ディスプレイ用書籍

神保町の北澤書店がディスプレイ用書籍に力を入れ始めたという噂を聞いてさっそく行ってみた。ここの二階に足を運ぶのは何年ぶりだろう。いや何十年ぶりかもしれない。どうもあの威圧するような雰囲気が苦手なのである。大昔には店頭平台に特価本のコーナーがあって(特価本といっても北澤のことだから五冊セット三万円とかいう値で「文句があったらヴェルサイユにいらっしゃい」みたいな感じで並んでいる)いやまあそれでもよくのぞいていたものだが、それも遠い思い出になった。

脇の階段から二階に昇ってすぐの左右二列がいわゆるディスプレイ用書籍らしい。内容別ではなく表紙の色別に並んでいるところがいかにもという感じだ。しかしいい本がリーズナブルな値段で並んでいる。昔の平台特価本のイメージが帰ってきたようでうれしくなってしまった。一時間あまり滞在した後、結局D.H.ロレンスの訳したイタリア作家の短編集 "Little Novels of Sicily (Giovanni Varga)"だけ買って退散。ちなみに900円だった。

それはそれとして、ディスプレイ用書籍と聞いてまっさきに思い浮かぶのはクイーン『第八の日』のラストでうやうやしく取り出される一冊の本である。いかにディスプレイといっても、だいたいの内容は知っておいたほうがいいような気がする。

おお、それからやはりディスプレイと聞いて思い出すのは、東京堂書店の一階にあるペーパーバック・カフェのディスプレイである。向かって左側の上段の列、左から確か二冊目にサイモン・シャーマの本が鎮座しましている。買えば軽く一万円を超す本だ。要らない本を持っていって、「これと交換してください」と言いたくなるがいまだその勇気は出てこない。

本の雑誌9月号

北原尚彦さんが大活躍しているという噂の『本の雑誌』9月号を買ってきた。なるほど大活躍だ!

国書刊行会、早川書房、東京創元社三社の中の人による座談会によると、国書の豆本等のプレゼントがあると真っ先に応募してくれるのが北原さんだそうだ。いつもありがとうございます。

それはそうとこの座談会を読むかぎりでは、豆本プレゼントが中の人にも好意的に見られているらしいのでホッとした。というのは豆本は作る方は楽しんで作るのでいいのだが、発送などの事務は大変だろうと思うからだ。それも中野さんの場合は数十部だけど、こちらは抽選がめんどくさいので実質全プレに等しい百部である。それをいちいち住所ラベルを打ち出して封筒に貼って挨拶状といっしょに本に入れて……となると、想像するだに大変そうで申し訳なさがつのる。それで売り上げはせいぜい百冊増えるだけなのだから……

そうはいうものの、もうすぐ出ると噂される『土の人形(ひとがた)』が無事刊行され、キャベル傑作選が完結したあかつきには、また(巨大)豆本プレゼントをやりたくてウズウズしている。といってもまだ編集の方とは全然話をしていないので、このリモートワーク全盛の折に実現可能かどうかは、現時点ではまったくわからない。

とりあえず『ジャーゲン』『イヴのことを少し』『土の人形』の三冊の書影に、『ジャーゲン』帯の「〇〇〇〇」の解答を添えてツイートすれば(正解でも不正解でも)抽選で百名に豆本プレゼントというのを考えているがサテどうなることやら。

後悔しない秘訣

昨日の日記で「いつなんどき変な圧力がかかって出版差し止めとか回収とかになるかもわからないから」と書いたが、これはすなわち、「あとで後悔しないよう今のうちに買っておく」という意味である。買って後悔するか、買わずに後悔するか、これは千古不易の悩ましい問題だ。

しかし「買って後悔」の場合は、その後悔はしょせん費やした価格だけの問題にすぎない。ところが「買わずに後悔」は、後悔の度合いが定量的に測れないだけに、いつまでも後をひく。とくに古本の場合だと一期一会という場合も多々あるのでなおさらだ。買わずに後悔した本はいまだにどの店のどの棚のどこらへんの位置にあったかまで覚えている。よほど執念深い性格なのかもしれない。

しかし亀の甲より年の功、年歯を重ねるにつれ、「買わずにいて、しかも後悔しない」方法をじょじょに編み出すにいたった。それを一言で言えば「買わないと決めたとき、その理由を明確に心に刻み込む」ということだ。

といっても、お金がないとか、買っても置くところがないとか、重いので持ち帰るのが面倒とか、買ってもどうせ読みやしないとか、そういう普遍的な理由はあとで必ず後悔のもとになるから、絶対に禁物である。「買わない理由」はその本特有のものでなくてはならない。たとえば表紙の角がつぶれているとか、ページが折れているとか、三文判の蔵書印が捺してあるとか、店主がやたらにエラそうであるとか。逆に言えば、どうにもこうにもケチがつけられないような本はエイやっと買うということでもある。この秘訣を編み出して以来、よほど心の安寧がえられるようになった。

超自然的恐怖原理主義者たちに抗して

巷で「ホラーより怖い」と人気大沸騰中なようなので自分も一本を贖った。いつなんどき変な圧力がかかって出版差し止めとか回収とかになるかもわからないから。



もしかすると超自然的恐怖原理主義者の方々から、「こんなものをホラーと呼ぶとは何事ぞ! 恐怖は超自然に限る! サンマは目黒に限る!」と非難の礫が飛んでくるかもしれない。しかしちょっと待ってほしい。フィクションのホラーは、自分にとっては、恐怖というよりは、ポール・サイモン歌うところの "Hello darkness, my old friend" というようなものに近いのだ。

だが買ってみたものの、あまりに恐そうなのでまだ一ページも読んでいない。というか本さえ開いていない。なにしろ表紙だけで十分お釣りが来るほど恐いから。

誰だった名前を失念したある女性漫画家は、少女のころ楳図かずおや古賀新一などのホラー漫画の大ファンだったが、あまりにも読むのが恐ろしいため、親に頼んでいちばん恐いシーンをあらかじめマジックで塗りつぶしてもらっていたそうだ(どなただったろうか? マジックで塗りつぶされた漫画雑誌の絵ははっきり記憶にあるのに肝心の名が出てこない。もう年かもしれない)。この本の表紙もそんなふうにマジックで塗りつぶしたくなるものがある。

謎のDeepL

 巷で噂のDeepL翻訳をちょっと使ってみた。


原文

Y hasta podría pensarse que lo más importante de esa obra, salvo que todo es importante, es - la amistad de Virgilio y de Dante; porque Dante sabe que él se salvará, y sabe que el otro está condenado -en todo caso, excluido de la vista de Dios-y lleva esa vida melancólica, con las otras cuatro grandes sombras.
 
-Sí, como antes Eneas en La Eneida.
 
-Es cierto.


 DeepLによる翻訳

ダンテは、自分が救われることを知っていて、もう一人は呪われていることを知っていて(いずれにしても神の目から排除されていることを知っていて)、他の四つの偉大な影とともに、憂鬱な人生を送っているのです。
 
-そうですね、以前のエエネイスのように。
 
-(徳井)そうですね (山里)そうですね


 第一パラグラフは半分くらいしか訳していない。あと "sombras" をDeepLは「影」と訳しているけれど、ここでは「亡霊」の意味である(フランス語のombreと同じ)。

 まあそういうのは仕方ないとして、原文に出てこない「徳井」とか「山里」とかいう人が最後にいきなり登場して相槌を打つのはなぜだろう? ステマなのだろうか。TV番組の合間にコマーシャルが挟まれるようなものか。まあ無料のサービスだから、非難する気はないけれど……

 すると私もお金さえ払えば、「(垂野) ところで『イヴのことを少し』は名作ですよ」とかいうフレーズを関係ない翻訳の間に挿入してもらえるのだろうか?

 それはともかく、ミステリ翻訳家にたとえると、Google翻訳が村崎敏郎(ともかく直訳する)とすれば、DeepLは西田政治(理解できないところはバンバン飛ばす)というところか。ここは一つ都筑道夫タイプ(原文を読まずに創作する)も作ってほしいが、AIには荷が重いかもしれない。

紙片は告発する


ディヴァインは好きな作家だ。社会思想社のミステリボックス時代にはよく読んだ。でも長いあいだ作者は女性かと思っていた。女性が視点人物になることが多いし、女性の心理描写に容赦がなく、また往々にしていかにも女性作家らしい結末で締めくくるから。実は未だに作者が男性であるとは半信半疑である。もしかしたら訳者が女性であることがこの印象に影響しているのかもしれない。まあなんにせよ、社会思想社版といい創元推理文庫版といい、ディヴァインは最適の訳者に恵まれた幸せな作家だと思う。

むかしむかし佐野洋が名探偵不用論というのを唱えたことがあるが、ディヴァインの諸作品ほどその強力な例証となるものはないように思う。ディヴァイン作品はたいてい小都会の小さなコミュニティを舞台にしていて、その中で醸し出される濃密で微妙な人間関係の中で殺人が発生する。事実ここでは刑事さえ容疑者たちと浅からぬ人間関係を持つコミュニティ内の人間だ。そんなところにエルキュール・ポアロであれエラリー・クイーンであれ、いかにも名探偵でござい、みたいな人間がやって来たらどうなるか。作者が慎重に築きあげたこの精妙な舞台は一挙に壊れてだいなしになるに違いない。

さて久しぶりに読んだディヴァインであるこの『紙片を告発する』も期待を裏切らない見事な出来栄えだった。最後の殺人未遂が行われた時点で、作者は親切にも容疑者(この殺人未遂が可能だった者)を三人に絞ってくれている(p.238。ここには五人の名があるがうち二人は明らかに圏外。だって登場人物表にさえ名がないのだから)。まあこの三人の中にいるなら犯人はこの人だよね、というのはディヴァインの他作品を読んだ人ならだいたいわかる。

でもその後にものすごいミスディレクションがあって(p.288あたり)、アレアレちょっと待てよ、そういえば全部同じ犯人とは限らないな、現に他作品でも最初の事件だけ別犯人というのがあったじゃないか……と考え始めると作者の術中にはまったも同然である。あと真犯人の動機が実にさりげなく示されていたのにも舌を巻いた。実にコテコテに楽しませてくれる「端正な本格」の逸品である。

ライノクス殺人事件

 

 
 
シンプルなトリックを圧倒的なケレン味で包み込む、日本でいえば、『○○○○○○○○殺人事件』を連想させるような作品。ちなみに『○○○○○○○○殺人事件』は評価が真っ二つに分かれた問題作だが自分は傑作と思う。『ライノクス』もこれと同じくらいに、読者の目をくらませるために渾身の力が傾けられている特異な作品である。

小説が一区切りつくごとに「解説」と称する短文が挿入されて、それまで起こったことを手際よくまとめてくれている。これがなかなかクセモノである。なんだか変だなと思うような描写があっても、この解説でもっともらしいことを言われると、なんとなく納得させられて疑問をウヤムヤにしてしまうのである。トリックは先に述べたようにシンプルそのものなので、多くのミステリ愛好家がたちまち真相を見破ると思う。だが自分はまんまと騙されてしまった。いやしかし(負け惜しみではないけれど)こんな犯行計画は指紋でたちまち破綻すると思うのだが……

読み終わって感心したのは、この特異の構成の何もかもがトリックのカモフラージュに奉仕していることだ。帯の惹句でうたわれている結末から始まる構成にしてもそうだ。つまり、「なぜこれが結末になるのか」と考え始めると真相から目が逸らされるような仕組みになっている。あたかも『○○○○○○○○』におけることわざ当てのようだ。つまり解けないに決まっている謎をぶつけて読者の目をつぶすのである。あと結末、第一部第一場、同第二場でそれぞれ出てくる三人の人物が判で押したようにいずれも権力志向の横柄な人物であることもうまいカモフラージュだと思う。まあ何にせよこんな簡単なトリックを見破れなかった自分が情けない。

探偵を捜せ!

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有名な作品だが今回初めて読んだ。

舞台は山の上に一軒だけ建つ山荘。その管理人は急用のため山荘を去り、客のウェザビー夫婦と小間使いだけが残された。ウェザビー夫人は遺産目当てに夫を殺してしまう。ところが夫は死ぬ直前に、探偵を雇ってここに来るように命じたと言った。やがて相次いで来る四人の客。いったいだれが探偵なのか、ウェザビー夫人は頭を絞って探り出そうとする。だがいかんせん頭が推理向きにできていないので、恐ろしく行き当たりばったりの行動をはじめる。

パット・マガーはアメリカの作家だが、この作品にはフレッド・カサックを連想させるようなフランスミステリの風味がある。とにかくブラックユーモアが横溢していて、もしかしたらそこが読みどころなのかもしれない。本当は四人の誰も探偵ではなく、夫も死んでなかったら面白いだろうなと思いながら読んだのだが、実際はもっと容赦ないものだった。

今でも新刊で手に入るらしいが「番頭」とか「アベック」とか「点火栓の鍵」(たぶんイグニッション・キーのこと)とかいう古めかしい訳語はそのままなのだろうか。ちょっと気になる。

水平線の男

何を隠そう、拙豚は還暦をとうに越えた爺である。いかに爺かというと、こんな ↓ 本が新刊書店で買えたほどの爺なのである。



これを買ったのは岡山の細謹舎という書店だ。今はもう跡形もないけれど、半世紀前は(丸善や紀伊国屋なんかのチェーン店を除けば)県内で最大の本屋だったように思う。ただし田舎の書店にまま見られるように在庫管理は甘々で、すでに返品不能の古い本も平気でずらずら棚に並んでいた。そこでこの本も手に入ったわけだ。ありがとう細謹舎!

扉の作品紹介にはこんな ↓こと が書いてある。期待はいやが上にも高まる。中学生のときは「十年に一度」うんぬんより「教授の周辺にむらがる多数の女子学生」に期待したような気がする。今でいえばAKB48みたいな感じで女子学生が出てくるのではないかと思ったのだ。



しかしいざ読みはじめるとあまり面白くない。女子学生も多数というほどは登場しない。そんなわけで途中で投げ出したまま、半世紀近くの年月が過ぎ去った。

今回コロナによる自宅引き籠りを奇貨として、改めて半世紀ぶりにチャレンジしてみた。が、やっぱり面白くない。心理サスペンス的な作風なのにサスペンスが一向に盛り上がらないのが困る。なぜこんなに盛り上がらないのか?と不思議に思ううちに、やがて思いあたった。ここには警察が全然出てこない。明らかに殺人事件が起きたというのに。

刑事というのは山椒のようなもので、小粒でもピリリと辛い。たとえ推理能力がゼロであっても、あちこちに出没して嗅ぎまわると、雰囲気は引き締まり、いかにも非常事態!という感じになってくる。ところがここで事件を嗅ぎまわるのは青年記者一人で、しかも事件より恋人とイチャイチャするほうに夢中だ。緊張感がないことおびただしい。

もしかしてこれ夢オチなんじゃないの、という不吉な想像も頭をよぎる。もう犯人なんか誰でもいいや、と投げやりになりつつ最後まで読むと、オッこう来たかという真相が明かされる。真相を知ったあとで最初の方を読み返すと、一段と趣が深くなる。

ただ今読んでしみじみ感銘するのは、むしろ作者のいわゆる腐女子ぶりである。厚木淳氏の解説には作者ヘレン・ユースティスは統合失調症を患ったことがあって、それがこの作品を産む機縁になったとか書いてあるけれど、いや~それは違うんじゃないかな、と僭越ながら思う。作者にこのプロットを思いつかせたのは腐女子的性向なんではあるまいか。「この二人ならこっちが受だな」というような発想からプロットが練られたような気がする。

100%アリバイ

 
「異色作に名作なし」といわれる。どうにも褒めようがなくて困ったときは「問題作」とか「異色作」とか「この著者のファンなら必読」とか評してお茶を濁すものらしい。果たしてこの本の帯にも「異色作」と書いてある。「探偵小説の常識をくつがえす異色作」と書いてある。あまり安易にくつがえしてほしくはないが……



読んでみたらなるほど異色作だった。ノックスの『陸橋殺人事件』や『まだ死んでいる』に似た味わいを持っている。人を喰ったような幕切れは「放心家連盟」をも連想させる。江戸川乱歩が乱歩賞の某候補作を「冗談小説」と評したことがあるけれど、これも冗談小説以外の何物でもないと思う。

なにしろ『木製の王子』みたいに、どの容疑者も分刻みの正確なアリバイを持っている。検死官も一、二分くらいの幅で死亡時刻を推定してみせる。世の常のアリバイトリック小説をおちょっくているような気もする。

英国流のねじくれたユーモア感覚が肌にあわない人は、読んで怒りさえするかもしれない。でもそこがいい。犯人が自分でアリバイトリックを(それも世にも下らない駄トリックを)いかにも得意げにペラペラ喋るあたりに、イギリス風ユーモアの真骨頂が光る。まあ何というか、フレンチ警部や鬼貫なら嫌になって事件を投げ出したくなるくらいの駄トリックなのである。それも素人の考案ならまだしも救われるが、このトリックを仕掛けたのは一種のプロだ。ともかく真面目な人が読むものでは絶対にない。