八十歳からの外国語

 「ことばのたび社」というところがチェコ語の講座を始めたらしい。価格も手ごろだ。ちょっと心が動くではないか。だが己の記憶力にいまひとつ自信が持てずなかなか踏み切れない。

 そういうとき思い出すのはボルヘスである。ボルヘスが日本語を習い始めたのは八十歳をすぎてからだ。その後あるインタビューでこんなことを言っている。
 
 たとえば「イチ」は一です。しかしこの「イチ」は数学的操作だけに使い、「一分」と言うときには「イチ」と言わず「イップン」と言います。「ニ」は二ですから、「二分」は「ニフン」です。そして「三分」だと最初の「プン」に戻って「サンプン」になります。四ではそれが繰り返されますが、ただし物を数えるときは「ヨン」でそれ以外は「シ」と言います。「五分」ではまた変わって「ゴフン」になります。つまり複数形が数によって違い、物によって数え方が違うのです。
 
 八十歳を超えて習得した言語について、何も見ずに(というか盲目だからそもそも見えないのだが)これだけのことをスラスラと言ってのけられるのがすごいではないか。まさに「記憶の人」の名に恥じない。

 そして没後しばらくして、日系二世の夫人と共訳のかたちで『枕草子』のスペイン語訳が出た。
 
 
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 日本語については先の発言に続けてこうも言っている。

 何もかもがわたしに、日本語を学ぶことは終わりのない冒険への参画だということを教えてくれました。古英語を学んだときにも似たことを感じました。「知り尽くすことはないだろうが、果てのない冒険ということがまさに魅力だ」つまりこの冒険は失敗を運命づけられていて、つまりはミルトンのサタンと同じです。サタンは敵が全能者なのを知っていて、それが戦いを悲愴にします。敗北を宣告されるからですが、あらかじめそれがわかっているときは、ますます悲愴になります。そんなふうに日本語の勉強は続けようと思っています。
 
 失敗を運命づけられている冒険……うーん……