一考さんの鍵

 澁澤龍彦はアンドレ・ブルトンから一本の鍵をもらったという。かくいうわたしも、むかしむかし、渡邉一考さんから一本鍵をもらったことがある。ほかに革ジャンパーももらったけれど、そちらは今の話に関係がない。まだ一考さんが赤坂見附の「ですぺら」でマスターをされていたころの話だ。

 澁澤のもらった鍵には"absolu"という文字が刻まれてあったという。一考さんの鍵には、何と書いてあるのか、ヴァテックに出てくる剣の銘のように見るたびにくるくる変わる。ときにはヨタとしか思えない文句が現れたりもする。

 でもまあ、(澁澤流に言えば、)そんなことはどうでもよいのだ。鍵というのは扉を開けるためにあるのであって、扉さえ開けば、何が書かれてあろうと問題ではない。

 そして見よ、一考さんの鍵を差し込むと、扉はみごとに開いた。開いたばかりではない。今まで扉だったものは、かき消すようにどこかに行ってしまった。扉を開けて入ろうとした場所までもが消えてしまった。文字どおりの「野をひらく鍵」だったのかもしれない。

 だが鍵だけは革ジャンパーとともにまだ手元にある。そこにいろいろ現れる文句のうち、比較的ヨタではないと思われるものに、「人の読まない本を読め」というのがあった。

 その「人の読まない本」、いうところの忘郤の古學の蠧巻の奇古なるものを読んできた成果といえる本が、いずれ出ると思う。この本はどういう運命をたどるだろう。やはり人の読まない本になるのだろうか。