松山俊太郎 『蓮の宇宙』によせて

 
翁の講義は美学校に何度か潜り込んで謹聴したことがある。言葉もおそらくトータルで十語くらいは交わしていると思う。

人は会わなければわからないということもないし、会えばわかるというものでもない。だが謦咳に接してこそ感得できるものはある。その意味で生前の翁にまみえられたことは稀なる幸運だった。一言でいえば書かれたものから想像するより何倍もバケモノであった。

その翁の印象を語るには、親友であったといわれる種村季弘と比較するのがてっとりばやいだろう。種村は「断片からの世界」というエッセイでノヴァーリスのアフォリズム集『断章』に触れてこう書いている

……文章(センテンス)の閃光から閃光へと鳥のような身軽さで飛び移ることを可能にしてくれる、アフォリズム的発想の遊戯的自在さの魅力とでもいおうか。……その、さながら空中に遊ぶような思考の軽やかさが、一口に天上的と名づけたくなるような風情を呈していたことである。

すなわち結合術(アルス・コンビナトリア)の秘儀である。だが翁は、こんなのは曲芸みたいなものにすぎないと思っていたフシがある。種村流アルス・コンビナトリアについて翁はこう語っている。

種村の記憶力というものは、もう、まことに怪しいというか、妄想で変形された記憶だからね、大概は。何かいっぱい知っているということよりも、ある事柄とある事柄の結び付け方というのが面白いというか、奇抜というか、目の付け所が違うということはあるんだろうな。(美学校特別講義より)

遠慮のない間柄だからこその毒舌ということを差し引いても、種村式結合術をあんまり評価していないということは伝わってくる。それはそうだ。いかにアルス・コンビナトリアの辣腕を奮ったこととて、断片が断片であることには変わりがない。そこが翁には不満なのではなかろうか。

足穂にしても断片集の「一千一秒物語」は「どこがいいのか全然わからない」と言う。「弥勒」にしか興味はないと。

そうした星嫌い、隕石嫌いは『球体感覚御開帳』にも表われている。なにしろ地球に落ちてきた意味不明の隕石であるところのイクヤ句を、博識を縦横に発揮して完膚なきまで評釈し「謎のないスフィンクス」にしてしまうのだから。あとに残るのは謎という衝迫力を殺がれた燃え殻でしかない。

シュルリアリストの「手術台上のミシンと蝙蝠傘」にしたって、おそらく翁にかかれば、手術台にこれらのものが載っているゆえんを理路整然と説明しおおせてしまうだろうと思う。

結合術の愉しみは、アンソロジーを編む愉しみでもある。種村がいくつもの名アンソロジーを残しているのにひきかえ、知識量あるいは読書量ではひけをとらなかっただろうに、翁はこの分野に冷淡だった。澁澤龍彦に捧げたアンソロジー『最後の箱』のブサイクさはいっそ見事といえるほどで、ほとんどアンソロジーの体をなしていない。それだけに旧友を思う真情が籠もっているともいえるが――ともかく翁はアンソロジーという小宇宙をつくることに楽しみを見出すタイプではなかった。相手にするのは常に原寸大の宇宙だった。

翁は自著を上梓することも嫌った。おそらく自分の思想が「一冊の本」となって自分から切り離されること――断片化されることをいさぎよしとしなかったのだろう。

また雑誌連載を終了することも嫌った。本書解題にあるように翁には「法華経と蓮」「古代インド人の装い」「東洋人の愛」と三つ長期連載があるが、いずれも延々と連載されたあげくに中断し本にはなっていない。これもたぶん同じ理由からだろう。単行本『蓮と法華経』は雑誌連載版「法華経と蓮」を参照しないと意味不明なところがあるので、いつか本になればいいのだけれど……

種村流結合術は、断片化した世界の救済方法でもあった。では断片を忌む翁は、結合術の代わりにいかなる手段をとったか。それは始原に遡るということだ。今はバラバラになっている世界も、起源をたどれば何か意味のあるものだったに違いない。今の世に生きるわれわれは手足がバラバラになったオルフェウスしか目にすることができないのだけれど、もともとはもちろん五体満足であったはずだ。だから翁は執拗なくらい「もとの姿」「もとの意味」にこだわる。本書『蓮の宇宙』を紐解けばそれはイヤというほど味わえるはずだ。

最後に大事なことをひとつだけ。「蓮の研究に一生を捧げた」と聞くと狭い分野をコツコツやっていたように世間は思いがちだろうけれど、ぜんぜんそんなことはない。蓮というテーマはけして暇つぶしのためにあてずっぽうに選ばれたものではない。

蓮すなわち万有なのである。どんな些事でも極めれば普遍に達するとかそういう話ではない。正真正銘万有なのである。実にうまいところに着眼したものだと感嘆のほかはない。

「蓮に着眼した」というその一点だけで、つまり「人類文化を理解するツボとして〈蓮〉を提示した」というその一点だけで、たとえ研究は未完に終わろうとも、翁の偉大さは不朽のものとなろう。何より本書はそこを強烈に訴えかけてくる。