閉と開

 
竹本健治さんの『ウロボロスの基礎論』がこの五月に講談社文庫に入った。なんと今回が初の文庫化らしい。二十年ぶりくらいに読んでやはりこれは傑作であるなあと改めて溜息をついた。

本書の冒頭に書いてあるように、この『基礎論』も『偽書』と同じく、小説と「事実」との関係がテーマとして伏流している。だがそのアプローチは両者で正反対である。

『偽書』では何もかも作品世界にとりこんで、「閉じた」状態を作り出そうとしている。その象徴ともいえるのが作中の竹本家にあるワープロである――このワープロは、例のスティーヴィ・クライのタイプライターと同じく、本人が書いた覚えのない文章をいつのまにか保存している。つまり作品の外と思われる世界まで作品内にとりまれてしまう。そういう意味で「閉」の世界である。

それに対し、『基礎論』は逆に何もかも開放された「開」の状態をめざしている。ところどころで唐突に紛れ込む異質な一行もそうだし、他人の文章の長々しい引用もそうだし、果ては作中の言葉でいえば「小説ジャック」――他人に文章なり漫画なりを自由に描かせるアプローチなんかが典型的にそうで、もはやここには外の世界から隔てられた「小説世界」というのは存在しない。田舎の家みたいに近所の人が断りもなしに勝手にドカドカあがりこんでくるのである。「○ん○」という本来は人目には触れないものが公衆の面前に置かれるのである。

だから『偽書』と『基礎論』は双対ともいえるクラインの壺的な関係にある。つまり『偽書』では小説が事実を呑み込んでいるのに対し、『基礎論』では事実が小説を呑み込んでいる。二匹あわせてウロボロスの龍になっているわけである。

『偽書』については野地嘉文さんと本多正一さんのご厚意によって『幻影城終刊号』にある程度まとまった文章が書けたけれど、この『基礎論』についてもどこかで20枚くらい書かせてもらえないものかしらん。