続吉田訳ポー

ポーの文章は重い石を積み重ねて城壁を作っていくような感じで、内容はともかくその文体が好きか嫌いかと問われると、まああれだね、ちょっと答えにくいところがある。

むかしむかし、松山俊太郎翁の講義、というか放談がまだ美学校で行われていたころ、佐々木直次郎訳のポーが話題に出たことがあった。「佐々木直次郎ですか」とわたしが言うと——たぶん揶揄したような口調だったのだろう——松山翁はむっとした顔になって「佐々木訳はいいんだよ」と教え諭された。

わたしは承服せず、次の回のとき吉田健一訳の「赤い死の舞踏会」のコピーを持っていって松山翁に見せたら、翁はちらと見て一言、「吉田健一ってのは英語できたのかねえ」——皆さんあんまりだと思いませんか。わたしは「佐々木直次郎よりはできたんじゃないですか」と言いかけてかろうじてその言葉を呑み込んだのでした。

おそらく、ポーの文体や雰囲気を、上手いところも下手なところもひっくるめて、なるべく忠実に日本語に移すと佐々木訳みたいになるのだと思う。ポーの原文を精読した翁にはそれがわかっていたのだろう。しかしそれではちと耐えがたいものになる——少なくともわたしにとっては——だから(たぶん)仏訳を経由した吉田訳がそれだけありがたい。

そもそも吉田健一の文章の好みは『失われた時を求めて』とかマルドリュス訳千夜一夜物語とかイヴリン・ウォーとかそういうものだったはずで、良くも悪くもゴシックの尾をひきずっているポーが肌にあったはずはないと思う。なのになぜ訳したのかというのは不思議ではなかろうか。そこでボードレール訳経由という疑惑が浮上してくるのである。