水平線の男

何を隠そう、拙豚は還暦をとうに越えた爺である。いかに爺かというと、こんな ↓ 本が新刊書店で買えたほどの爺なのである。



これを買ったのは岡山の細謹舎という書店だ。今はもう跡形もないけれど、半世紀前は(丸善や紀伊国屋なんかのチェーン店を除けば)県内で最大の本屋だったように思う。ただし田舎の書店にまま見られるように在庫管理は甘々で、すでに返品不能の古い本も平気でずらずら棚に並んでいた。そこでこの本も手に入ったわけだ。ありがとう細謹舎!

扉の作品紹介にはこんな ↓こと が書いてある。期待はいやが上にも高まる。中学生のときは「十年に一度」うんぬんより「教授の周辺にむらがる多数の女子学生」に期待したような気がする。今でいえばAKB48みたいな感じで女子学生が出てくるのではないかと思ったのだ。



しかしいざ読みはじめるとあまり面白くない。女子学生も多数というほどは登場しない。そんなわけで途中で投げ出したまま、半世紀近くの年月が過ぎ去った。

今回コロナによる自宅引き籠りを奇貨として、改めて半世紀ぶりにチャレンジしてみた。が、やっぱり面白くない。心理サスペンス的な作風なのにサスペンスが一向に盛り上がらないのが困る。なぜこんなに盛り上がらないのか?と不思議に思ううちに、やがて思いあたった。ここには警察が全然出てこない。明らかに殺人事件が起きたというのに。

刑事というのは山椒のようなもので、小粒でもピリリと辛い。たとえ推理能力がゼロであっても、あちこちに出没して嗅ぎまわると、雰囲気は引き締まり、いかにも非常事態!という感じになってくる。ところがここで事件を嗅ぎまわるのは青年記者一人で、しかも事件より恋人とイチャイチャするほうに夢中だ。緊張感がないことおびただしい。

もしかしてこれ夢オチなんじゃないの、という不吉な想像も頭をよぎる。もう犯人なんか誰でもいいや、と投げやりになりつつ最後まで読むと、オッこう来たかという真相が明かされる。真相を知ったあとで最初の方を読み返すと、一段と趣が深くなる。

ただ今読んでしみじみ感銘するのは、むしろ作者のいわゆる腐女子ぶりである。厚木淳氏の解説には作者ヘレン・ユースティスは統合失調症を患ったことがあって、それがこの作品を産む機縁になったとか書いてあるけれど、いや~それは違うんじゃないかな、と僭越ながら思う。作者にこのプロットを思いつかせたのは腐女子的性向なんではあるまいか。「この二人ならこっちが受だな」というような発想からプロットが練られたような気がする。