続続吉田訳ポー

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吉田健一訳ポーの特徴を見るためには、おそらく「アモンティラドの樽」の最後の一文が最適ではと思う。これの原文は

 For the half of a century no mortal has disturbed them. In pace requiescat!

 
これを田中西二郎はこう訳した。

 あれから半世紀、何者もまだこれを掻乱したことはない。彼の安らかに眠らんことを!


谷崎精二はこう訳した。

 半世紀ほどのあいだ、誰もこれをかき乱す者がなかった。(改行) 彼の安らかに眠らんことを!


ところが吉田健一訳だとこうなる。

 それからもう五十年になる。In pace requiescat.


これを見ると、松山俊太郎翁が「吉田健一ってのは英語ができたのかねえ」とつぶやいたのも無理もないと思えてこないこともない。しかし、しかしである。この短篇を締めくくる文章としては、吉田訳が傑出している。静かな余韻がただよい、語り手の感慨もよく伝わり、塗りこめられた壁がいつまでもそこにある様子が浮かんでくる。他の二氏の訳ではこの短篇のエンディングを支える力はない。あたかも他人事のような口ぶりだから。

吉田訳で工夫されているのは次の三点であろう。
1.「何者もまだこれを掻乱したことはない」をあえて訳さなかったこと
2.「半世紀」を「五十年」としたこと
3. In pace requiescat.を訳さずラテン語のままにしたこと。


1.は言うならば俳句の精神である。「古池やかわず飛び込む水の音/音の聞こえてなお静かなり」(これは太宰治が悪い付句の例として作ったもの)みたいに、言わずともわかっていることをあえて言うと効果がだいなしになるという気持ちである。もちろんこれは翻訳としてはウルトラ大邪道で、おそらく吉田健一にしか許されない手法ではあろうけれど。

2.はささやかだけれどすばらしい効果をあげている。原文のFor the half of a century という流れるような調子を翻訳で再現することは無理で、それならいっそ、異様な感じを与える(そして流れの悪い音の連なりである)「半世紀」を避けて、「五十年」とふつうに言った方が、読み手の気を散らさずにすむという、おそらくは無意識の判断があったのだと思う。

3.は吉田健一一流の考え方から来ている。たとえば『書架記』(だったと思う)で引用される "Jesu, heart's light, / Jesu, maid's son, " というフレーズのように、たとえ意味はわからずとも、音の響きだけで何かは伝わり、そしてそれは意味よりも大切なものであるという考え方である。「アモンティラド」のエンディングで何より大切なのは In pace requiescat. という音の響きであるから、たとえ意味は伝わらずとも、あえて訳さずそのままにしたほうがいいという判断だったのだと思う。ちなみにこの部分は初出の若草書房版では訳注がついていたけれど、集英社世界文学全集版ではそれさえなくなっていたと思う。あとこれもささやかなことだが、原文のエクスクラメーション・マーク(!)を普通のピリオドにしたのもすばらしい。