本邦退屈派

 調べもののためF図書館に行ったついでに問題の『死火山系』を借りてきた。
 

 
 この図書館はこの手の本を廃棄処分もせずにわりと残してあるので頼もしい。何年か前に北村薫氏が講演に来ていたので、中の人がミステリ好きなのかもしれない。緊急事態宣言の中にあっても一日たりとも閉館しなかった根性の座った図書館でもある。

 さてこの『死火山系』なのだが、事件の構図自体は面白い。浅間山に登った二人の男が時ならぬ噴火に巻き込まれる。一人は重傷を負った姿で発見されたが、もう一人は行方不明のままで捜索が打ち切られる。おそらく火山灰の下に埋もれたのだろうと推定されたのだ。ところがやがて、助かった方の首吊り死体が発見される。そしてどうやら十年前に発見された白骨死体がからんでいるらしい……

 冒頭80ページくらい読んだらそんな話だった。火山の噴火は誰にも予測できないから、これは計画犯罪ではありえない。すると……と一応は興味をそそられるけれど、語りがなんとものんびりとしていて、サスペンスがぜんぜん盛り上がらない。それが読んでいてつらい。英国退屈派といえどもここまで退屈ではなかったような気がする。

 話は少し変わってRe-Clamの松坂健氏の都筑道夫講義録を読んで思ったこと二つ。

1.鮎川の『死者を笞打て』に出てきた辛辣な批評家のモデルは田中潤司だったのだろうか? 『死者を笞打て』に出てくる批評家の名は「多田慎吾」。なんとなく「田中潤司」と似ているではないか。
2.バウチャーの批評を「褒めるばかりであてにならない」と言ったのは植草甚一だったような気がする。すると都筑道夫は植草甚一の批評眼を全然買っていなかったのか(まあありそうな話だが)

恐怖の到来

 『恐怖 アーサー・マッケン傑作選』を贈っていただきました。どうもありがとうございます。
 

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 さっそくぱらぱらとめくってみると、のっけから

「よく来られたね、クラーク。ほんとによかった。じつは、時間のつごうがつくかどうか、心配してたんだが。」
「仕事は、四、五日分、まとめてかたづけて来た。いまたいして忙しくないんだ。ところでレイモンド、ほんとに心配ないのかね? ぜったいにだいじょうぶなのか?」

 
 といった平井調の会話にひきこまれてしまう。いや、今書き写していて気づいたのだけれども、こんなふうなリズムとテンポをもった言葉のやりとりは、都筑道夫の登場人物が交わしてもおかしくない。するとこれが江戸前というものなのか。違うかもしれないけれど、「悠揚迫らざる」という言葉をちょっと使いたくなるではないか。そしてこのまま恐ろしい世界になだれこんでいくのだからこたえられない。もしかすると平井呈一訳でマッケンを読めるわれわれはイギリスの人たちよりラッキーなのかもしれない。ちょうどフランスの人がボードレール訳でポーを読めるように。

悪魔はここに

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 Re-Clam第六号が到着した。発行者三門優祐氏のエディトリアル・ワークはますます冴えわたり、隅々まで読んで楽しい雑誌になっている。これほどマニアックでありながら、同人誌特有の閉塞感を感じさせず、「ミステリっていいもんだな」と素直に思わせるのは、氏の人脈と人徳のたまものかもしれない。言うては何だが、商業誌でも、ここまで面白い雑誌はそうそうあるものではない。

 なかでも一番面白かったのは新保博久氏の「死火山に鞭打つ」だった。これはすぐ前にある松坂健氏の記事の註解あるいは補足として書かれたものだが、単にそんなもので終わるはずもなくて、例によって教授の独擅場である博引傍証がくりひろげられる。水上勉が推理小説として発表した「死火山系」を取りあげて、これでもかこれでもかとばかりに詮索のかぎりをつくしているのだ。「誰にだって失敗作はあるんだから、何もそこまで言わんでいいのに」と水上勉が可哀相になってくるくらいに、教授の弾劾は苛斂誅求をきわめる。だが読み物としては抜群に面白い。

 この本が新刊で出た時には田中潤司も通常の倍の紙数を費やして叩いていたという。よほどミステリ愛好家の逆鱗に触れるものがあるのだろう。だが「発酵人間」なんかと同じで、ここまでけなされると逆に読みたくなってくるのが人情というものだ。今は古書店で高値がついているそうだが再刊を強く希望したい。もちろんシンポ教授の解説つきで。

 同時に『シンポ教授の生活とミステリー』の続編も出ないものだろうか。『シンポ教授の詮索とイチャモン』とかそんな感じのタイトルで。もし出たら谷沢永一の『紙つぶて』のミステリー版みたいなすごい本になると思う。松坂健氏の記事 (都筑道夫の講演録) によれば、「バーナビー・ラッジ」の問題点をびしびし指摘して結末まで見破ったポーをディケンズは「悪魔のような男だ」と言ったそうだが、悪魔はここにも……
 

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この悪魔のスマイルを見よ! 中井英夫も大憤激!

上げ底のヨナス・リー

 ヤフオクに出品されているディスプレイ用洋書を見るのが楽しい。もともと本の背表紙を読んでるだけでハッピーになる性格ではあるのだが、ニ十冊千円程度の束の中に貴重な本が混じっているとますます嬉しくなる。

 もっとも同好の士は多いとみえて、そんな束は終了直前にどんどん値上がりする。だからとても落札はできないのだけれど、値段が上がっていくのを見るだけで楽しい。もはや病膏肓の域に入ったのだろうか。

 そんなオークションの一つに「ヨナス・リー全集7冊」というのがあった。オークションは昨日終了したが、今も画面自体は残っている。10,640円で落札されたようだ。

 しかし! 画像をよく見ると、この7冊のうち4冊はヨナス・リーではなくビョルンスティエルネ・ビョルンソン全集の端本ではないか。ヨナス・リー全集と名うちながら、全体の半分以上は違う作家の本なのである。

 これを一万円ちょっとで落札した人は今ごろ爆裂しているかもしれない。だが、わたしに言わせると、これは怒るほうが間違っているのである。こういうこともあるのがヤフオクの楽しさだと思う。

尻の火は消えず

12日に文庫解説を送稿し、14日に雑誌小特集のゲラを戻したので、あとは短篇をひとつ訳せば今月の締め切りはオールクリアである。それが終われば夏の終わりまでに長篇をひとつ訳して、漠然としたプランを固めて、それからもうひとつ別の訳書の注と解説があるだけ。これくらいで忙しいと言ってたら世間が笑うだろうけれど、拙豚史上では過去最大の忙しさである。

特に最後のがクセモノというか、這い寄る混沌というか、彼方から不幸の手紙が来そうな成り行きなのである。不幸の手紙を出す者はそのうち自分が不幸の手紙を受け取るという。巡る巡るよ因果は巡る~ 悲しみ喜びくりかえ~し~


ところで今ちょっと調べてみて驚いたのですが、メイ・シンクレアの『胸の火は消えず』が出たのってもう7年も昔の話なんですね。そろそろ復刊フェアでまた出してもいいのではないでしょうか。桜庭一樹さんがどこかで「念写したみたいな文章」と言ってましたがまさに言い得て妙。この独特の心霊的な味わいは他に類を見ません。

版元の内容紹介には「不毛な愛の果てに、永遠に続く情欲の地獄に堕ちた女性の絶望を描く」とか書いてありますが、これはある種の読者を惹きつけようとした叙述トリックのような気がします。まあウソではないにしても、そこから想像されるようなハーレクイン的な作品では全然ないのですよ。
 
【追記】
桜庭さんの評言はツイッターの中にありました。
ところで「胸の火は消えず」、全編書いたというより念写した感があってじつにオソロシイです」(2014年3月9日)

至言!

八十歳からの外国語

 「ことばのたび社」というところがチェコ語の講座を始めたらしい。価格も手ごろだ。ちょっと心が動くではないか。だが己の記憶力にいまひとつ自信が持てずなかなか踏み切れない。

 そういうとき思い出すのはボルヘスである。ボルヘスが日本語を習い始めたのは八十歳をすぎてからだ。その後あるインタビューでこんなことを言っている。
 
 たとえば「イチ」は一です。しかしこの「イチ」は数学的操作だけに使い、「一分」と言うときには「イチ」と言わず「イップン」と言います。「ニ」は二ですから、「二分」は「ニフン」です。そして「三分」だと最初の「プン」に戻って「サンプン」になります。四ではそれが繰り返されますが、ただし物を数えるときは「ヨン」でそれ以外は「シ」と言います。「五分」ではまた変わって「ゴフン」になります。つまり複数形が数によって違い、物によって数え方が違うのです。
 
 八十歳を超えて習得した言語について、何も見ずに(というか盲目だからそもそも見えないのだが)これだけのことをスラスラと言ってのけられるのがすごいではないか。まさに「記憶の人」の名に恥じない。

 そして没後しばらくして、日系二世の夫人と共訳のかたちで『枕草子』のスペイン語訳が出た。
 
 
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 日本語については先の発言に続けてこうも言っている。

 何もかもがわたしに、日本語を学ぶことは終わりのない冒険への参画だということを教えてくれました。古英語を学んだときにも似たことを感じました。「知り尽くすことはないだろうが、果てのない冒険ということがまさに魅力だ」つまりこの冒険は失敗を運命づけられていて、つまりはミルトンのサタンと同じです。サタンは敵が全能者なのを知っていて、それが戦いを悲愴にします。敗北を宣告されるからですが、あらかじめそれがわかっているときは、ますます悲愴になります。そんなふうに日本語の勉強は続けようと思っています。
 
 失敗を運命づけられている冒険……うーん……

トコという男

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 平井訳アーサー・マッケン傑作選の創元推理文庫化にわきかえるホラー界であるが、それにちなんで平井ネタをもう一つ。

 山川方夫が死の直前までEQMMに連載していた「トコという男」は、一見軽妙な談話風エッセイでありながら、搦め手から攻めた推理小説論であり、しかも最後まで読むと一種の恐怖小説にもなっているという、いかにも山川方夫らしい凝った作品(とあえて言いたい)である。現在は創元推理文庫の『親しい友人たち』で読めると思う(現物が手元にないので未確認)。

 これを久しぶりにパラパラとめくっていてアッと驚く一行に出会った。この一行は以前はなぜか見過ごしていた。
 
 
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「恐怖文学セミナーの『ザ・ホラー』も購読している」……えっ今なんとおっしゃいましたか?

 今さら言うのもあれだが、"THE HORROR" といえば、平井呈一監修のもとで紀田順一郎・桂千穂・大伴昌司など錚々たる顔ぶれがそろったあの伝説の同人誌ではないか。この同人誌はごく熱狂的な愛好家だけのものかと思っていたら、わりと広範囲に読まれていたのだなと認識を新たにした次第。

 いやもしかしたら山川方夫自身が熱狂的な愛好家だったのか。いずれにせよ、当時は全然売れずにゾッキ本が山と積まれていたという噂の「世界恐怖小説全集」を全巻買って愛読しているというのはタダモノではない。

旱魃世界

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 J.G.バラード『燃える世界』が『旱魃世界』というタイトルで山田和子氏の新訳で出た。なんと嬉しいことであろう。しかも今回はイギリス版のテキストが元になっていて、旧訳とは底本の段階で相当に異なる。

 わたしは山田氏の「ついてこれない人は無理についてこなくていいのよ」みたいな愛想のない訳文が大好きだ。アンナ・カヴァンとかこのバラードとかの硬質な文章に氏の訳文はことさら似合うように思う。

 だってタイトルからしてそうではないか。『燃える世界』が嫌なら『乾いた世界』とか『干からびた世界』あたりにしておけばいいものを『旱魃世界』ときたもんだ(本当はただ『旱魃』とだけしたかったのかもしれない)。わたしならどうするだろう。『干物世界』とか? ともあれ編集された方から恵贈していただき、さっそく一読し堪能した。ありがとうございました。
 


 
 むかし早稲田の五十嵐書店がまだ明治通りのそばにあった頃、NW-SF社の廃棄本がどどどっと出たことがある。もちろん狂喜乱舞して死ぬほど買いまくった。中にはNW-SF社の印とともに山田氏の蔵書印のあるものもあった(もちろん同姓の別人の方の印かもしれないが)。

 ディレーニ―とマリリン・ハッカーによる伝説のアンソロジー ”Quark #1” では、山田氏の蔵書印の上からNW-SF社の社印が捺され、さらに上のほうに新たに山田氏の印が捺されている。もしかすると壮絶な争奪戦があったのかもしれない。

 
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 こちらはやはりNW-SF社放出本で、ついにサンリオでは出なかった ハリスン&オールディス共編"Year's Best SF No.3" の目次ページ。訳者の割り振りらしきものが鉛筆で記されている。おおそういえば「殺戮の台地」も名訳だった! 今は東京創元社の『バラード短篇全集4』で読めます。
 
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単に掌の上で

たまには宣伝を。

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 今月末に出る『ナイトランド・クォータリー vol.24』にアルヴィン・グリーンバーグ「ホルヘ・ルイス・ボルヘスによる『フランツ・カフカ』」が拙訳で載ります。この短篇はむかしむかしハリー・ハリスン、ブライアン・W・オールディス共編の年間SF傑作選 "Best SF 1970" で読んで以来、どこかに訳載できないかと虎視タンタンと期をうかがっていたものですが、岡和田晃さんのご厚意でNLQに載せてもらえることになりました。岡和田さんありがとうございます。

 ところが訳出を進めている最中、なんの気なしにツイッター検索をしてみたら、過去に訳出されていたことが判明! それも風間賢二氏の手で。氏の2011年7月9日のツイートにはこうある。
  
 
アルヴィン・グリーンバーグ。わが国ではもちろん、本国アメリカでもまったく知られていない作家・詩人。ある意味、ボルヘスよりもボルヘス的なこの作家の作品に「ボルヘス作「フランツ・カフカ」」がある。言語と物語と世界をめぐるメタフィクション。「ハードデイズナイト」(92年7月号に訳出)。
 
 
 このツイートに酉島伝法氏が2011年7月9日7月19日のツイートで熱い反応を見せておられる。さっそく「ハードデイズナイト」のバックナンバーを確認しに大宅文庫に走ったのは言うまでもない。「おお、これはすごい短篇を見つけた!」とひとり喜んでいたら単に風間氏の掌の上で踊っていたにすぎなかったのであった。

空がとっても低い

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 「鏡に棲む男」に続いて「火星植物園」が "Nouvelles du Japon" に掲載された。このサイトには他に太宰治の「走れメロス」や野坂昭如の「戦争童話集」も訳載されている。訳者たちが真に共感する作品を選りすぐって掲載しているのがうかがえる好サイトだと思う。

 そのうえで、実に恐縮なのだけれど、この「火星植物園」の訳について無粋ながら二点だけ言わせてほしい。まず第一文であるが、この仏文は直訳すると「灰色の空の中で、雲はぶら下がっている魚の尾のように見えた」となる。原文はご存知のとおり「灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた」。

 天が垂れるのはおかしいというフランス風の良識が働いて仏訳はパラフレーズした表現になったのかもしれない。でもこれではだいなしである。ここは原文のダリの絵のような超現実的なイメージを活かして直訳してほしかった。そもそもこれら二文からはまったく違った情景が浮かんでくる。前者(仏訳)だと魚の尻尾みたいな変な形の雲が空に浮かんでいるように思えるではないか。あと後者(原文)だとおそらく語り手の視線は地平線にあるが、前者では上にある空を見上げている感じである。

 この「灰いろの曇天……」は『幻想博物館』(あるいは『とらんぷ譚』)全篇の開幕にふさわしい一文で、この一文に目を射られて中井信者になった者も多いと思う(かくいうわたしもその一人である)。

 もっと言うとこの冒頭の一文には、「あのねえ君、今から始まるのはね、そんじょそこらの小説と同じと思ってもらっちゃ困るよ」という作者の無言のメッセージがこめられている。口はばったい言い方になってしまうが、このメッセージを受け取れぬ者は中井のよい読者とはいえまい。

 それから第二点として、この短篇には、すでにお読みになった方ならご存知のように、一種の叙述トリックが使われていて、手記がどこで終わるかを故意に錯覚させるように書かれている。ところが仏訳では手記の部分をわざわざ一段下げにして誤解の余地のないようにしている。これは小さな親切大きなお世話というものだ。

 ついいろいろ言ってしまったけれど、中井ファンの一人として今回の仏訳はとてもうれしい。異文化の受容はまずは何重もの誤解からはじまるのが常である。中井英夫のような一癖も二癖もある(しかも日本でも十分理解されているとはかぎらない!)作家の場合はなおさらであろう。