金玉を噛まれる

 ちょっと必要があってフランク・ヴェデキントの日記を拾い読みしていたらこんな一節にぶつかった。
 
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「彼女は[…]をちょん切ろうとしたが[…]、僕の金玉を噛んだので僕は痛さで悲鳴をあげた」。ここだけは本人も恥ずかしかったのかフランス語で書かれてある。噛む方も噛む方だが噛まれる方も噛まれる方である。だがそのあと医者に行かなくてもよかったのだろうか。他人事ながら気にかかる。行きづらいのは十分理解できるけれど……
 
 ヴェデキントは昔は『春の目覚め』の作者として有名だったけれど、今は映画『エコール』の原作になった『ミネハハ』やルル二部作のほうが知られているかもしれない。
 
 
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 これはアラステアの二色刷り挿絵がたくさん入っている二巻本選集。金玉を噛まれるような奴の本がこんな美麗な形で出ていいのだろうか。他人事ながら気にかかる。
 
 
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 こちらは生田耕作旧蔵の『ルサルカ侯爵夫人』仏訳本。奢灞都 (さばと) 館の蔵書印が捺してある。いかにもサバトの館に蔵されるにふさわしい本、なのかもしれない。
 
 
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 令嬢二人と合奏するヴェデキント。タンバリンがかわいい妹さんはカメラマンに向かって「何見てんのよ!」とガンをとばしている。

『テュルリュパン』販売開始

 

 レオ・ペルッツ『テュルリュパン』がアマゾンで販売開始になりました。丸善・ジュンク堂でも、たとえば都内なら丸の内本店・日本橋店・池袋本店に在庫があるようです。皆様なにとぞよろしく。

『サラゴサ手稿』ついに完訳


 

岩波書店のツイッターによれば、『サラゴサ手稿』が畑浩一郎氏の訳で九月から刊行されるという。これはめでたい。

千夜一夜物語にならって何重もの入れ子構造をもったこの作品は、そのテキストもガラン版、マルドリュス版、バートン版などが並立する先輩並みに錯綜している。

まず初版は一八〇四年および〇五年にぺテルスブルクで地下出版の形で刊行されたという(国書版『サラゴサ』に付せられた工藤幸雄氏のあとがきによる)。これは第十三日の半ばまでしかないが、プーシキンをはじめとする文士たちに広く読まれたらしい。

ポトツキは一八一五年に自殺する。死後三十年ほどたった一八四七年に、遺された原稿をエドムンド・ホイェツキがポーランド語に訳した版がライプツィヒで出た。この版は第六十六日目までありエピローグもついている。だがフランス語の元原稿はこれ以降かなりの部分が行方不明になったらしい。

二十世紀に入ってガリマール社から一九五八年にロジェ・カイヨワの編纂で第十四日までの版が出た。これが国書版(一九八〇)の底本となった。

一九八九年、ジョセ・コルティ社からRené Radrizzaniという人の編纂で、第六十六日までの版が出た。この版ではフランス語元原稿が一部所在不明なため、全体の五分の一程度をホイェツキのポーランド語訳から仏訳しているらしい。つまりいわば折衷版である。だがこれは長い間定本として扱われてきていて、ペンギン・クラシックスに入っている英訳も、これを底本としている。

このテキストが刷新されたのは、新たに発見された原稿をもとに、二〇〇四年から〇六年にかけてルーヴァンのPeeters社から出されたポトツキ作品集でのことだった。この全集には第四巻一、第四巻二としてそれぞれ一八一〇年版と一八〇四年版が収められている。前者は第一日目から第六十一日目まで、後者は第一日目から第三十九日目までが収められてある。だが両者の分量はほぼ同じで、どちらか一方にしかないエピソードもある。今フランスではペーパーバックの二冊本が一つの箱に入って売られている。どちらの版も甲乙つけがたく貴重だということだろうと思う。
 


 

岩波書店のツイッターによれば岩波文庫版は一八一〇年版をもとにするらしい。というわけで完訳刊行はめでたいのだが、かえすがえすも残念なのは、おかげで工藤幸雄氏が精魂を込めて訳された原稿が闇に葬られそうなことだ。しかし工藤氏訳はジョセ・コルティ版とホイェツキ訳版を元にしているだろうから、たとえ岩波文庫版が出ても、異本として存在価値は十分にあるはずだ。なんとか刊行できないものだろうか。『千夜一夜物語』も複数の版の訳が並立しているのだから、『サラゴサ』だって畑版と工藤版があっても全然おかしくない。いやむしろ似つかわしいことだと思う。ああ、工藤幸雄の流麗な訳でサラゴサが読みたい!
 


 
上の画像はホイェツキ訳・ククルスキ校訂のポーランド語版(一九五六年版)と、岩波に先を越されてふてくされているくらり。
 
 

 
何もかも嫌になってPeeters版作品集の前で死んだふりをするくらり。

リキジ……


 

 リキジン(りきマガジン)が復活するそうな。いや、なにはともあれ「コトリの宮殿」復活は嬉しい。おそらく五月の文学フリマ東京で頒布されるのではなかろうか。

『テュルリュパン』来週発売

 ツイッターの世界ではバズったら(というのはつまりアクセス数が増えたら)宣伝してもいい、という不文律があるようです。当ブログは一向にバズらないけれど宣伝はします。ということで来週あたりに久方ぶりのレオ・ペルッツ新刊『テュルリュパン ある運命の話』が出ます。皆様なにとぞお買い求めください。前にも言いましたが千円以下でペルッツの新刊が買える国は、世界でもおそらく日本だけですよ。それがいいことか悪いことかはわかりませんが。
 
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 ところでこの「ある運命の話」という副題は原本にはなく、日本独自のものです。版元の希望によってわたしがつけました。すこし迷ったあげく、少し前のマンガでいえば色素薄子さんみたいな、あるいはもっと前のオノレ・シュブラックみたいな、なるべく存在感の薄い副題にしようと思ってこのようにしました。幸いに版元の了解も得られました。

 昔から今にいたるまで名前だけの訳題は嫌われるようです。"Alex" は「その女アレックス」に、"Angie" は「悲しみのアンジー」に、"Penelope" は「おひまなペネロープ」になりました。これらはそれぞれ大ヒットを飛ばしたのですから、改題は結果的に正しかったといえましょう。

 ただホラー、というかスティーヴン・キングは例外で、「キャリー」「ミザリー」「ドロレス・クレイボーン」と名前一本で堂々と勝負しています。これはこれで大いに正しいと思います。これをたとえば「悲しみのキャリー」や「その女ミザリー」なんかにしたら何もかもぶち壊しになりましょう。

 それはなぜか、というのは当たり前のようでいて、なかなか説明は難しく感じます。「その女キャリー」とするとなんか他人事のようになってしまう、というのはあるかもしれません。あるいは名前以外には何も言わないことで想像力を刺激させるという効果もあるのかもしれません。でもそれだけではない気がします。

裏表紙の叙述トリック


 
日本では本の帯によく「〇〇氏絶讃!」などという宣伝文が書かれてある。英米のペーパーバックでそれにあたるのが裏表紙の引用文である。たとえば「驚天動地の傑作!(ニューヨークタイムズ)」とかそんな感じで書評の一部が引用されている。

しかしこれが実にクセモノなのである。もとの書評から都合のいい部分だけ切り取っているのはまあ当たり前としても、引用符があるからもとの文章そのままだと思うと、ときとしてエライ目にあう。

たとえばここにラヴクラフト/ダーレスの短篇集 "The Watchers Out Of Time" がある。その裏表紙には批評界の耆宿エドマンド・ウィルソンの書評が引用されて、「ラヴクラフトは初期のH・G・ウェルズと同質の科学的想像力を持っている」と書かれてある。


 

このエドマンド・ウィルソンという人は面白い本を何冊も書いている優れた批評家だが、ジャンル小説に偏見のある人としても知られている。ミステリ界では「誰がロジャー・アクロイドを殺そうがかまうものか」というミステリ罵倒文の著者として名高い。これがたとえばプーチンなら誰が殺してもかまわないとは思うけれど、ロジャー・アクロイドの場合はさすがにまずくはあるまいか。第一それでは法治国家の面目が立たない。

それはともかく、そういうわけで万が一にもウィルソンがラヴクラフトを褒めるわけがない。これがエドマンドでなくてコリンのほうのウィルソンならわかるんだけれど……と思って元の文章をさがしてみたところ、これは一九四五年に書かれた "Tales of the Marvellous and the Ridiculous"というエッセイの一部だった。このエッセイはClassics and Commercials という彼の四十年代時評集成に収められていて、全体としては案の定ラヴクラフトへの罵倒に終始している。問題の一節は正確に引用するならば「ラヴクラフトは初期のH・G・ウェルズよりはかなり劣るけれどある程度似た科学的想像力を持っている」
 


 
世のラヴクラフト愛好家の皆さんはこれを読んで怒ってはいけませんよ。なにしろ相手は誰がアクロイドを殺してもかまわないエドマンド・ウィルソンなんですから。
 
【追記】ウィルソンのこのエッセイは、翻訳作品集成によれば、国書刊行会から出た『真ク・リトル・リトル神話大系』第七巻に「ラヴクラフト「神話」について」という訳題で収録されているようだ(山中清子訳)。

巨大アヒルの正体


 
 
ここ最近の日記でしきりに登場する巨大アヒルは府中の古書店「夢の絵本堂」で買ったものだ。価格は三百円 (税込) だった。

「夢の絵本堂」はこのようにときどき面白いものを売っているので、府中図書館に用があって行くときには必ず立ち寄る。ただし週のうち三日くらいは定休日で、おまけに十二時から十七時までしか開いていないので、なかなかタイミングがむすかしい。またこの店は茂田井武の仕事を集成した私家本を扱っていることでも有名だと思う。

この店の上のほうの棚には早川で出たボリス・ヴィアン全集の揃いが一万円で鎮座しましてある。かなり昔からあるので気にはなっているのだが、なにぶん買っても家には置くところがない。いっそのこと誰か他の人が買ってくれたら、と思う。

ちなみにそれ以前の日記に登場していた小アヒル群は百円ショップのダイソーで売っていたもの。こちらは六匹で百円だった。

古老の昔話:イラストレーターの「あと描き」


 
今のライトノベルの巻末には、当たり前のように、作者のあと書きといっしょにイラストレーターの「あと描き」もついている。だがこれを一番最初にやった本は何だろう?

文献によればそれは菊川涼音+夢路行のコンビによる『妄想自然科学入門』であるらしい。「長門有希の100冊」の中に入っている一部で有名な本である。ただし小説ではなくてエッセイ集。一九九三年十一月にメディアワークスから出ている。著者のあとがきによれば、この試みは本邦初どころか世界初かもしれないとのことだ。
 

 
そしてこれが問題の「あと描き」。
 

 
夢路さん独特のタッチがりりしく可愛くていい。夢路行さんは熱心なファン層を持つベテランの漫画家の方で、一迅社から全二十五巻の全集も出ている。なにを隠そう不肖わたくしもファンの一人である。ギャグタッチのときはときどき睫毛が下から上に向かって生えるのが可愛いんですよ。

続・古老が語るモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ

 
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(これは昨日のツヅキです)

 モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ(以下MDS)という言葉は、高校生のころ、新潮文庫に入っていた福永武彦『加田伶太郎全集』に付された都筑道夫の解説で知ったのだったと思う。

 しかし『加田伶太郎全集』を読んだ当時の生意気な高校生は、「MDSというのはダメなものだなあ」と思った。巻頭の「完全犯罪」が燦然と輝く傑作であるのにひきかえ、後に続く諸篇が橋にも棒にもかからぬ駄作だったからだ。なにしろゼンマイ仕掛けで靴を動かすという駄トリックさえあったくらいだから(もっともこれは記憶違いで他の作家の作品と取り違えているのかもしれない)。

 なのに都筑は解説で「『完全犯罪』はまだ黄金時代の欠点を残しているが」(記憶で書いているので正確な引用ではない)「一作ごとに理想のMDSに近づいている」とか書いているのだ。これがMDSならMDSは本格推理小説の突破口なんかじゃなくて袋小路だなあと思ったのを覚えている。やはり推理小説はトリック中心主義でないとなあ……

 もっとも『加田伶太郎全集』も今読めば印象は違ってくるかもしれない。でも正直にいうと当時の印象が悪すぎて再読する気がなかなかおきない。この本は少し前に創元推理文庫から素晴らしい装幀で復刊された。この装幀ゆえに食指は大いに動いたけれど、結局買わずにすませてしまった。

 『加田伶太郎全集』と前後して『七十五羽の烏』も読んだ。この本の初版は一九七二年三月に刊行されている。つまり「黄色い~」のHMM連載とほぼ同時期に書かれたものだ。初版本の帯裏には「読者への挑戦」があって、エラリー・クイーンを意識していることがうかがえる。
 
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 これは素直に「名作だなあ」と感服した。クイーン風の推理が横溝風の舞台に自然に溶け込んでいるのがすばらしい。

 しかし、このすばらしさは、MDSを放棄したゆえに得られたものではないか(と当時は思った)。ある章のはじめに、第一の事件について「そこが本当の殺人現場とはかぎらない」とある。実際に「そこ」は本当の殺人現場ではない。犯人は殺人のあとで死体を移動させている。

 だがこの行為は、「黄色い~」で『蝶々殺人事件』をけなす都筑の言葉を借りていえば、「犯人がむだな危険をおかしているようにしか思えません」。死体を動かしたことで容疑者の範囲が狭まってしまうし、それよりなにより、死体を動かしているところを誰かに見られたら一発でアウトではないか。ましてやそのあと犯人が神社のほうにいって色々飾りつけをやるのはものすごく危険な行為で、これも誰かに見られたら一発でアウトだ。なにしろ第二の事件では、「見られた」ことが悲劇の発端になるのだから、誰かに見られる可能性は十分にあったと思う。

 この死体移動や神社の飾りつけは狭義のトリックとはいえないかもしれないが、捜査の目を他にそらそうとする犯人の細工、という意味ではトリックの範疇にはいるだろう。それによって警察ばかりか読者までをもミスディレクションに陥れるというのがその優れた点であるから、この作品は依然(MDS的には否定されるはずの)トリック中心主義で成り立っているのでは?

 それにこうした犯人の作為的な行為が作品を面白くしているのだし、またそれによって容疑者が絞られパズラーを成立させている(とくにこの死体移動のくだりは『チャイナ橙の謎』へのオマージュだろうと思う)。「MDSを放棄したゆえに名作となった」と当時思ったのはそのためだった。

古老が語るモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ

 
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 都筑道夫といえばモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ(以下MDS)論である。これを自分は高校生のときほぼ同時代的に読んで、いろいろ思うところがあった。そこでこの機会に古老の昔話をしておこう。なにしろ老耄のことゆえ、いつボケて昔のことを忘れるかもしれないから。

 まず当時の状況のおさらいからはじめよう。都筑道夫が彼のMDS論『黄色い部屋はいかに改装されたか』をHMMで連載したのは一九七〇年十月号から七一年十月号にかけてで、これが晶文社から単行本として発行されたのが七五年六月のことだ。当時は松本清張がブイブイいわしてて、海外ものも『黄色い~』で俎上にあげられた『ジャッカルの日』のような清新な作品が皆の注目を集めていた。

 つまり、皆を集めてサテという名探偵が出る推理小説はもう古いんじゃないかなあという気持ちが当時の推理小説ファンの共通認識としてあった。都筑のMDS論を理解するには、まずここを押さえておくことが大切だと思う。

 このような世間の風潮にさからって、都筑は『黄色い~』の中で、論理のアクロバットを駆使して、「古いのは名探偵ではない。トリック中心主義のほうだ」ということを論証してみせる。つまり名探偵などの形式を革袋に、トリック中心主義などの内容を中身の酒にたとえて、「古い酒を新しい革袋に盛るのではなく、古い革袋に新しい酒を盛るのが新しい推理小説(すなわちMDS)への道だ」だと説いたのだった。 

 『黄色い~』をていねいに読みさえすればそういう論理の流れはわかるはずだ。ところがここに佐野洋なる、他人にイチャモンをつけるのが好きな人がいて、この論理の流れをろくに理解せずに論争をしかけてきた。「名探偵復活を提唱いたします」という都筑の言葉尻だけをあげつらい、「革袋が古けりゃ当然中身の酒も古くなる」みたいな暴論を展開しだしたのだ。優れた作家が優れた批評家とは限らないことのこれは一例だろう。ただ当時は佐野洋のほうに分があった。(以下明日に続く)