ルビのために

ルビというのは大切なものである。むかし、「忽然(こちねん)と叩叩の欵門(おとない)あり。」の「叩叩」のところにルビがなかったので、「とんとん」と読んだ人がいた。大阪圭吉か! 

でもまあ、「こちねんととんとんのおとないあり」もけして悪くはない。「コチネン」といういささかユーモラスな音の響きが、「トントン」によく合っている。それに「おとない」の「と」の音との響き具合も捨てるには惜しい。「こうこう」(これが正しい読み方)と「こちねん」との頭韻は今の感覚だとあまりにも古めかしく、むしろこの「と」音の重なりのほうが好ましい気がする。

もっとも「とんとん」が詩全体の雰囲気に似つかわしいかはまた別の問題なのだけど。「とかとんとん」という感じがしないでもない。

ところで自分はどういうときにルビを使うか。それにはおおむね四つの場合がある。まず複数の可能な読みから一つを指定したいとき。たとえば空(そら/くう)、人気(ひとけ/にんき)など。第二にひらがなだけだと意味が不明瞭になる場合。服装(なり)など。第三に中二病を発症したとき。天鵝絨(びろうど)など。そして第四の場合として、自分で読めない漢字にはルビを振るときがある。瞼(まぶた)とか膕(ひかがみ)とか。自分でも読めない漢字を使うなよ、とおっしゃる向きもきっとあろうと思うが、「ひかがみ」なんてひらがなで書くと、文章が間延びして緊張感を失ってしまうのだ。あと前後がひらがなばかりだと埋没して読みにくくなることもある。

ところが最近、東野圭吾の本を読んでいたら、この「瞼」がルビなしで出てきてオッと思った。なぜそうしたのか。あくまでも想像だが、文脈からこれが「まぶた」なのは明らかなので、スピード感の観点からルビを省略したのだろうと思う。ルビがあると目は一瞬そこで立ち止まるから、それを嫌ったのではなかろうか。これもひとつのやりかたであるなと大変参考になった。

一考さんの鍵

 澁澤龍彦はアンドレ・ブルトンから一本の鍵をもらったという。かくいうわたしも、むかしむかし、渡邉一考さんから一本鍵をもらったことがある。ほかに革ジャンパーももらったけれど、そちらは今の話に関係がない。まだ一考さんが赤坂見附の「ですぺら」でマスターをされていたころの話だ。

 澁澤のもらった鍵には"absolu"という文字が刻まれてあったという。一考さんの鍵には、何と書いてあるのか、ヴァテックに出てくる剣の銘のように見るたびにくるくる変わる。ときにはヨタとしか思えない文句が現れたりもする。

 でもまあ、(澁澤流に言えば、)そんなことはどうでもよいのだ。鍵というのは扉を開けるためにあるのであって、扉さえ開けば、何が書かれてあろうと問題ではない。

 そして見よ、一考さんの鍵を差し込むと、扉はみごとに開いた。開いたばかりではない。今まで扉だったものは、かき消すようにどこかに行ってしまった。扉を開けて入ろうとした場所までもが消えてしまった。文字どおりの「野をひらく鍵」だったのかもしれない。

 だが鍵だけは革ジャンパーとともにまだ手元にある。そこにいろいろ現れる文句のうち、比較的ヨタではないと思われるものに、「人の読まない本を読め」というのがあった。

 その「人の読まない本」、いうところの忘郤の古學の蠧巻の奇古なるものを読んできた成果といえる本が、いずれ出ると思う。この本はどういう運命をたどるだろう。やはり人の読まない本になるのだろうか。

識語

南條竹則さんの『英国怪談珠玉集』が怒涛の勢いで売れているそうです。まことに慶賀にたえません。やはり夏は怪談が一番であります。ツイッターでの告知によると、購入された方には抽選で素敵なプレゼントもあるようです。


 
この「識語」というのが気になります。どんな文面なのでしょう。南條さんのブログから推して、「冷やし中華はじめました」とか「七のつく日は餃子半額」とかそんな感じでしょうか。あるいは「本が届いた。今日はいい日だ」とか……いやこれは違う方だったか。

陥穽と振子

 とある編集者の方のウェブサイトにあった「今月の予定」を、すごい仕事量だな相変わらず大変そうだなとか思いながらボーッとながめていたのだが、何秒かのタイムラグのあと、とつぜんハッと気がついた。「今月入稿予定が二冊」って、一冊は自分の担当なのでは! いやいやいやいや、忘れてたわけじゃありませんよ。いちおう初稿はできあがっているのでとりあえず頭から追いやっていただけです。

 そうなのです。八月になったからにはノンビリとしてはいられません。八月末締め切りの本が二冊ありますから。と書くと、人は何も締め切りを重ねなくてもよかろうと思うかもしれません。もっとじっくり仕事すればいいのにと。

 なぜそんなにあせって仕事するのかというと、それはもちろん秋の文学フリマ用の新刊をつくる時間を確保するため*1――いやいやいやいや、もちろんそれもあるけれど、より根源的な不安があるのであります。

 それは一言で言うと、「今年なら出せる本も、来年には出せなくなっているかもしれない」という不安です。事実、中堅書店の棚幅など見ると、海外文学のマーケットが恐ろしい勢いで縮小しているのが、手にとるようにわかります。特にわたしの専心している怪奇幻想ジャンルなどは「本の雑誌」にもめったにとりあげられませんし、世間的には「なくてもなくてもいい」ジャンルとみなされているのではないでしょうか。

 まあ感じとしてはポーの「陥穽と振子」で振り子がだんだん下がっていくあんな感じなんです。だから出してもらえる本はなるべく早めに出したいと思うわけです。

 ということで今月は二冊分完遂予定! 乞うご期待! ついでに秋の文学フリマの新刊もご期待ください。

*1:あと9/15締め切りのROMの原稿もなんとか出したい

登場人物表のパラドックス

  
今はむかし、世紀の変わり目前後に、ミステリ系サイトが栄えた一時期があった。実をいうとこの「プヒプヒ日記」もそれら先輩サイトに刺激を受けて生まれたものだ。ところが栄枯盛衰は世の習いで、当時の人気サイトも今ではほとんど消えてしまった。ネット界ミステリ言論の主戦場はフェイスブックやツイッターに移ったのかもしれない。

そんな当時のミステリサイトのひとつに『煙で描いた肖像画』の登場人物表についての話題があった。どのサイトだったか忘れてしまったが、今ではこのサイトも消えているようだ。

この『煙で描いた肖像画は、主人公の青年A氏と、彼が恋するB嬢を巡って展開される物語である。ところがこの本の登場人物表にはもう一人、C氏の名が挙げられている。

これについて、くだんのミステリサイトには、だいたいこんなことが書かれてあった。(記憶だけで書いているので違っていたらご容赦を)

「C氏は体裁を整えるだけのために登場人物表に入れられたのは明らかだ。C氏を入れるなら同程度に重要なD氏とかE氏とかF氏とかも入れるべきではないか」

まあこんな実にどうでもいいことでも真面目に議論がなされていた古き良き時代ではあった。

ところで今とある長篇を翻訳しているのだが、登場人物がやたらに多いので、登場人物表をつくりながら訳している。こんなふうに自分で作っていると、『煙で描いた肖像画』の登場人物表におけるC氏の存在意義がよくわかる。考えてみればいやしくもミステリ出版の老舗東京創元社が「体裁を整える」だけのために余計な人物を表に入れるわけはない。

確かにC氏は、D氏とかE氏とかF氏と同様、ストーリーの進行上はいてもいなくてもいい端役である。だが同時にC氏は、D氏とかE氏とかF氏と違って、登場人物表になくてはならない人物なのである。

ではなぜそんなパラドックスめいたことが起きるのかということは、登場人物表が何のためにあるかをを考えてみればわかる。登場人物表とはもちろん、「あれ、このナントカさんっていう人はどういう人だったっけ」と読者が疑問を持ったときのためにある。

D氏とかE氏とかF氏とかは一場面にしか出てこない端役である。だから読者はその人物が退場すると同時にその存在を忘れてしまってもいっこうにかまわない。

ところがC氏は、始末が悪いことに、端役ではあるのだが、物語のはじめのほうでチョロっと出てきて退場し、その後物語がある程度展開したところでもう一度チョロっと出てくる。だからこの再登場の場面で「あれ、Cさんってどういう人だったっけ」と疑問を持つ読者も当然想定される。だから端役だけど登場人物表にはいなくてはならない。

ちらと思いついたのでメモ。こんなことを書いている暇があったら翻訳をさっさと進めんかいという気もするけれど。

最後から二番目の消夏法


毎日暑いですね。皆さんはいかがお過ごしですか。国書刊行会さんもこの暑さには参っているようです。


でもこんなときにこそ逆に酷暑! 酷暑! と騒ぎたてて、納涼本として『江戸怪談文藝名作選』なんかを売りまくればいいのに……商売気がないことです。江戸期怪談なんてこんな猛夏の日々に読まなくていったいいつ読めというのでしょうか。いま『江戸怪談文藝名作選』を読んでおけば、「ああ、むかしあの暑い中をフウフウいって読んだなあ」という思い出がきっと一生残りますよ。できれば夜になって風が出てきたころクーラーを切って部屋中の窓を開けて読めば趣もひとしおかと。
清涼井蘇来集 (江戸怪談文芸名作選)

清涼井蘇来集 (江戸怪談文芸名作選)


さて消夏法として最高なのは怪談であることは論をまちませんが、二番目にすばらしい消夏法とは何でしょう。
ジャーン! それは何をかくそう、古書店巡りであります。暑さでフラフラになりながらこちらの古本屋からあちらの古本屋へと巡りあるく味は、一度味わったらやみつきになりますよ。いやほんとに。客があんまりいないのでゆっくり本も見られますし。
なかでもおすすめなのが神保町のはずれにある古書いろどりです。
なぜおすすめなのかというと、まず店内のクーラーが壊れていて、外と暑さがあまり変わらないのです。全身から汗をふきださせながら古書をためつすがめつ選ぶ楽しみが満喫できます。
第二に、とある方の蔵書がドサッと入ってホラー系を中心とした洋書が質量ともにおそろしくあることです。この話を聞いたのが一か月ほど前だったので、もう目ぼしいものはなくなってるかなと思っていたのですが、あまりそんな感じでもありませんでした。きっとあまりにも本がたくさんありすぎてたぶん買っても買っても本がなくならないのでしょう。 "maddening rows of antique books(人を発狂させる古書の並び)"というラヴクラフトアウトサイダー」の一節が実感されます。
なにしろあの「ウィアード・テールズ」が30年代のおいしいところを中心に100冊くらい無造作に積んであったり、あちこち掘り返すとロバート・ブロックの初版本とかピーター・ヘイニングのアンソロジーが山のように出てきたり、あと部屋の隅のほうにはヒッソリと隠すようにして、ここに書くもはばかるようなマニア垂涎の本が天上近くまで積んであるのですよ。
とりあえず迷いまくって12冊買ってかえりました


左の三冊はアッシュ・トリー・プレスのA.M.バレイジです。これだけあればこの夏を乗り切るには十分だと思いますがどんなもんでしょう。まあ足りなくなったらまた古書いろどりさんに買いにいけばいいんだし……

当たりとの遭遇



 

 今日も夕方に学魔本を漁りに古書ほうろうに行った。だんだんわかってきたのだが、この店は夕方になってから棚に新しい本を補充するようだ。だから開店早々に行くと、かえっていい本にはめぐりあえないような気がする。ちなみにちくま文庫版ラブレーはまだカウンターの上にあっていっこうに棚に並ぶ気配はない。

 それはともかく、これ↓が今日の収穫。なかでも『メタヒストリー』が半額で買えたのはとても嬉しい。この本はカルロ・ギンズブルグがしきりに批判対象として著作の中で槍玉にあげているので前から気になっていた。あと『ミニマ・モラリア』はたぶん学魔本ではない。
 

 
 そしてジャン=ジャック・ルセルクル『言葉の暴力』にはこんなものが挟まっていた。おお、これが噂の「先生ご自身が切り抜いた」という「当たり」なのだろうか……「いいものばかりなんだよ!」の一枚なのだろうか……。ureccoの写真ではなさそうだが……
 

 
 ともあれ更なる「当たり」との遭遇を楽しみにせっせと読書に励むことにしようと思う。

学魔本を求めて

 学魔本を求めてまたまた古書ほうろうへ。これで三度目か四度目だと思う。この店のよいところは、「学魔本」というコーナーを特に作ることなく、あちこちの棚に分散して置いてあるところである(ときには均一本の中にまで!)。おかげで。宝探しの気分であちこちの棚を見て回れる。そこここをひっくりかえしていると一時間や二時間はすぐたってしまう。もしかすると店にとっては迷惑な客なのかもしれない。

 それはともかく今日買った本をご紹介。



学魔サイン。かっこいいねえ。
 


学魔赤傍線。画像だと見難いかもしれないが、「何通りもの草稿」の脇に引いてある。
 


学魔寄贈印。この印が押してある本はけっこうたくさんあった。


 
 あとカウンターの端に置いてあるちくま文庫版のラブレーもどうも学魔本のようなたたずまいがあるが、なかなか棚に並ばない。店の人に聞いてみると、五冊揃いで引き取ってきたはずなのだが第三巻だけどこかに行ったのだという。揃いとなって棚に並ぶ日ははたして来るのだろうか。

閉と開

 
竹本健治さんの『ウロボロスの基礎論』がこの五月に講談社文庫に入った。なんと今回が初の文庫化らしい。二十年ぶりくらいに読んでやはりこれは傑作であるなあと改めて溜息をついた。

本書の冒頭に書いてあるように、この『基礎論』も『偽書』と同じく、小説と「事実」との関係がテーマとして伏流している。だがそのアプローチは両者で正反対である。

『偽書』では何もかも作品世界にとりこんで、「閉じた」状態を作り出そうとしている。その象徴ともいえるのが作中の竹本家にあるワープロである――このワープロは、例のスティーヴィ・クライのタイプライターと同じく、本人が書いた覚えのない文章をいつのまにか保存している。つまり作品の外と思われる世界まで作品内にとりまれてしまう。そういう意味で「閉」の世界である。

それに対し、『基礎論』は逆に何もかも開放された「開」の状態をめざしている。ところどころで唐突に紛れ込む異質な一行もそうだし、他人の文章の長々しい引用もそうだし、果ては作中の言葉でいえば「小説ジャック」――他人に文章なり漫画なりを自由に描かせるアプローチなんかが典型的にそうで、もはやここには外の世界から隔てられた「小説世界」というのは存在しない。田舎の家みたいに近所の人が断りもなしに勝手にドカドカあがりこんでくるのである。「○ん○」という本来は人目には触れないものが公衆の面前に置かれるのである。

だから『偽書』と『基礎論』は双対ともいえるクラインの壺的な関係にある。つまり『偽書』では小説が事実を呑み込んでいるのに対し、『基礎論』では事実が小説を呑み込んでいる。二匹あわせてウロボロスの龍になっているわけである。

『偽書』については野地嘉文さんと本多正一さんのご厚意によって『幻影城終刊号』にある程度まとまった文章が書けたけれど、この『基礎論』についてもどこかで20枚くらい書かせてもらえないものかしらん。

百門の薔薇館

皆川博子の辺境薔薇館: Fragments of Hiroko Minagawa

皆川博子の辺境薔薇館: Fragments of Hiroko Minagawa


皆川博子の辺境薔薇館』の寄稿者用献本をいただきました。ありがとうございます。畏れ多くも皆川さん手書きのカードまで同封されています。
さっそく中をぱらぱらと見てびっくり。なんと、東雅夫さんが、「皆川博子を読み解くキーワード20」で、『猫舌男爵』の拙文解説を引用してくれているではありませんか。恐悦とはまさにこんなときに使う言葉でありましょう。

「テーベス百門の大都」という言葉がありますが、この辺境薔薇館すなわち皆川作品世界にも実は百くらいの入り口があります。皆川作品に興味はあるけれど、内容が多彩すぎて何から読んだらいいのかわからない、という方は、まずはこの東さんの文章を参考にされてはいかがでしょう。もしあなたが澁澤好きならこの本から、映画好きならこの本、幽霊好きなら、人形好きなら……というような懇切丁寧なガイドとしてもこの「キーワード20」は重宝します。
日下三蔵さんの著作リストも大変な労作。こちらはテーマ別ではなくミステリ・幻想小説・時代小説……とジャンル別にガイドがなされていて、ジャンルから入ろうという人にはうってつけです。

おお、あと、西崎憲さんの文章にある「世界文学性」というフレーズは言いえて妙です。海外文学は好きだけれど皆川作品は読んだことがない、という人はぜひ『猫舌男爵』を手にとってみてください。きっとアッと驚いて腰を抜かしますよ。