ひたむきな三島由紀夫(1)

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「折ふし夕べにシャーロック・ホームズを思う/これはわれわれに残されたよい習しだ (Pensar de tarde en tarde en Sherlock Holmes es una / de las buenas costumbres que nos quedan.)」とボルヘスは歌った。ならば折ふし夕べに三島を思うことも、われわれに残されたよい習わしであるだろう。ああ、三島由紀夫とは思い出ならずや。

 今回東雅夫さんの編纂で出た『三島由紀夫怪異小品集 幻想小説とは何か』はそんな三島を偲ぶにうってつけの書で、平凡社ライブラリー独特の高雅なフォント、瀟洒な本文レイアウトで読む三島由紀夫には格別なものがあり、三島自身の言葉を借りれば「読者の魂を天外へ拉し去る」。

 三島由紀夫といえばまず思い出すエピソードは、これはたしか澁澤龍彦の『三島由紀夫おぼえがき』に出てきたと思うが、三島邸で催されたこっくりさんの会の話だ。真剣そのものの面持ちで取り組む三島があまりにおかしくて、その場にいた奥野健男夫人がプっと吹きだした。すると三島は「奥野夫人、不謹慎ですぞ!」と怒ったというのである。「三島はザイン(ある)の人ではなくてゾルレン(あるべき)の人だとつくづく思った」というようなことを澁澤は書いていた。つまりこっくりさんは信じるものではなく信じるべきものであるということだ。

 もちろん三島のこのゾルレン趣味は降霊会のときだけ現われるのでなく、本書にもあちこちに顔を出している。たとえば鷗外の「寒山拾得」を称揚するくだり(本書 p.334)。「水が来た」という文を例にあげて、鷗外の文章は「簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません」と書く。でも「水が来た」のすぐ二行後にある「不潔な水でなかったのは、閭がためには勿怪(もっけ)の幸いであった」という、それこそ装飾的な、というかユーモラスな遊びの文章は黙殺している。

 あるいはやはり鷗外の「渋江抽斎」を「まるで濃いエキスを飲むように、一般の読者にはにがい飲物であります」(本書p.341)と評す。でも「一般の読者」であるはずの拙豚はあまりそうは思わない。「抽斎」の中で思い浮かぶギャグシーンを挙げてみると、

・抽斎の父允成はすごいイケメン侍だったので、飲み残しの茶をお女中たちが競い合ってねぶった。
・森枳園はあまりに芝居が好きすぎて、ついには武士の分際で舞台に上って役者の真似事をするまでになった。それがお上にばれてサア大変! とうとう枳園一家は闇にまぎれて夜逃げした。
・比良野貞固が後妻をもらおうとするに際し、信頼する老人にその候補を見にやらせた。老人が美しくしとやかだとしきりに褒めるのでその女をもらうことにしたが、当日輿入れしてきたのはあにはからんや、美しくもしとやかでもない女だった。いったいなぜ?
・抽斎の次男優善はすこぶる出来の悪い息子であって、ついに切腹を余儀なくされるところまでいった。ところが母があんな馬鹿息子は切腹する値打ちもありませんと言ったので沙汰止みになった。

 これらのエピソードは、北杜夫ふうに言えば「書いても書かなくてもいいが、どちらかと言えば書かぬほうがマシなこと」だと思うが、なぜか鷗外は書いてしまうのである。あと臍で煙草を喫む男の話や、ナメクジが大嫌いで暗闇の中でも遠方にナメクジがいるとそれとわかる男の話や、片目だけ開けて眠る女の話など、いかにも江戸綺譚らしいエピソードもあったように思うが、これらは抽斎ではなかったかもしれない*1。まあともかくユーモアというのは真面目な顔でやられるとそれだけいっそう効果があるものだ。

 しかし三島にとっては鷗外はあくまで「簡潔で清浄な」文章家で、「渋江抽斎」は「一般の読者にはにがい飲物」であらねばならない。ゾルレン趣味たるゆえんである。「鷗外はこうであらねばならぬ」といったん決めたらそうであらねばならぬのである。

 このゾルレン趣味はもちろん小説にも発揮されていて、たとえば『金閣寺』は、金閣寺放火犯の動機はこれであるべきだ! とまず決めておいて、そこから逆算して物語を組み立てていったのではなかろうか。本書所収の「仲間」も、これは文字通り煙に巻かれるような話だけれど、たぶん最後の一行がまず頭に浮かんで、そこから残りが書かれたのではという気がする。これは余談だが、この「仲間」は渡辺温の「父を失う話」の絵解きのような気がして仕方がない。つまりこの物語の「僕」はいずれは「お父さん」に捨てられるのではなかろうか。あらゆるものを煙にする「僕」は最後には煙のように消えてしまうのがふさわしいと思う。


 
 

*1:【9/10注記】あとで調べたら全部『抽斎』中のエピソードだったことが判明