続・古老が語るモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ

 
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(これは昨日のツヅキです)

 モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ(以下MDS)という言葉は、高校生のころ、新潮文庫に入っていた福永武彦『加田伶太郎全集』に付された都筑道夫の解説で知ったのだったと思う。

 しかし『加田伶太郎全集』を読んだ当時の生意気な高校生は、「MDSというのはダメなものだなあ」と思った。巻頭の「完全犯罪」が燦然と輝く傑作であるのにひきかえ、後に続く諸篇が橋にも棒にもかからぬ駄作だったからだ。なにしろゼンマイ仕掛けで靴を動かすという駄トリックさえあったくらいだから(もっともこれは記憶違いで他の作家の作品と取り違えているのかもしれない)。

 なのに都筑は解説で「『完全犯罪』はまだ黄金時代の欠点を残しているが」(記憶で書いているので正確な引用ではない)「一作ごとに理想のMDSに近づいている」とか書いているのだ。これがMDSならMDSは本格推理小説の突破口なんかじゃなくて袋小路だなあと思ったのを覚えている。やはり推理小説はトリック中心主義でないとなあ……

 もっとも『加田伶太郎全集』も今読めば印象は違ってくるかもしれない。でも正直にいうと当時の印象が悪すぎて再読する気がなかなかおきない。この本は少し前に創元推理文庫から素晴らしい装幀で復刊された。この装幀ゆえに食指は大いに動いたけれど、結局買わずにすませてしまった。

 『加田伶太郎全集』と前後して『七十五羽の烏』も読んだ。この本の初版は一九七二年三月に刊行されている。つまり「黄色い~」のHMM連載とほぼ同時期に書かれたものだ。初版本の帯裏には「読者への挑戦」があって、エラリー・クイーンを意識していることがうかがえる。
 
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 これは素直に「名作だなあ」と感服した。クイーン風の推理が横溝風の舞台に自然に溶け込んでいるのがすばらしい。

 しかし、このすばらしさは、MDSを放棄したゆえに得られたものではないか(と当時は思った)。ある章のはじめに、第一の事件について「そこが本当の殺人現場とはかぎらない」とある。実際に「そこ」は本当の殺人現場ではない。犯人は殺人のあとで死体を移動させている。

 だがこの行為は、「黄色い~」で『蝶々殺人事件』をけなす都筑の言葉を借りていえば、「犯人がむだな危険をおかしているようにしか思えません」。死体を動かしたことで容疑者の範囲が狭まってしまうし、それよりなにより、死体を動かしているところを誰かに見られたら一発でアウトではないか。ましてやそのあと犯人が神社のほうにいって色々飾りつけをやるのはものすごく危険な行為で、これも誰かに見られたら一発でアウトだ。なにしろ第二の事件では、「見られた」ことが悲劇の発端になるのだから、誰かに見られる可能性は十分にあったと思う。

 この死体移動や神社の飾りつけは狭義のトリックとはいえないかもしれないが、捜査の目を他にそらそうとする犯人の細工、という意味ではトリックの範疇にはいるだろう。それによって警察ばかりか読者までをもミスディレクションに陥れるというのがその優れた点であるから、この作品は依然(MDS的には否定されるはずの)トリック中心主義で成り立っているのでは?

 それにこうした犯人の作為的な行為が作品を面白くしているのだし、またそれによって容疑者が絞られパズラーを成立させている(とくにこの死体移動のくだりは『チャイナ橙の謎』へのオマージュだろうと思う)。「MDSを放棄したゆえに名作となった」と当時思ったのはそのためだった。