「深い健康」


9月2日の日記で触れた「人間性という地獄の劫火」と、ペアのように思い出される乱歩の言葉がある。

「石子責め、鋸引き、車裂きなどの現実を享楽し得るものは、神か無心の小児か超人の王者かであって、現実の弱者である僕には、それほど深い健康がない。しかしそれらが一たび夢の世界に投影せられたならば、それを幻影の国的な恐ろしさで、享楽することが出来る」

これは「残虐への郷愁」というエッセイの一節である(三島の『幻想小説とは何か』と同じ平凡社ライブラリーの『怪談入門』という本に入っている)。「深い健康」というのは実にまったくもって言い得て妙な表現で、これは逆説的なレトリックではなく、アイロニーでもなく、乱歩の実感が自然に吐露されたものだろうと思う。一般には変態と呼ばれるものを「深い健康」と言い切るところに乱歩の頼もしさがある。没後半世紀以上たってもいまだ衰えぬ人気もそんなところに原因があるのだろう。

この「深い健康」が三島のいう「人間性という地獄の劫火」と類縁のものなのか、それともまったく違うものなのか、それはまあよくわからない。三島の「網の上の食べごろの餅」と乱歩の「夢の世界への投影」との関係もうかがい知るすべもない。はっきりしているのは両者ともに犯罪者への共感があったことくらいだろう。

ただ乱歩は三島と違って最後まで夢の世界に逃げ切ることができた。これは乱歩の生温さを示すのか、それとも年の功なのか、それとも「深い健康」がなかったためなのか……