検閲を歓迎(?)するボルヘス


 

小鷹信光氏といえばハードボイルドの名翻訳者・研究家として有名だが「ポルノ」という略称を日本語に定着させた人でもある(どこかの出版社が週刊新潮の氏の長期連載「めりけんポルノ」の完全版集成を出さないものだろうか)。

その背景にはかのオリンピア・プレスを牽引役とした60年代から70年代初めにかけてのポルノ大ブームがあった。小鷹氏が一時期あれほどポルノにのめりこんだというのも、アメリカの文化への氏の広汎な関心の一端だろうと思う。氏がドスケベであったためでは必ずしもあるまい。愛・蔵太氏といえば編集者としてやおい小説の出版に一時代を画した人だが、氏自身は同性愛者ではない(らしい)。それと同じようなものだと思う。

その証拠にアメリカでポルノが飽きられると同時に小鷹氏もすっぱりとポルノ紹介をやめている。またアメリカの言語への関心もそこにあったと思う。「めりけんポルノ」を精力的に翻訳紹介する一方、氏はいくつかの雑誌にその用語辞典を連載してもいた。

……何の話をしようとしているのかわからなくなったが、ジョージ・スタイナーの『むずかしさについて』に収められた「エロスと用語法」は、そうしたポルノブームに触発されて書かれた半ば時事的な文章である。そこには少し前に国書から『アフター・クロード』が出たアイリス・オーウェンスがハリエット・ダイムラー名義でオリンピア・プレスから出した小説も引用されている。

そしてこのエッセイの締めくくりにスタイナーはボルヘスに触れて「しかし、少なくとも現代の巨匠のひとり(ボルヘスのこと)はまさに詩的自由という、われわれと同じ理由で検閲を歓迎している」と記し、ボルヘスの文章を引用している。しかしその引用元がフランスの雑誌「レルヌ」であるため、スペイン語→フランス語→英語→日本語と重訳される過程で訳文がいささかピンボケになった感じはいなめない。スタイナーが引用した部分の前後を補って、原文からかいつまんで訳すとこんな風になる。これはジョイス『ユリシーズ』のニューヨーク州での無罪判決を契機として行われたインタビューで、ブエノスアイレスの日刊紙「ラソン」の1960年10月8日号に掲載された。

残念ながらわたしは友の多く——おそらくもっとも知性ある友——と意見を同じくしません。

誰もが文芸作品の検閲には反対なのをわたしは知っています。でもわたしは、検閲は正当化もできると思っています。ただしそれが誠実に行われ、個人的、民族的、政治的秩序追求の隠れ蓑に使われなければの話ですが。

道徳的見地から見た検閲の正当化は十分に認識されているので、それを振り返るつもりはありません。それに加えて、もしわたしの誤りでなければ、美の性格からも正当化はできます。哲学や数学の言葉と違い、芸術の言葉は間接的なものです。そのもっとも精密にして本質的な道具は仄めかしと隠喩であり、あからさまな断言ではありません。検閲は作家を促してこの本質的な手続きを踏むようにさせます。

かくて十八世紀の二人の偉大な著作家——ヴォルテールとギボン——のすばらしいアイロニーの少なからぬ部分は、猥褻なものを間接的な形で扱わねばならなかったおかげなのです。『悪の華』で検閲が出版を禁じた部分は、たやすく確認できるように、美的見地からは、もっとも露骨であるがゆえに最小の価値しかないところです。[……]

みずからの職務を知る著作家は、自分の時代の良い作法と習俗に背くことなく、言いたいことを何でも言うことができます。言語そのものがすでにして習俗なのを知っているのです。

国家権力を増大させる傾向にあるものはすべて危険で好ましくないと思います。しかし検閲は政治と同じく必要悪だとわたしは理解しています。疑いなくホアキン・ベルダ(この人の作は読んだ覚えがありません)という人のポルノグラフィーと、ジェイムズ・ジョイスのときたまのスカトロジーは別物です。ジョイスの歴史的・美的価値は何人も否定できないでしょう。[……]

そしてインタビューの最後にボルヘスは『記憶の図書館』を読まれた方ならおなじみのボルヘスギャグを飛ばすのも忘れていない。

ショーペンハウエルは自分の著作の句読点を変更する者を呪いました。わたしの場合は、自分のすべての作品は下書きではないかと思っているので、たとえ裁判官の手によるものであろうと、修正は有益なものになるかもしれません。