愛人にした(早くに妻を亡くしたAはずっと独り身の生活を送っていた)。そんなある日、Aは久しぶりにBから酒の誘いを受ける。席上でAはBから、元いた会社のDが死んだことを告げられる。警察は自殺と判断したそうだ。だがBはAに、お前が殺したのではないかと言う。実はDはC子とつきあっていたというのだ。Aはもちろん自分が殺人犯でないのを知っている。そして別のことを考えた。もしかするとC子がDを殺したのではないか……

これでお終いである。真相はわからないまま終わる。でも警察が自殺というならそれなりの根拠があるだろうから、やはり自殺が真相ではないだろうか。少なくとも素人の当て推量よりは正しそうだ。この短篇で面白いのはよりむしろ、同期に会社を辞めさせる、もとの会社の女性を愛人にする、というような気まずい人間関係が醸し出すもつれた心理、そこから発生する疑心暗鬼のほうにある。おおげさに褒めればサマセット・モームやモーパッサンの味があるのだ。

不思議な印刷ミス

手持ちの辞書に不思議な印刷ミスがあるのに気づいた。買ったのは何年も前だが、印刷ミスに気付いたのはつい最近のことだ。

下の画像を見てほしい。"demetritorio" の "de" のところが破れているのが見えると思う。拙豚が破ったわけではない。最初から破れていたのである。さらによく見ると、"demetritorio" の左側の文章がおかしいのに気づく。「無礼の態度は皆が線」とか「③〈口査」とか、とても日本語とは思えない。
 
 

 

これは実はここで半円形に破れて折られたまま印刷されたものなのだ。「市」とか「線」とか「査」は、破れた穴から顔をのぞかせている前ページなのである。折れた部分を垂直に立てるとこんなふうになる。

 

 
おかげで「無礼の態度は皆が」のあとは印刷されず白いままになっている。
 

 
紙が薄くてページ数が多いとこんなことも起こるのですね。まあ読むのに支障があるほどではないからよかった。

チャンドラーのベストとワースト


 
 
レイモンド・チャンドラーの残した七つの長篇のうちのベストといえば、『長いお別れ』であるのは衆目の一致するところだと思う。数年前の日記に書いたような、いくつもの解釈ができる余韻あるラストもいい。それから文章もいい。片岡義男氏と鴻巣友季子氏の対談で構成された『翻訳問答』という本があるが、そこに『長いお別れ』の原文が一ページほど載っている。それを見てひっくりかえった。なんとすばらしい文章なのだろう。

もっとも一般的な意味ではいい文章とは言いかねると思う。片岡氏が指摘するように「視線が刺さって背中から突き出た」みたいなあまりにもアメリカンなジョークには辟易するし、鴻巣氏が指摘するように、"they get" を "there are" の意味で使うのは崩れた感じがする。しかしそれにしても文章全体から漂う静謐な詩情はどうしたことだろう。この一ページだけで読者はテリー・レノックスという青年を好きになってしまう。マーロウが彼を好きになったように。

というわけでベストが『長いお別れ』であるのに文句はないが、それではセカンドベストは何だろう。これは人によってばらつきがあると思う。わたしの好みでいえば『大いなる眠り』と『かわいい女』が甲乙つけがたい。『かわいい女』の魅力についてはさっきと同じ日の日記に書いた。読後心に残るのは間接的にしか語られていない「かわいい女」の面影である。「かわいい女」というと最初に登場する女性のことだと思われがちだが、たぶんそれは違う。ラストで話題にのぼる女こそ真の「かわいい女」ではないかと思う。『大いなる眠り』はリアリズムを通り越してマジックリアリズムにまで到達している人物描写と、それからマーロウと犯人が対決するラストシーンの迫力がすばらしい。

それではワーストは? これも人によって違うだろうが、『プレイバック』に軍配をあげたい。お終いのほうで明かされるアリバイトリックの下らなさの故にである。おそらくチャンドラーの長篇で推理小説のトリックらしいトリックが使われているのはこれ一作だけだと思うが、まあ何というか、使わないほうがどれだけマシだっただろうと思われるトリックなのである。

「深い健康」


9月2日の日記で触れた「人間性という地獄の劫火」と、ペアのように思い出される乱歩の言葉がある。

「石子責め、鋸引き、車裂きなどの現実を享楽し得るものは、神か無心の小児か超人の王者かであって、現実の弱者である僕には、それほど深い健康がない。しかしそれらが一たび夢の世界に投影せられたならば、それを幻影の国的な恐ろしさで、享楽することが出来る」

これは「残虐への郷愁」というエッセイの一節である(三島の『幻想小説とは何か』と同じ平凡社ライブラリーの『怪談入門』という本に入っている)。「深い健康」というのは実にまったくもって言い得て妙な表現で、これは逆説的なレトリックではなく、アイロニーでもなく、乱歩の実感が自然に吐露されたものだろうと思う。一般には変態と呼ばれるものを「深い健康」と言い切るところに乱歩の頼もしさがある。没後半世紀以上たってもいまだ衰えぬ人気もそんなところに原因があるのだろう。

この「深い健康」が三島のいう「人間性という地獄の劫火」と類縁のものなのか、それともまったく違うものなのか、それはまあよくわからない。三島の「網の上の食べごろの餅」と乱歩の「夢の世界への投影」との関係もうかがい知るすべもない。はっきりしているのは両者ともに犯罪者への共感があったことくらいだろう。

ただ乱歩は三島と違って最後まで夢の世界に逃げ切ることができた。これは乱歩の生温さを示すのか、それとも年の功なのか、それとも「深い健康」がなかったためなのか……

『短編ミステリの二百年 3』


小森収氏編纂の『短編ミステリの二百年』(創元推理文庫) は早いものでもう第三巻が出た。しかも巻を重ねるごとに分厚くなっていく。あまりのボリュームに圧倒されて一巻からずっと積んだままにしてある。

ずっとペースを乱さずに着々と(読むのが追いつかないくらいのスピードで!)出ているのがえらい。さすがミステリである。だてに日頃から時刻表トリックとか四分間の空白とか言っているわけではないのがよくわかる。

18時30分発のはずの特急「あさかぜ」がそのまま十年間東京駅ホームに止まったままだったらミステリでは大ごとになるだろうが、怪奇幻想アンソロジーの世界なら見慣れたいつもの光景にすぎないような気がする。あと百年もしたら動き出すのだろうか(一般論です。特定のアンソロジーのことを言っているわけではありません)。

『つわものども』

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 第一級の天才を持つ、小説を書くために生まれてきたような作家が書いた小説を読むのはなんと楽しいことだろう。ウォーもまさしくそうした作家のひとりで、読む前から面白さは保証されているようなものである。

 主人公ガイ・クラウチバックは由緒ある旧家の末裔である。カトリックの掟で離婚した女が死ぬまでは再婚できず、この旧家も彼の代で終わることがほぼ確定している。1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、ガイは35歳にもなるのに、軍隊に入りたくてたまらなくなる(特に勇敢とか英雄的とか愛国心があるとかいう性格ではない。実によくわからない心理である)。年のせいであちこちで志願を断られるが、なんとかホルバディアーズというこれも由緒ある部隊の見習士官になることができた。ガイともう一人アプソープという男は同期の中でもきわだって年を喰っているので「アンクル」というあだ名がつけられた(ナポレオン・ソロみたいですね。いや全然違うか)。

 このホルバディアーズというのがまた変人ばかりのいっぷう変わった部隊で、いくらイギリスが変人の国といっても、まさかこれが普通ということはないと思う。中でも異彩を放つのが第二章以下の表題にもなっている同期アプソープであった。ガイのときも思ったけれど、なんでこんな人が好き好んで戦争に行きたがるのか。名誉欲というばかりでもないと思うのだけれど、やはり変人だからなのか。それはともかく、やがて戦局は混乱をはじめ、ガイはスコットランドやダカールやシエラレオネと行き当たりばったりな感じで派遣される。だが実際の戦闘は最後まで起きない。ついにはガイが生きているのに過去形で噂されるところでこの小説は終わる。

 戦争ものというのに派手な事件はまったく起きない(といっていいと思う。何をもって「派手」というのかは議論がわかれると思うけれど)。『誉れの剣』というタイトルなのに、主人公ガイは名誉なことは何もしない(不名誉なことなら山としでかす。しまいには部隊を追い出される)。全然つわものでもないし、完全にタイトル負けしている。しかしキャラクターの妙と、携帯用便器とか黒人の首とかけして飲んではいけなかったウィスキーとかいう、いかにもウォー風のエピソードのおかげで一気に読まされてしまった。


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ところでウォーはロナルド・ノックス猊下の伝記を書いている。こんな人に伝記を書かれてノックスは不安ではなかったのだろうか。

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見返しを見るとこれも東京泰文社で買った本だった。往時の泰文社には何でもあったものだ。まるでバベルの図書館みたいに。しかもとびきり安かった。

ひたむきな三島由紀夫(2)

 
 ……『幻想小説とは何か』の東さんによる解説を読んだら、本来は評論の部が巻頭に来るはずが、版元のアドバイスで今の形になったという。小説篇か戯曲篇でこの本が終わっていたら、夢野久作の「瓶詰の地獄」みたいな効果が得られたであろうに、惜しいことであった。これから読む読者は目次に逆らって、編者解説で解説されている順、つまりⅣ→Ⅲ→Ⅰ→Ⅱというふうに読んでみたらどうだろう。

ひたむきさの話に戻ると、三島最晩年のエッセイ「小説とは何か」の中にこんな文章がある。

「法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかって、人間性という地獄の劫火の上の、炭焼きの餅の比喩を用いたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになった餅であり、芸術は適度に狐いろに焼けた喰べごろの餅であると説いたことがあった」(『幻想小説とは何か』p.424)

真面目に書いているのは間違いないと思うが、いかんせん比喩が奇抜すぎて、こういう厳粛な物言いをするときには醸されてはならぬ滑稽味が出てしまっている。例の皿屋敷のエピソードにしても同じだ。たんに阿頼耶識を熱く語るだけなら問題はない。「三島さんは片時も小説のことを忘れないですごいなあ」と尊敬さえされたかもしれない。なまじ皿なんか持ち出して熱弁したがゆえに、「三島さんそれは皿屋敷ですよ」とからかわれることにもなるのである。

でも三島がなぜことさらにこんな変な比喩を好んだかはわかる気がする。「小説とは何か」のお終いのほうに、作品内と作品外、二種の現実の対立緊張が執筆のエネルギーになっているという話が出てくる。とすれば卑俗の極である餅焼き網や皿と己の思想とを対置させスパークさせようというのは当然の話だ。ましてや最後には三島自身が網から転げ出て黒焦げになったからには。

三島の比喩の奇抜さは福音書が語るイエスの喩えの奇抜さを思わせるものがある(キリスト教徒の方々におかれましては無信仰者の妄言にどうかご寛恕のほどを!)。そういえば三島とイエスの最期は、父を、あるいは奇蹟を求めて拒まれるところにも相通ずるものはなかったろうか。


ところで餅焼き網の喩えにある「人間性という地獄の劫火」……これが三島の場合に何を意味していたかは、新資料の公表によって拙豚のような蒙昧者にもだんだん明らかになりつつある。たとえば新全集の補巻に収録された「愛の処刑」がそうだ。あるいは堂本正樹氏による回想 『 回転扉の三島由紀夫』——この本は何年も前の文学フリマで、柳川貴代さんがいらしたブースで買ったものだ。この驚愕の書を薦めてくださった柳川さんに感謝したい。

『幻想小説とは何か』に収録された澁澤あて書簡にこんな一節がある。

「ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボオドレエルのいわゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです」(同p.249)

この「もっとも書きたかった殺し場」「小生の内面のグラン・ギニョール」とはいかなるものかを、『回転扉の三島由紀夫』は赤裸々に説き明かしている。ああ、なんというグラン・ギニョールだろう! まさに「愛の処刑」だ。しかもそれを二十枚も書くとは! ボードレールもこんなところで引用されてさぞかし迷惑していることだろう。

ひたむきな三島由紀夫(1)


「折ふし夕べにシャーロック・ホームズを思う/これはわれわれに残されたよい習しだ (Pensar de tarde en tarde en Sherlock Holmes es una / de las buenas costumbres que nos quedan.)」とボルヘスは歌った。ならば折ふし夕べに三島を思うことも、われわれに残されたよい習わしであるだろう。ああ、三島とは思い出ならずや。

今回東雅夫さんの編纂で出た『三島由紀夫怪異小品集 幻想小説とは何か』はそんな三島を偲ぶにうってつけの書で、平凡社ライブラリー独特の高雅なフォント、瀟洒な本文レイアウトで読む三島由紀夫には格別なものがあり、三島自身の言葉を借りれば「読者の魂を天外へ拉し去る」。

三島由紀夫といえばまず思い出すエピソードは、これはたしか澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』に出てきたと思うが、三島邸で催されたこっくりさんの会の話だ。真剣そのものの面持ちで取り組む三島があまりにおかしくて、その場にいた奥野健男夫人がプっと吹きだした。すると三島は「奥野夫人、不謹慎ですぞ!」と怒ったというのである。「三島はザイン(ある)の人ではなくてゾルレン(あるべき)の人だとつくづく思った」というようなことを澁澤は書いていた。つまりこっくりさんは信じるものではなく信じるべきものであるということだ。

もちろん三島のこのゾルレン趣味は降霊会のときだけ現われるのでなく、本書にもあちこちに顔を出している。たとえば鷗外の「寒山拾得」を称揚するくだり(本書 p.334)。「水が来た」という文を例にあげて、鷗外の文章は「簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません」と書く。でも「水が来た」のすぐ二行後にある「不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪(もっけ)の幸いであった」という、それこそ装飾的な、というかユーモラスな遊びの文章は黙殺している。

あるいはやはり鷗外の「渋江抽斎」を「まるで濃いエキスを飲むように、一般の読者にはにがい飲物であります」(本書p.341)と評す。でも「一般の読者」であるはずの自分はあまりそうは思わない。「抽斎」の中で思い浮かぶギャグシーンを挙げてみると、

・抽斎の父允成はすごいイケメン侍だったので、飲み残しの茶をお女中たちが競い合ってねぶった。

・森枳園はあまりに芝居が好きすぎて、ついには武士の分際で舞台に上って役者の真似事をするまでになった。それがお上にばれてサア大変! とうとう枳園一家は闇にまぎれて夜逃げした。

・比良野貞固が後妻をもらおうとするに際し、信頼する老人にその候補を見にやらせた。老人が美しくしとやかだとしきりに褒めるのでその女をもらうことにしたが、当日輿入れしてきたのはあにはからんや、美しくもしとやかでもない女だった。いったいなぜ?

・抽斎の次男優善はすこぶる出来の悪い息子であって、ついに切腹を余儀なくされるところまでいった。ところが母があんな馬鹿息子は切腹する値打ちもありませんと言ったので沙汰止みになった。

これらのエピソードは、北杜夫ふうに言えば「書いても書かなくてもいいが、どちらかと言えば書かぬほうがマシなこと」だと思うが、なぜか鷗外は書いてしまうのである。あと臍で煙草を喫む男の話や、ナメクジが大嫌いで暗闇の中でも遠方にナメクジがいるとそれとわかる男の話や、片目だけ開けて眠る女の話など、いかにも江戸綺譚らしいエピソードもあったように思うが、これらは抽斎ではなかったかもしれない*1。まあともかくユーモアというのは真面目な顔でやられるとそれだけいっそう効果があるものだ。

しかし三島にとっては鷗外はあくまで「簡潔で清浄な」文章家で、「渋江抽斎」は「一般の読者にはにがい飲物」であらねばならない。ゾルレン趣味たるゆえんである。「鷗外はこうであらねばならぬ」といったん決めたらそうであらねばならぬのである。

このゾルレン趣味はもちろん小説にも発揮されていて、たとえば『金閣寺』は、金閣寺放火犯の動機はこれであるべきだ! とまず決めておいて、そこから逆算して物語を組み立てていったのではなかろうか。本書所収の「仲間」も、これは文字通り煙に巻かれるような話だけれど、たぶん最後の一行がまず頭に浮かんで、そこから残りが書かれたのではという気がする。

またこれは余談だが、この「仲間」は渡辺温の「父を失う話」の絵解きのような気がして仕方がない。つまりこの物語の「僕」はいずれは「お父さん」に捨てられるのではなかろうか。あらゆるものを煙にする「僕」は最後には煙のように消えてしまうのがふさわしいと思う。


 
 

*1:【9/10注記】あとで調べたら全部『抽斎』中のエピソードだったことが判明

元祖オレオレ詐欺

オレオレ詐欺の歴史は古い。旧約聖書によれば、モーセが神に「民にあなたの名を何とお伝えしましょうか」と聞くと、神は "I am what I am. (欽定訳では I am that I am)"と答えたそうだ(出エジプト記3:14)。この英訳は直訳すると「わたしはわたしであるところのものである」となる。くだけて訳せば「俺だよ、俺!」というのに近い。

では神はなぜこんな回りくどい返事をしたのか。ボルヘスの説によれば(正確に言えばボルヘスが紹介しているマルティン・ブーバーの説によれば)、神は自分の本当の名を知られたくなかったのだという。名を知るということはその者を支配することであるから、本当の名を漏らせばモーセに支配されてしまうと恐れて"I am what I am"とごまかしたのだという。

しかし神がモーセにも漏らさなかった本音を打ち明けた相手がただ一人いる。何をかくそうシェイクスピアである。やはりボルヘスの「everything and nothing(全と無)」では、神はシェイクスピアにこう言う。「わたしもわたしであるものではない。わたしはお前がお前の作品を夢見たように世界を夢見たのだ、わたしのシェイクスピアよ」

つまりモーセに答えた "I am what I am."はウソだったということだ。元祖オレオレ詐欺たるゆえんである。

『幻想と怪奇』3号

各所で話題騒然の『幻想と怪奇』3号を買ってきた。
 

 
 
巻頭80ページあまりの平井呈一特集は圧巻で、これだけでも十分にもとはとれるが、さらに圧巻なのはそれに続く短篇群である。実にみごとなアンソロジー(精華集)になっている。アンソロジーのテーマはいわば平井呈一趣味であり、「こわい話・気味のわるい話」趣味である。

不思議な現代性をたたえるウォルター・スコット「タペストリーの間」(和爾桃子さんの訳文のせいかも)、マリオン・クロフォード、E.F.ベンスン、A.M.バレイジなどの遺珠発掘、聡明で清澄なアスキス節が堪能できる「白い蛾」(いわゆるフェミニズム色も感じられる)。ニュー・ゴシックのえげつない(←誉め言葉)匂いがプンプン漂うマイクル・チスレット「ミスター・ケッチャム」。

それから井上雅彦氏の「紙の城館」。並みいる英米の強豪に混じって違和感がないのもすごいが、平井呈一への絶妙なオマージュになっているのには大感服した。