『私が選ぶ国書刊行会の3冊』


 

国書刊行会の創業50周年記念小冊子『私が選ぶ国書刊行会の3冊』が届いた。ありがとうございます。

さっそくエゴサーチの鬼と化し、ドレドレ自分の訳書を選んでくれた人はいるかなと鵜の目鷹の目でさがした、だがどこにもない。やはり自分は国書的には新参者なのだなと痛感。よし60周年記念冊子には必ず! 目に物をみせてくれん! と決意を新たにした次第であった。

縁あって自分も3冊を選んでいるけれど、しかこういう作業は何というか、雨の日にジョウロで花壇に水を撒いているような感じがする。自分などがフンドシをかつがないでも国書がすばらしい本を出しているのは周知の事実であろうし、それに「私が選ぶ300冊」ならともかく、3冊ではいかにも少なすぎる。ジョウロの水と感じるゆえんである。

それにしても他の方の推薦した本を見ていると、見たことも聞いたこともないタイトルがいくらでも出てくる。国書の守備範囲の広大さに改めて驚愕した。

叙述トリックの隠された動機


 

松山俊太郎翁は『綺想礼讃』のなかで「『密室殺人』の何割かは作者のエディプス・コンプレックスを隠された動機とするだろう」と述べている。つまり密室は母胎のシンボルであって、被害者に擬された父をそこで殺すことで、作者はひそかな願望を満たすというのだ。

そうかな? もしかするとマリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』をあまりに読み過ぎたがための妄説ではないのか。あの本は『ドグラ・マグラ』や、あるいはラ・マンチャの郷士の蔵書みたいに、読んだものの頭をおかしくする。ドン・キホーテの目に風車が巨人に見えたと同じように、松山翁には密室殺人がエディプス・コンプレックスに見えたのではあるまいか。『エドガー・ポー』の邦訳はいまだ現われていないけれど、あるいはそれは精神衛生上は幸いなことなのかもしれない。

それはともかく、推理小説では密室殺人と同じくらい大きな位置を占める叙述トリックはどうだろう。そこにも隠された動機はあるのだろうか。あるとすればそれは何だろう。叙述トリック一般についてはよくわからないけれど、倉阪流叙述トリックについてなら少し思い当たるところがある。

乱歩は『悪人志願』に収められたエッセイ「最近の感想」のなかで「芸術家は便所の景色にさえ美を発見し創造する。裏長屋にオシメが干してあるのがどこが美しいのだ。でも、それが油絵になると美しい」と書いている。『魔法の本棚』でいえばアレクサンドル・グリーンの「水彩画」がそんな話だ——あれはしみじみいい短篇だった。

倉阪流叙述トリックの肝は、まず非常に美しいけれど何となく曖昧な油絵を描いてみせ、最後に「実は裏長屋のオシメでした!」と暴露するところにある。世の常の叙述トリック小説とは異なり、その暴露には何ともいえぬ寂寥がただよう。それはいわゆる「賢者タイム」に通ずるものかもしれない。

さらにいえばそれは『虚無への供物』へも遡れるだろう。あの小説中の人物は現実の無意味に耐えきれずそれを妄想で粉飾しようとする。あるいは『他人の夢』の登場人物が見る「夢」。あるいは『月蝕領崩壊』で映し出された虚構と現実の二重写し。そういうものは倉阪作品ばかりでなく、たとえば殊能将之の『鏡の中は日曜日』にもみられる。ある種の叙述トリックの淵源には中井英夫的なるものがあるに違いない。

あのタイプライターは売れたのか


 

きのうは久しぶりにぽかぽかといい陽気になったので国立まで足を延ばした。まずは三日月書店に寄って豊島與志雄の『秦の憂愁』『山吹の花』他何冊かを買った。勘定のついでにあのアラビア語タイプライターは売れましたかと聞いてみると売れなかったそうだ(みんな見る目がないね。自分も買わなかったけど)。

しかし今回の洋書まつりはいつになく大勢の人出があったという。円安で洋書が高くなったため古本に走るのかと聞いてみると、田村書店さんが大量の出品をしたせいもあるのではという答えだった。角砂糖に蟻が群がるようなものかもしれない。

豊島與志雄はこれまで読んだことはなくて、わずかに太宰治の文章を通してその人柄を知るのみだった。今回はじめてぱらぱらとめくってみると「人恋しさの文学」ともいうべき味がある。『秦の憂愁』は連作短篇集で秦啓源と波多野洋介という二人の男との交渉を描いている。『山吹の花』中の同題の短篇は娘に死なれ愛人に去られる話。

検閲を歓迎(?)するボルヘス


 

小鷹信光氏といえばハードボイルドの名翻訳者・研究家として有名だが「ポルノ」という略称を日本語に定着させた人でもある(どこかの出版社が週刊新潮の氏の長期連載「めりけんポルノ」の完全版集成を出さないものだろうか)。

その背景にはかのオリンピア・プレスを牽引役とした60年代から70年代初めにかけてのポルノ大ブームがあった。小鷹氏が一時期あれほどポルノにのめりこんだというのも、アメリカの文化への氏の広汎な関心の一端だろうと思う。氏がドスケベであったためでは必ずしもあるまい。愛・蔵太氏といえば編集者としてやおい小説の出版に一時代を画した人だが、氏自身は同性愛者ではない(らしい)。それと同じようなものだと思う。

その証拠にアメリカでポルノが飽きられると同時に小鷹氏もすっぱりとポルノ紹介をやめている。またアメリカの言語への関心もそこにあったと思う。「めりけんポルノ」を精力的に翻訳紹介する一方、氏はいくつかの雑誌にその用語辞典を連載してもいた。

……何の話をしようとしているのかわからなくなったが、ジョージ・スタイナーの『むずかしさについて』に収められた「エロスと用語法」は、そうしたポルノブームに触発されて書かれた半ば時事的な文章である。そこには少し前に国書から『アフター・クロード』が出たアイリス・オーウェンスがハリエット・ダイムラー名義でオリンピア・プレスから出した小説も引用されている。

そしてこのエッセイの締めくくりにスタイナーはボルヘスに触れて「しかし、少なくとも現代の巨匠のひとり(ボルヘスのこと)はまさに詩的自由という、われわれと同じ理由で検閲を歓迎している」と記し、ボルヘスの文章を引用している。しかしその引用元がフランスの雑誌「レルヌ」であるため、スペイン語→フランス語→英語→日本語と重訳される過程で訳文がいささかピンボケになった感じはいなめない。スタイナーが引用した部分の前後を補って、原文からかいつまんで訳すとこんな風になる。これはジョイス『ユリシーズ』のニューヨーク州での無罪判決を契機として行われたインタビューで、ブエノスアイレスの日刊紙「ラソン」の1960年10月8日号に掲載された。

残念ながらわたしは友の多く——おそらくもっとも知性ある友——と意見を同じくしません。

誰もが文芸作品の検閲には反対なのをわたしは知っています。でもわたしは、検閲は正当化もできると思っています。ただしそれが誠実に行われ、個人的、民族的、政治的秩序追求の隠れ蓑に使われなければの話ですが。

道徳的見地から見た検閲の正当化は十分に認識されているので、それを振り返るつもりはありません。それに加えて、もしわたしの誤りでなければ、美の性格からも正当化はできます。哲学や数学の言葉と違い、芸術の言葉は間接的なものです。そのもっとも精密にして本質的な道具は仄めかしと隠喩であり、あからさまな断言ではありません。検閲は作家を促してこの本質的な手続きを踏むようにさせます。

かくて十八世紀の二人の偉大な著作家——ヴォルテールとギボン——のすばらしいアイロニーの少なからぬ部分は、猥褻なものを間接的な形で扱わねばならなかったおかげなのです。『悪の華』で検閲が出版を禁じた部分は、たやすく確認できるように、美的見地からは、もっとも露骨であるがゆえに最小の価値しかないところです。[……]

みずからの職務を知る著作家は、自分の時代の良い作法と習俗に背くことなく、言いたいことを何でも言うことができます。言語そのものがすでにして習俗なのを知っているのです。

国家権力を増大させる傾向にあるものはすべて危険で好ましくないと思います。しかし検閲は政治と同じく必要悪だとわたしは理解しています。疑いなくホアキン・ベルダ(この人の作は読んだ覚えがありません)という人のポルノグラフィーと、ジェイムズ・ジョイスのときたまのスカトロジーは別物です。ジョイスの歴史的・美的価値は何人も否定できないでしょう。[……]

そしてインタビューの最後にボルヘスは『記憶の図書館』を読まれた方ならおなじみのボルヘスギャグを飛ばすのも忘れていない。

ショーペンハウエルは自分の著作の句読点を変更する者を呪いました。わたしの場合は、自分のすべての作品は下書きではないかと思っているので、たとえ裁判官の手によるものであろうと、修正は有益なものになるかもしれません。

ふたたびタレコミあり

金沢から戻ってきた人からふたたびタレコミあり。昨日孫引きで引用したラルボーの書評は、その全文が国書刊行会『ボルヘスの世界』に高遠弘美氏の訳で載っているという。どれどれと見てみると本当にあった。
 

 
この『ボルヘスの世界』という本は、二十年以上前出たにもかかわらず、今も衝撃力を失っていない名アンソロジーだと思う。幸い今でも在庫があるようなので、未読の方には品切れにならぬうちにぜひとお勧めしたい。

ボルヘス『審問』に驚くラルボー


 

先週の洋書まつりで買った本の中にヴァレリー・ラルボーの伝記があった。謎のダブリ本の群れの中の一冊である。著者はベアトリス・ムスリという人で1998年にフラマリオンから出ている。

この本によればボルヘスはラルボーに『審問』を献呈したらしい。『続審問』ではなく、生前は再刊を許されなかった『審問』のほうである。国書のボルヘス・コレクション中の『無限の言語』に抜粋収録されているあの本である。

『審問』を一読して驚嘆したラルボーは1925年にある雑誌にこんなレビューを載せたという。

「バークレーの哲学、サー・トマス・ブラウン、エドワード・フィッツジェラルド、ジェイムズ・ジョイスについての研究あるいは覚書、ドイツ表現主義と、それからトレス・ビリャロエル、ケベード、ウナムーノ、カンシノス・アセンス、ゴメス・デ・ラ・セルナについての研究。W・H・ハドソン、ライナー・マリア・リルケ、エデュアルド・デュジャルダン、マックス・ジャコブ、そしてスペイン、イギリス、フランスの古典の引用。これら研究の内容それ自身とこれらの名が出てくる文脈は、このアルゼンチンの批評家が、十九世紀の先人たちを呆然とさせ、おそらくは憤慨させるであろう知識(それも原典の)を持っていることをわれわれに示している」

著者ムスリによれば、これはフランスでもっとも早くボルヘスに言及したものであるそうだ。さすがヴァレリー・ラルボー。だてに悪徳を罰せられない人ではない。

川野芽生選書フェア

紀伊国屋書店で開催中の「『月面文字翻刻一例』刊行記念川野芽生選書フェア」、その中の一冊に『夜毎に石の橋の下で』を選んでいただきました。川野芽生さん、ありがとうございます。

もう十年も前に出した本ですが、こんなふうに若い世代にも受け入れられていてとてもうれしいです。これからの翻訳の励みになります。

『本の幽霊』


 

先週洋書まつりに行ったついでに東京堂書店をのぞいたら西崎憲さんの新刊『本の幽霊』があった。奥付によれば9月30日の発行だったそうだが、不覚にも全然知らなかった! 

冒頭の短篇「本の幽霊」の語り手はむかしロンドンの幻想文学専門古書店から届くカタログを見て本を注文していたそうだ。そして同じ趣味を持つ友人がいた。「友人は当時福岡に住んでいて、カタログが届くのが一日遅かった。だからいい本をぜんぶぼくに持っていかれるとたまにこぼした」

気のせいかもしれないがこの「友人」のモデルの人には一度お会いしたような気がする。さらにこの古書店はファンタシー・センターのような気もする。

最後に置かれた「三田さん」には歌を教える人が出てくる。その人はいわゆるリズム感についてこう語っている。

「つまりは一定の速度で拍を正確に刻むこと、時間を正確に刻むこと、それがリズム感と呼ばれるものだと思う[……]/で、ある人間が一定の速度で時間を刻めないことにはいくつか理由があって、一番多いのは一定の拍にただ慣れていないってことなんだ。音楽が好きでよく聴く人間にもそういうことはけっこうあり[……]」

ここはまさに自分のことを言われているような気がした。

「時間を刻めない人は音楽と時間が結びついているという感覚を持たない。だから歌うときにふたつのことをしないといけない。つまりメロディーと歌詞の複合物を現前化することと、一定の感覚で時間を刻むことだ。ふたつのタスクをこなさないといけないから[……]負荷が大きくなる。うまく歌えないのは当然なんだ」

うーんなるほどますます自分のことのような気がしてきた。

で、そういう人はどんな練習をすればいいのかということが次に書いてある。しかしこれ以上引用すると営業妨害になりそうだから、これは皆さんご自分で読んでみてください。

『O嬢の物語』の叙述トリック


 

倉阪鬼一郎さんのミステリには「壮麗な館らしく描写されたものが実は〇〇だった」というのがかなりある。講談社ノベルスで出たもののうち半数以上はそうではなかろうか。

いっぽうレア―ジュの『O嬢の物語』『ロワッシーへの帰還』の二冊からなるO嬢二部作も、ミステリ的観点から読むとそんな味わいがある。正篇『O嬢の物語』で描かれたロワッシーの館はちょっと現実離れしたユートピアめいた場所なのだが、続篇『ロワッシーへの帰還』を読むとそれは一種の叙述トリックであったことがわかり、そこで館の真実の姿が明かされる。つまりこのO嬢二部作は、ある意味では館もの叙述トリックの王道ともいえる作品であって、倉阪さんのたとえば『新世界崩壊』にすごく似ている。

ちなみにフランス流叙述トリックでたいそう有名な某作品は1959年に出ている。『O嬢』はそれより5年早い。

しかしながらこの作品が最初から叙述トリック狙いで構想されたのかというとそれはかなり疑問だ。たぶん違うだろう。何しろ正篇が出たのが1954年、続篇は1969年とかなり間が空いているから。

『O嬢』を出したときの作者は続篇を書くつもりさえなかっただろう。それが読書界で見当違いの喝采を受けたおかげで、作者の心に、何というか、悪意が芽生えたのではなかろうか。この続篇は身勝手な夢を見る男性読者たちへの強烈なしっぺ返しではあるまいか。それはドン・キホーテの正篇と続篇の関係に少し似てはいないか——いや全然違うか。