古老が語るモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ

 
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 都筑道夫といえばモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ(以下MDS)論である。これを自分は高校生のときほぼ同時代的に読んで、いろいろ思うところがあった。そこでこの機会に古老の昔話をしておこう。なにしろ老耄のことゆえ、いつボケて昔のことを忘れるかもしれないから。

 まず当時の状況のおさらいからはじめよう。都筑道夫が彼のMDS論『黄色い部屋はいかに改装されたか』をHMMで連載したのは一九七〇年十月号から七一年十月号にかけてで、これが晶文社から単行本として発行されたのが七五年六月のことだ。当時は松本清張がブイブイいわしてて、海外ものも『黄色い~』で俎上にあげられた『ジャッカルの日』のような清新な作品が皆の注目を集めていた。

 つまり、皆を集めてサテという名探偵が出る推理小説はもう古いんじゃないかなあという気持ちが当時の推理小説ファンの共通認識としてあった。都筑のMDS論を理解するには、まずここを押さえておくことが大切だと思う。

 このような世間の風潮にさからって、都筑は『黄色い~』の中で、論理のアクロバットを駆使して、「古いのは名探偵ではない。トリック中心主義のほうだ」ということを論証してみせる。つまり名探偵などの形式を革袋に、トリック中心主義などの内容を中身の酒にたとえて、「古い酒を新しい革袋に盛るのではなく、古い革袋に新しい酒を盛るのが新しい推理小説(すなわちMDS)への道だ」だと説いたのだった。 

 『黄色い~』をていねいに読みさえすればそういう論理の流れはわかるはずだ。ところがここに佐野洋なる、他人にイチャモンをつけるのが好きな人がいて、この論理の流れをろくに理解せずに論争をしかけてきた。「名探偵復活を提唱いたします」という都筑の言葉尻だけをあげつらい、「革袋が古けりゃ当然中身の酒も古くなる」みたいな暴論を展開しだしたのだ。優れた作家が優れた批評家とは限らないことのこれは一例だろう。ただ当時は佐野洋のほうに分があった。(以下明日に続く)