現代科学で解明できない念波

『あくび猫』には不幸の手紙のことばかり書いてあるわけではない。「本は積んでおくだけで勉強になる」とも書いてある。


 
 
この怪現象の説明として、積んだ本からは現代科学では解明できない念波が出ていて、それを受信することで脳細胞が活性化されるのだと一般に言われている。読まない本も買わせようとする出版社の陰謀から生まれた説のような気もしないでもないが、あながちそうでもないらしい。

現代科学では解明できないというのだから、これはおそらく西洋医学に対する東洋医学のようなものなのだろう。鍼や灸の原理が西洋医学では解明できないからといって、ただちに鍼や灸が無効であるとはいえないようなものだ。

たとえば盲目なのに身辺に多量の本を置いていたボルヘスは最晩年(85歳!)にいたっても知力が衰えていない。逆に荷風は偏奇館から焼け出されてアパート住まいになるととたんに冴えなくなり、誰だったかに「敗荷落日」と罵倒されるという事態も生じている(ひどいですよね敗荷落日なんて。自分はこの件については断固荷風の味方である。お前もいっぺん焼け出されてみろと言いたい)。それはともかく、かくの如くこの念波説には相当な事実の裏付けがある。

現に自分も周りにたくさん本がないと何も書けない。まあ翻訳なら辞書だけあればできるかもしれないが、その翻訳の解説を書くとなると本なしにはまったく無理である。といっても身辺の本を読むわけではない。存在するだけでよいのである。念波受信説を支持するゆえんである。

さらに一日たつと

 
 さらに一日たつと、倦怠感はなくなり、熱も平熱に戻り、筋肉痛も触れば痛い程度まで和らいできた。すると現金なもので、なんとなくあと20年は生きられそうな気がしてきた。ということは、運がよければレムコレクション第二期の完結をこの目で見られるかもしれない。まことにめでたいことである。

 ところで南條竹則氏の『あくび猫』という本によれば、特に名を秘す某社では、入稿の遅い翻訳者に不幸の手紙というのを送って呪い殺しているらしい。恐ろしいではないか。
 

「過去何人も訳者を殺してるって噂だから」

 
 でもこの文明開化の世の中にまさかそんなことが。きっとフィクションに違いない、と思って、念のため某社に「あのうこんなことが書いてあるんですが……」と恐る恐る問い合わせてみたら、「あそこに書かれていることはすべて事実です」と回答が返ってきた。何ということであろう。ああそういえばあの人もこの人も、最後の訳書はここから出ていた……

 しかしおそらくは不幸の手紙を何十通も送り付けられているに違いない〇ャ〇・プ〇〇〇キー『大〇〇』とかマ〇ー・ボ〇〇〇〇『エ〇〇ー・〇ー』の訳者の方々はいまだご健在のようだ。きっと鋼鉄のような神経をお持ちなのだろう。

 まあでもSF担当スタッフは何しろSFだからサイエンスで未来であるにちがいない。呪殺なんて野蛮で前近代的なことはきっとやらないだろう。刊行が少々遅れても仕方ないのかもしれない。

科学技術大全

 拙豚の住むC市では先般60歳から64歳の者にもワクチン接種券が送付された。幸い予約も取れたのでさっそく昨日第一回目を打ちにいった。ファイザーである。

 副反応が出ると聞いていたが昨日の段階では何もなかった。だまされて実は食塩水か何かだったのかと思うくらいに。ところが今朝になると、体がだるくて起きられない。いつもは6時ごろ起きるのが今日は9時過ぎにやっと起き上がった。肩も筋肉痛で痛む。それでも熱がないのは何よりと思っていたら、昼過ぎになって37.0度くらい出てきた。微熱といえば微熱である。でもこれからどうなるのであろうか。

 正直にいうと、もし今40歳くらいだったならワクチンを打つかどうかわからない。しかし高齢だとそれなりのコロナのリスクもあるし、仮にワクチンの副作用で障害が残ったとしても、どうせ老い先短い身なので、それはそれで仕方ないかなという気持ちもある。

 老い先短いといえば、「スタニスワフ・レム・コレクション」第2期の刊行が宣言された。これはめでたい!
 
 しかしあえて言おう。担当が沼野充義氏と国書T氏のゴールデンコンビだとすると、拙豚が生きているうちに全6巻が完結することはないだろう。このカシオミニを賭けてもいい。
 
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このカシオミニを賭けてもいい!

 あと例の『科学技術大全』は入るんだろうか。もし拙豚に翻訳させてくれるのなら一年くらいで仕上げられると思うのだけど~ もちろんポーランド語は全然できないので独訳と英訳からの重訳になるけれど。

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独訳と英訳

神崎繁旧蔵書

 数年前惜しまれながら早すぎる死を迎えた神崎繁の旧蔵書がヤフオクにどちゃっと出るという噂を聞いて及ばずながら参戦した。

 当日はあんのじょう壮絶な争奪戦が繰り広げられたのだが、拙豚はあんまり目立たない一山ものに的を絞り、おかげで「51冊一括」というのと「76冊一括」というのと「38冊一括」というのを落札できた。落札価格は合計で18,588円であった。一冊あたりにすると113円くらいになる。
 
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 ほとんど福袋みたいなもので、中身が何かもろくに知らずに入札したのだが、あとで調べてみるとクルト・パウル・ヤンツのニーチェ伝三巻本が混じっていたのでちょっと嬉しかった。『ニーチェ どうして同情してはいけないのか』の冒頭近くで引用されていた本である。

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おまけに引用されていた箇所に紙が挟まっていたのでますます嬉しくなった。といっても共感してくれる人はあまりいないだろうけど。

 ところでこういうことを日記に書くと、「そんなに買って読む時間はあるのか」とか「本当に全部読むのか」とたずねる人がいる。これは天下の大愚問といっていい。なぜか。

 なぜかというと、拙豚くらいの年寄りになると、何を読んでも、読んだとたんにたちまち忘れてしまう。だから読んでも読まなくても同じなのである。C.L.ムーア描くところのシャンブロウは「アカルイ、クライ、アタシニハオナジ」と言うが、拙豚の場合は「ヨンダ、ヨマナイ、アタシニハオナジ」なのである。

 どちらも結局同じなのならば、読んだか読まないかを問うことにどれだけの意味があるだろう。言うまでもなく、まったく何の意味もない。大愚問たるゆえんである。

 「読んでも読まなくても積読」これがわが座右の銘なのである。

発売即重版!

『裏切りの塔』(創元推理文庫)の重版が決定したそうです。実にめでたい! なぜわたしが知っているかというと、畏れ多くもこの本の解説を書いているからなのですよ。
 
 
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 これが出たのが先月末だから、二週間足らずで重版が決定したことになります。かなり猛烈な勢いで売れているようです。これはきっとチェスタトンの人気がいまだ根強いということなのでしょう。この勢いに乗って他のチェスタトン作品も南條訳で出してくれれば非常にありがたいのですが。

訳詩ことはじめ

 何の因果か訳詩を大量にするはめになった。長く生きているといろいろ珍しい経験をするものである。

 まず思い知ったのは訳詩というのは不可能な企てだということだ。意味だけ訳しても何にもならない。古代ギリシアである哲学者が「人間とは二本足の羽のない生き物である」と言ったら、別の哲学者が「ではこれが人間なのか」と毛をむしったニワトリを持ってきたということだ。「意味だけ訳した訳詩」というのはこの毛をむしったニワトリを思わせるところがある。これが人間ですって言われてもねえ……足が二本だからいいってもんじゃないでしょ…………とか言いたくなるではないか。

 まあそりゃ世の中には、齋藤磯雄の『近代フランス詩集』みたいな驚嘆すべき偉業があることはあるのだけれど、結果だけ見せられても、「どうすればこんなふうにできるのか」というのがまったくわからない。

 そこでいろいろ試行錯誤したあげく、「こうすればうまくはできないかもしれないけれど、ものすごくひどい失敗はしない」という我流の手を編みだした。それを心覚えに書いておこう。

 どういう手かというと、まずリズムトラックを作るのである。音楽を多重録音するときには、まずベースとドラムスだけのトラックを作って、その上にギターとかキーボードとかを乗せていくのだが、このリズムトラックを、訳詩をするときにもまず作る。

 といっても作るのはリズムみたいなはっきりしたものではなくて、原詩を穴があくほど睨んで、緩急の具合とか、ある行から次の行への移り具合などをよく呑み込む。この段階では詩の意味はあまり考えない。これが自然に体が染みこんだと感じられたときが、すなわちリズムトラックができたときである。運がいいときはこの段階で「もしかするとこの人はホイットマンの影響を受けているのではないか」とか、そういう訳詩上のヒントまでつかめる。

 その上で、リズムトラックにリード楽器を乗せるみたいにして、訳語を乗せていく。その訳語にしても厳密な意味よりはむしろ文字数とか響きの方を重視し、音がリズムトラックから外れないようにする。

 文才がある人がこれを読んだら、おそらく「何かまだるっこしいことをやってやがるな」みたいな感じを受けると思う。しかし才能とは各自与えられたものをスタート地点にするしかない。他をうらやんでもしかたない。「うすいがらすも磨いて待たう」と斎藤史も歌っているではないか。

ストルルソンの怪

 ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を読んだ人なら、冒頭近くに「スノッリ・ストルルソン」という「十二世紀アイスランドの有名な著者」の名が出てくるのを覚えておられるかもしれない。ところが岩波の世界人名大事典には、この名が「スノッリ・ストゥルトルソン」として出てくるのだ。
 
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 これを見たときは、てっきり誤植に違いないと思った。だってそうでしょう。 "Sturluson" の綴りで「ストゥルトルソン」と読ませるのは無理がありすぎるし、林達夫が監修していたという平凡社の百科事典にも「ストゥルルソン」として載っているのだから。
 
 しかしある方が大使館に問い合わせたら「『スツットルソン』が正しい」という答が返ってきたそうだ。ここに来て俄然事態は昏迷を深めてきた。調べるたびに違う答が返ってくるのだからかなわない。ふと思いたって『ニューエクスプレス+ アイスランド語』を開いてみたら、こんなことが書いてあった。
 
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 「[ト]の子音が挿入されて "r" の音が脱落する」のだから、大使館の人が言った「スツットルソン」が一番正しいことになる。さすが大使館である。

 それにしても "snjór" と書いて「ストニョウール」と読ませるとは。これは英語の "snow" にあたる語だが、なぜ「ストニョウール」なんて中二病のような発音をするのか。「ストニョウールが降る……あなたは来ない……ストニョウールが降る……いくら呼んでも……白いストニョウールが……ただ降るばかり……」

ボーイ・ミーツ・タネムラ!

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 澁澤龍彦に女性ファンが群れをなしているのに比べると、種村季弘には、池田香代子氏などの貴重な例外をのぞいては、野郎どもばかり群がっているような印象がある。

 なぜだろう? やはりペニスケースをつけて踊ったり、湯上りのセミヌード写真を著者近影に用いなければ女性の人気は得られないのだろうか。それとも女性の目で見ると顔の造作とか体型に顕著な差があるのだろうか。女性ならぬ身にはどうもよくわからない。

 それはともかく、今週末くらいに発売される『幻想と怪奇』第6号には、その種村の未発表翻訳が掲載される。それに乗じて、不肖わたくしも、日頃蓄積していた種村愛を一気に炸裂させて40ページあまりの小アンソロジーを編んでみた。
 
 
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 ここ ↑ に書いてあるとおり、目標としたのは、筑摩書房でむかし全十二巻で出た『澁澤龍彦文学館』である。これの種村版などはそれこそ夢のまた夢であろうから、せめてそのカケラなりとも実現できればと考えて作ってみたものだ。ぜひ読んでいただければと思う。

本邦退屈派

 調べもののためF図書館に行ったついでに問題の『死火山系』を借りてきた。
 

 
 この図書館はこの手の本を廃棄処分もせずにわりと残してあるので頼もしい。何年か前に北村薫氏が講演に来ていたので、中の人がミステリ好きなのかもしれない。緊急事態宣言の中にあっても一日たりとも閉館しなかった根性の座った図書館でもある。

 さてこの『死火山系』なのだが、事件の構図自体は面白い。浅間山に登った二人の男が時ならぬ噴火に巻き込まれる。一人は重傷を負った姿で発見されたが、もう一人は行方不明のままで捜索が打ち切られる。おそらく火山灰の下に埋もれたのだろうと推定されたのだ。ところがやがて、助かった方の首吊り死体が発見される。そしてどうやら十年前に発見された白骨死体がからんでいるらしい……

 冒頭80ページくらい読んだらそんな話だった。火山の噴火は誰にも予測できないから、これは計画犯罪ではありえない。すると……と一応は興味をそそられるけれど、語りがなんとものんびりとしていて、サスペンスがぜんぜん盛り上がらない。それが読んでいてつらい。英国退屈派といえどもここまで退屈ではなかったような気がする。

 話は少し変わってRe-Clamの松坂健氏の都筑道夫講義録を読んで思ったこと二つ。

1.鮎川の『死者を笞打て』に出てきた辛辣な批評家のモデルは田中潤司だったのだろうか? 『死者を笞打て』に出てくる批評家の名は「多田慎吾」。なんとなく「田中潤司」と似ているではないか。
2.バウチャーの批評を「褒めるばかりであてにならない」と言ったのは植草甚一だったような気がする。すると都筑道夫は植草甚一の批評眼を全然買っていなかったのか(まあありそうな話だが)

恐怖の到来

 『恐怖 アーサー・マッケン傑作選』を贈っていただきました。どうもありがとうございます。
 

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 さっそくぱらぱらとめくってみると、のっけから

「よく来られたね、クラーク。ほんとによかった。じつは、時間のつごうがつくかどうか、心配してたんだが。」
「仕事は、四、五日分、まとめてかたづけて来た。いまたいして忙しくないんだ。ところでレイモンド、ほんとに心配ないのかね? ぜったいにだいじょうぶなのか?」

 
 といった平井調の会話にひきこまれてしまう。いや、今書き写していて気づいたのだけれども、こんなふうなリズムとテンポをもった言葉のやりとりは、都筑道夫の登場人物が交わしてもおかしくない。するとこれが江戸前というものなのか。違うかもしれないけれど、「悠揚迫らざる」という言葉をちょっと使いたくなるではないか。そしてこのまま恐ろしい世界になだれこんでいくのだからこたえられない。もしかすると平井呈一訳でマッケンを読めるわれわれはイギリスの人たちよりラッキーなのかもしれない。ちょうどフランスの人がボードレール訳でポーを読めるように。