ひたむきな三島由紀夫(2)

 

 
 
 ……『幻想小説とは何か』の東さんによる解説を読んだら、本来は評論の部が巻頭に来るはずが、版元のアドバイスで今の形になったという。小説篇か戯曲篇でこの本が終わっていたら、夢野久作の「瓶詰の地獄」みたいな効果が得られたであろうに、惜しいことであった。これから読む読者は目次に逆らって、編者解説で解説されている順、つまりⅣ→Ⅲ→Ⅰ→Ⅱというふうに読んでみたらどうだろう。

 ひたむきさの話に戻ると、三島最晩年のエッセイ「小説とは何か」の中にこんな文章がある。
「法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかって、人間性という地獄の劫火の上の、炭焼きの餅の比喩を用いたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになった餅であり、芸術は適度に狐いろに焼けた喰べごろの餅であると説いたことがあった」(『幻想小説とは何か』p.424)

 真面目に書いているのは間違いないと思うが、いかんせん比喩が奇抜すぎて、こういう厳粛な物言いをするときには醸されてはならぬ滑稽味が出てしまっている。例の皿屋敷のエピソードにしても同じだ。たんに阿頼耶識を熱く語るだけなら問題はない。「三島さんは片時も小説のことを忘れないですごいなあ」と尊敬さえされたかもしれない。なまじ皿なんか持ち出して熱弁したがゆえに、「三島さんそれは皿屋敷ですよ」とからかわれることにもなるのである。

 でも三島がなぜことさらにこんな変な比喩を好んだかはわかる気がする。「小説とは何か」のお終いのほうに、作品内と作品外、二種の現実の対立緊張が執筆のエネルギーになっているという話が出てくる。とすれば卑俗の極である餅焼き網や皿と己の思想とを対置させスパークさせようというのは当然の話だ。ましてや最後には三島自身が網から転げ出て黒焦げになったからには。

 三島の比喩の奇抜さは福音書が語るイエスの喩えの奇抜さを思わせるものがある(キリスト教徒の方々におかれましては無信仰者の妄言にどうかご寛恕のほどを!)。そういえば三島とイエスの最期は、父を、あるいは奇蹟を求めて拒まれるところにも相通ずるものはなかったろうか。

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 ところで餅焼き網の喩えにある「人間性という地獄の劫火」……これが三島の場合に何を意味していたかは、新資料の公表によって拙豚のような蒙昧者にもだんだん明らかになりつつある。たとえば新全集の補巻に収録された「愛の処刑」がそうだ。あるいは堂本正樹氏による回想 『 回転扉の三島由紀夫』——この本は何年も前の文学フリマで、柳川貴代さんがいらしたブースで買ったものだ。この驚愕の書を薦めてくださった柳川さんに感謝したい。

 『幻想小説とは何か』に収録された澁澤あて書簡にこんな一節がある。
「ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボオドレエルのいわゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです」(同p.249)

 この「もっとも書きたかった殺し場」「小生の内面のグラン・ギニョール」とはいかなるものかを、『回転扉の三島由紀夫』は赤裸々に説き明かしている。ああ、なんというグラン・ギニョールだろう! まさに「愛の処刑」だ。しかもそれを二十枚も書くとは! ボードレールもこんなところで引用されてさぞかし迷惑していることだろう。