訳詩ことはじめ

 何の因果か訳詩を大量にするはめになった。長く生きているといろいろ珍しい経験をするものである。

 まず思い知ったのは訳詩というのは不可能な企てだということだ。意味だけ訳しても何にもならない。古代ギリシアである哲学者が「人間とは二本足の羽のない生き物である」と言ったら、別の哲学者が「ではこれが人間なのか」と毛をむしったニワトリを持ってきたということだ。「意味だけ訳した訳詩」というのはこの毛をむしったニワトリを思わせるところがある。これが人間ですって言われてもねえ……足が二本だからいいってもんじゃないでしょ…………とか言いたくなるではないか。

 まあそりゃ世の中には、齋藤磯雄の『近代フランス詩集』みたいな驚嘆すべき偉業があることはあるのだけれど、結果だけ見せられても、「どうすればこんなふうにできるのか」というのがまったくわからない。

 そこでいろいろ試行錯誤したあげく、「こうすればうまくはできないかもしれないけれど、ものすごくひどい失敗はしない」という我流の手を編みだした。それを心覚えに書いておこう。

 どういう手かというと、まずリズムトラックを作るのである。音楽を多重録音するときには、まずベースとドラムスだけのトラックを作って、その上にギターとかキーボードとかを乗せていくのだが、このリズムトラックを、訳詩をするときにもまず作る。

 といっても作るのはリズムみたいなはっきりしたものではなくて、原詩を穴があくほど睨んで、緩急の具合とか、ある行から次の行への移り具合などをよく呑み込む。この段階では詩の意味はあまり考えない。これが自然に体が染みこんだと感じられたときが、すなわちリズムトラックができたときである。運がいいときはこの段階で「もしかするとこの人はホイットマンの影響を受けているのではないか」とか、そういう訳詩上のヒントまでつかめる。

 その上で、リズムトラックにリード楽器を乗せるみたいにして、訳語を乗せていく。その訳語にしても厳密な意味よりはむしろ文字数とか響きの方を重視し、音がリズムトラックから外れないようにする。

 文才がある人がこれを読んだら、おそらく「何かまだるっこしいことをやってやがるな」みたいな感じを受けると思う。しかし才能とは各自与えられたものをスタート地点にするしかない。他をうらやんでもしかたない。「うすいがらすも磨いて待たう」と斎藤史も歌っているではないか。