ボルヘスとパンデミック

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)

三島由紀夫の中篇『三熊野詣』に自分の周りをアルコールで丹念に拭きまくる老歌人が出てくる。巷の噂では折口信夫がモデルらしい。むかし読んだときには「えらい神経質な人だな」としか思わず、変な人を見る目で見ていたが、今となってはこの人の心境もなんとなくわかる。

ところで今から一世紀ほど前、スペイン風邪が大流行したとき、ボルヘス一家はジュネーヴに滞在中で、まさにそのパンデミックの直撃を受けた。当時はユーカリの葉を煎じると風邪に効くといわれていたらしく、あちこちにユーカリの香がただよっていたという。

長い間忘れていたその匂いをかいで、当時二十歳くらいだったボルヘスは思った。「おやおや、僕はアドロゲのホテルにいるぞ」故郷ブエノスアイレスにいた少年の頃、避暑のため夏に滞在していたアドロゲのホテルにもユーカリの樹が繁っていたのだった。

「死とコンパス」の冒頭にもユーカリの樹が出てくる。レンロットという北欧風の名とあいまって、どこか外国が舞台だと思いがちだが、やがてアルゼンチンの事件ということがわかる。ここらへんの騙し絵的な効果については、少し前に出た今福龍太氏の『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』が巧みに解読している。もしかしたらジュネーヴで体験したパンデミックとユーカリの結合が、「死とコンパス」という多重殺人の物語に、あるいは舞台の故意の暈(ぼか)し(ここはジュネーヴ? それともブエノスアイレス?)に発展したのかもしれない。

おうそうそう、今福氏のボルヘス本はとてもいい本ですよ。不遜ながら某誌に書評を書きました。