ルビのために

ルビというのは大切なものである。むかし、「忽然(こちねん)と叩叩の欵門(おとない)あり。」の「叩叩」のところにルビがなかったので、「とんとん」と読んだ人がいた。大阪圭吉か! 

でもまあ、「こちねんととんとんのおとないあり」もけして悪くはない。「コチネン」といういささかユーモラスな音の響きが、「トントン」によく合っている。それに「おとない」の「と」の音との響き具合も捨てるには惜しい。「こうこう」(これが正しい読み方)と「こちねん」との頭韻は今の感覚だとあまりにも古めかしく、むしろこの「と」音の重なりのほうが好ましい気がする。

もっとも「とんとん」が詩全体の雰囲気に似つかわしいかはまた別の問題なのだけど。「とかとんとん」という感じがしないでもない。

ところで自分はどういうときにルビを使うか。それにはおおむね四つの場合がある。まず複数の可能な読みから一つを指定したいとき。たとえば空(そら/くう)、人気(ひとけ/にんき)など。第二にひらがなだけだと意味が不明瞭になる場合。服装(なり)など。第三に中二病を発症したとき。天鵝絨(びろうど)など。そして第四の場合として、自分で読めない漢字にはルビを振るときがある。瞼(まぶた)とか膕(ひかがみ)とか。自分でも読めない漢字を使うなよ、とおっしゃる向きもきっとあろうと思うが、「ひかがみ」なんてひらがなで書くと、文章が間延びして緊張感を失ってしまうのだ。あと前後がひらがなばかりだと埋没して読みにくくなることもある。

ところが最近、東野圭吾の本を読んでいたら、この「瞼」がルビなしで出てきてオッと思った。なぜそうしたのか。あくまでも想像だが、文脈からこれが「まぶた」なのは明らかなので、スピード感の観点からルビを省略したのだろうと思う。ルビがあると目は一瞬そこで立ち止まるから、それを嫌ったのではなかろうか。これもひとつのやりかたであるなと大変参考になった。