『テュルリュパン』来週発売

 ツイッターの世界ではバズったら(というのはつまりアクセス数が増えたら)宣伝してもいい、という不文律があるようです。当ブログは一向にバズらないけれど宣伝はします。ということで来週あたりに久方ぶりのレオ・ペルッツ新刊『テュルリュパン ある運命の話』が出ます。皆様なにとぞお買い求めください。前にも言いましたが千円以下でペルッツの新刊が買える国は、世界でもおそらく日本だけですよ。それがいいことか悪いことかはわかりませんが。
 
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 ところでこの「ある運命の話」という副題は原本にはなく、日本独自のものです。版元の希望によってわたしがつけました。すこし迷ったあげく、少し前のマンガでいえば色素薄子さんみたいな、あるいはもっと前のオノレ・シュブラックみたいな、なるべく存在感の薄い副題にしようと思ってこのようにしました。幸いに版元の了解も得られました。

 昔から今にいたるまで名前だけの訳題は嫌われるようです。"Alex" は「その女アレックス」に、"Angie" は「悲しみのアンジー」に、"Penelope" は「おひまなペネロープ」になりました。これらはそれぞれ大ヒットを飛ばしたのですから、改題は結果的に正しかったといえましょう。

 ただホラー、というかスティーヴン・キングは例外で、「キャリー」「ミザリー」「ドロレス・クレイボーン」と名前一本で堂々と勝負しています。これはこれで大いに正しいと思います。これをたとえば「悲しみのキャリー」や「その女ミザリー」なんかにしたら何もかもぶち壊しになりましょう。

 それはなぜか、というのは当たり前のようでいて、なかなか説明は難しく感じます。「その女キャリー」とするとなんか他人事のようになってしまう、というのはあるかもしれません。あるいは名前以外には何も言わないことで想像力を刺激させるという効果もあるのかもしれません。でもそれだけではない気がします。