続松山翁とポー


松山俊太郎翁のポー解釈は、マリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』の影響を受けていたように思う。ここでいきなり脱線すると、この『エドガー・ポー』といい、プシルスキーの『大女神』といい、松山翁が称揚した本を翻訳出版しようとするとことごとく頓挫するのはなぜだろう? 刊行予告が出てしばらくするといつの間にかフェイドアウトし、あたかも最初から存在しなかったようになる。事情を知らぬ者には、背後で黒い手が働いているとしか見えない。

まあそれはともかく、むかし松山翁が入院することになって、留守宅の整理に駆り出されたとき、ある一室にこの『エドガー・ポー』のフランス語版大冊がうやうやしく鎮座しているのを見て、「ああやっぱり」と思ったのを覚えている。

現代教養文庫版の小栗虫太郎傑作選の解説にもマリー・ボナパルトの影響は見てとれる。ことに『黒死館殺人事件』や『潜航艇「鷹の城」』の精緻な作品分析にそれは著しい。なにしろ「探偵小説史上に現れた密室殺人の何割かは、作者の胎内回帰願望に起因すると思われる」(記憶による引用なので正確ではない)などと松山翁一流の独断を下すのだから。

もちろんマリー・ボナパルトの師匠フロイトの影響も随所に見られる。おそらくその最大のものは、過去の日記でも触れた『蓮の宇宙』に収録された法華経起源論だろう。 『大女神』に触発されたその壮大なヴィジョンには、フロイトの『モーセと一神教』が大きく影を落としていると思うのは拙豚の僻目だろうか。最近出た新訳をぱらぱらめくりながら、翁を懐かしく思い返したことであった。



   わが弊屋に鎮座するのは英訳である。果たして日本版の出る日は来るのであろうか