叙述トリックの隠された動機


 

松山俊太郎翁は『綺想礼讃』のなかで「『密室殺人』の何割かは作者のエディプス・コンプレックスを隠された動機とするだろう」と述べている。つまり密室は母胎のシンボルであって、被害者に擬された父をそこで殺すことで、作者はひそかな願望を満たすというのだ。

本当かな? もしかするとマリー・ボナパルトの『エドガー・ポー』をあまりに読み過ぎたがための妄説ではないのか。あの本は『ドグラ・マグラ』や、あるいはラ・マンチャの郷士の蔵書みたいに、読んだものの頭をおかしくする。ドン・キホーテの目に風車が巨人に見えたと同じように、松山翁には密室殺人がエディプス・コンプレックスに見えたのではあるまいか。『エドガー・ポー』の邦訳はいまだ現われていないけれど、あるいはそれは精神衛生上は幸いなことなのかもしれない。

それはともかく、推理小説では密室殺人と同じくらい大きな位置を占める叙述トリックはどうだろう。そこにも隠された動機はあるのだろうか。あるとすればそれは何だろう。叙述トリック一般についてはよくわからないけれど、倉阪流叙述トリックについてなら少し思い当たるところがある。

乱歩は『悪人志願』に収められたエッセイ「最近の感想」のなかで「芸術家は便所の景色にさえ美を発見し創造する。裏長屋にオシメが干してあるのがどこが美しいのだ。でも、それが油絵になると美しい」と書いている。『魔法の本棚』でいえばアレクサンドル・グリーンの「水彩画」がそんな話だ——あれはしみじみいい短篇だった。

倉阪流叙述トリックの肝は、まず非常に美しいけれど何となく曖昧な油絵を描いてみせ、最後に「実は裏長屋のオシメでした!」と暴露するところにある。世の常の叙述トリック小説とは異なり、その暴露には何ともいえぬ寂寥がただよう。それはいわゆる「賢者タイム」に通ずるものかもしれない。

さらにいえばそれは『虚無への供物』へも遡れるだろう。あの小説中の人物は現実の無意味に耐えきれずそれを妄想で粉飾しようとする。あるいは『他人の夢』の登場人物が見る「夢」。あるいは『月蝕領崩壊』で映し出された虚構と現実の二重写し。そういうものは倉阪作品ばかりでなく、たとえば殊能将之の『鏡の中は日曜日』にもみられる。ある種の叙述トリックの淵源には中井英夫的なるものがあるに違いない。