トランスファンタスティック

 

 
定価が三千円を切っているのもかかわらずこの美麗装丁はただごとではない。どこをどう叩けばこの価格でこの造本が実現できるのだろう。版元の屋台骨を揺るがすくらいの大部数を刷っているのだろうか。ともかくも国書が乾坤一擲の大勝負に出たことがマザマザとうかがえる気合の入り方ではある。
 
もちろん中身も外観に負けてはいない。「歩く小説」とでもいうべき唯一無二、sui generisなスタイルが読者をいままで味わったことのない酩酊におとしいれる。

ちょうどゴンブロヴィッチ『トランスアトランティック』の主人公が「すたすた」と歩いていくように、これらの作品はおのずから歩いていくのである。もっとも「すたすた」という速足感のある足音はこれらの作品には似合わない。むしろ無音がふさわしい。
 
そして問題の『ガール・ミーツ・シブサワ』。ラストまで読めば誰でもわかることゆえ、ここに記すのも野暮なことながら、この作品は『高丘親王航海記』のretoldであって、いわば『龍彦親王航海記』とでもいうべきものになっている。なぜか? それを説明するとさすがにネタを割ってしまうので、すべからく各自読了してこの恐るべき超絶技巧に驚愕してほしい、という気がわたしにはするのである。
 

黄色の研究

外国語の色の名は、訳すのが簡単なようで案外難しい。

たとえば"purple"。「紫でしょ。ディープ・パープルっていうじゃない」と言われる方もいるだろう。ところがディープでないただのパープルは、日本語でいう紫よりもっと赤みがかった色らしい。とりわけ古い文章ではそうである。たとえば柳瀬尚紀訳ロナルド・ファーバンク『オデット』の最初のパラグラフを見よう。

暮れなずむ夏の日々、影がのろのろと芝生を這い、遠い大聖堂の塔たちが沈みゆく陽に茜色に染まる頃になると、幼いオデット・ダントルヴェルヌは、灰色の古城をいつもこっそり抜け出しては、小鳥たちが木立の中で「おやすみ」「おやすみ」とささやき合うのに耳を傾けるのだった。


うっとりするような名調子で、さすが柳瀬尚紀、せめて『ユリシーズ』を訳し終えてから世を去ってほしかったと思うけれども、それはともかく、この文中の「茜色」は原文では"purple"だ。

それから"rose"。これは直訳すると「薔薇色」で、今再校中のゲラにもこの色は出てくる。



これはもちろんクリムゾン・グローリーみたいな深紅ではなく、ピンク色のことである。しかしこれを「ピンク色」あるいは「桃色」と訳すと、「薔薇色の人生」みたいな多幸感的ニュアンスが消えてしまうのでなかなか難しい。
 
だがいちばん厄介なのは"yellow"であろう。このごろはあまり言われなくなったが、かつては日本人を含むアジア系人種は「黄色人種」と呼ばれていた。だが自分の肌の色を見ても黄色系の色とはとても思えない。かといって何色なのかと言われても困る。しいて言えば「肌色」か。
 
英英辞典(オックスフォード現代英英)を引くと、肌の色を指す場合は"light brown"と説明されてある。一応なるほどとは思うが、でもちょっと違う。"light brown"というと健康的なイメージだが、"yellow"にはむしろ不健全な感じがまとわりついている。
 
『黄色い部屋の謎』というミステリがある。ここに出てくる黄色の部屋は、ヒマワリみたいなまっ黄色ではない。この小説は新聞記事風の文体で書かれていて小説的な描写はあまりないが、日影丈吉訳のハヤカワミステリ文庫によると、問題の部屋の色は正確には鬱金色のようだ。
 
それから「黄色い壁紙」(The Yellow Wallpaper)という気持ち悪い短篇がある。東京創元社の女性怪奇作家アンソロジー『淑やかな悪夢』のなかに入っている。ここに出てくる「黄色い壁紙」もまっ黄色というわけではない。

……色はほんとうに虫の好かない色で、胸が悪くなるようだ。くすんだ、不潔な感じの黄色。日に灼けて褪せたせいで、こんな妙な感じの色になったのだろう。/ところどころは鈍いけれど毒々しい印象のオレンジ色、その他の部分は病的な硫黄の色。(西崎憲訳)

つまりここで言う黄色は、厳密に言うとオレンジ色の混じった硫黄色である。硫黄色というとたぶん古い五円玉みたいな色なんだろうと思う。
 
それからシャーロック・ホームズ譚のひとつに、「黄色い顔」(The Yellow Face)と題されたものがある。心暖まる話で、わたしはこんなのに弱く、ラストシーンには目がうるうるしてしまう。そこでは「黄色い顔」はこんなふうに描写されている。

一番強く印象に残ったのは、顔色です。死人のような鈍い黄色で、こわばった感じの不気味さがあったんです。(日暮雅道訳)

少し後で、この顔は別の語り手によってこう描写される。

こちらを向いた顔がなんとも不気味な土気色で、表情がまったくなかったのだ。

つまりここでいう「黄色」は土気色のことらしい。
 
ということで"yellow"は場合によって鬱金色や硫黄色や土気色だったりするけれど、ここで腑に落ちないことがひとつある。もしそれぞれの作品で部屋の色や壁紙の色や顔の色が鬱金色や硫黄色や土気色であるのなら、どうしてガストン・ルルーやシャーロット・ギルマンやコナン-ドイルは『鬱金色の部屋の謎』とか「硫黄色の壁紙」とか「土気色の顔」とかいうタイトルをつけなかったのだろう。どうしてまず「黄色」といっておいてから、おもむろに鬱金色あるいは硫黄色あるいは土気色と説明を補うのだろう。
 
思うに、これらの作品では鬱金色あるいは硫黄色あるいは土気色などの表現では醸し出せない、"yellow"だけが持つ不吉なニュアンスが必要だったのだろう。"rose"をピンク色と訳すとハッピーな感じが消えてしまうように、"yellow"を"yellow"以外の言葉にすると、何か大切なものが消えてしまうのだろうと思う。
 
ここまで書いて思い出したけれど「黄色いナメクジ」という陰惨な短篇もあった。

オーストリアギャグ

今後出してもらえることになっている本は今のところA、B、Cと三冊あって、Aは初校を戻して解説も書いたのですでに山は越した気分。Bは来月以降初校ゲラがポツポツ来る模様。Cはスケジュールさえはっきり決まっていないメロンタ・タウタ(="these things are in the future")状態であります。当然一字も訳していません。本文以前にタイトルの訳し方が難しくてそれに頭を悩ませているていたらくです。

このCはとある版元のコレクションの中の一巻なのですが、巷間漏れ伝わる噂によれば、他の巻を担当している方の中にはもう八割方訳し終わった人もおられるそうです。恐ろしい話ではありませんか……

それはともかく、そういった事情で今現在は急いで訳さなければならないようなものもなく、台風の目に入ったような状態です。したがってこの時間を活かして文学フリマに出す予定の本をせっせと進めています。その作品には朗読CDもあるので参考のために聞いているのですが、これがちょっと悩ましい。

なぜ悩ましいかというと、この朗読は少人数のサロンみたいなところでやっているらしくて、聴衆の笑い声がときどき入っているのです。最終章なんかはもう笑いの渦といった感じです。ところが聞いているこちらにはどこがおかしいのか全然わからない。ここは実は笑うところであったのか! という新発見の連続です。

モンティ・パイソンみたいな英国ギャグはまあわからないでもありません。アメリカンギャグになるとだいぶ怪しくなってきます。たとえばほら、『SFカー二バル』(創元推理文庫)に入ってる「SF作家失格」っていう短篇があるじゃないですか。あの中の未来人のギャグがわからないのは当然としても、現代人のギャグのほうもいったいどこが面白いのやら……

しかしそれに輪をかけてわからないのがオーストリア・ギャグであります。この人たちはいったい何に笑っているのでありましょうか。

別府とフィンランド

ここを見ている方ならたいていご存じと思うが、ある国内ベストテン級のミステリでは、別府はあの温泉で有名な大分県の町ではない。といってもパラレルワールドの異世界ものというわけでもなく、何というか、もっと陰険で悪辣なものである。

だがこんなトリックを弄するのは日本人ばかりではない。エドマンド・ウィルソンの著書に『フィンランド駅へ』というのがある。このタイトルの「フィンランド駅」は実はフィンランドの駅ではない。そしてそれが明かされるのは最終章においてである。このミステリ的なセンスのよさにはちょっと感心した。ウィルソン氏もなかなかやるではないか。

エドマンド・ウィルソンというと、ミステリ界では「誰がロジャー・アクロイドを殺そうとかまうものか」というミステリ罵倒文で知られている。しかしひそかに思うのだが、これは一種のツンデレではなかろうか。この罵倒文のタイトル "Who Cares Who Killed Roger Ackroyd?" は、「だ、誰がアクロイドを殺したって気にしないんだからっ!」と訳した方が実情に沿うのではなかろうか。

だってそうではないか。本当に誰がアクロイドを殺しても気にならないのなら、大批評家のウィルソン氏ともあろうものが、わざわざこんな憎まれ口をたたく必要はない。単に黙殺すればいいだけの話だ。


ところで急に話は変わるが、いま訳している小説では主人公がルーマニアからブルガリア経由でウィーンに向かうのだが、いきなり場面がクラクフの駅になる。クラクフといえばポーランドである。日本でいえば、東京から大阪に向かう人がいきなり金沢駅に顔を見せるくらいの違和感がある。

だが別府やフィンランドでさんざん懲りていたわたしは、その手は桑名の焼きハマグリとばかりに、この「クラクフ」なるものはポーランドのクラクフではないのではないかとまず疑った。こういうスラブ風の地名は別に他のスラヴ語圏の国にあったっておかしくはない、と思って探してみたがどうしても見つからない。残念ながら鬼貫の境地にはまだまだ遠いようだ。

マクロイを愛す

 
ヘレン・マクロイが好きだ。海辺まで走っていって、「好きだよー!」と叫びたくなるくらいに好きだ。だからここ最近のマクロイの新刊ラッシュはとてもうれしい。

マクロイのどこがそんなにいいのか。まず本格ミステリ的な面からいうと、手がかりの出し方だ。

アガサ・クリスティとかクリスチアナ・ブランドの手がかりの出し方は、ときどきとても意地悪で、この人たちはもしかして実生活でもこんなイジワルをやってるのだろうか?と疑いたくなるくらいのものだ。しかしマクロイは違う。直球である。しかも変化球の直球である。

例をあげよう。『家蠅とカナリア』で、探偵役のウィリング博士が大時計の時刻を見て自分の時計を直す場面がある。前後のストーリーの流れから見ると唐突な場面なので、ははあここに何か手がかりがあるな、と読者はいやでも気づく。実にフェアな手袋の投げ方である。しかしこれが何の手がかりになっているのか? それがまるでわからない。あげくのはてに解決篇を読んであっと驚くことになる。

クリスティも似たことをやっていた。どの長篇でだったかは忘れたが、ある人物がカレンダーをじっと睨んでいる。ははあ何かのスケジュールが気になるんだなと思っていると、あにはからんや……しかしこのミスディレクションには、マクロイのと似ていても、意地悪さを感ぜずにはいられない。

それから『あなたは誰?』にも、後半に入ってからこれみよがしな場面がある。これも、すれからしの読者なら、クイーンや鮎川哲也が使い倒した手をすぐに思い浮かべるだろう。ははあすると第一の殺人は、鮎川哲也が某犯人当て短篇で使ったのと同じ手か? しかしそうだとすると事件全体の構図がまるでわからなくなってしまう。正しい手がかりがレッドへリングになっているという稀有のケースである。

あるいは『月明かりの男』。死体に傷がなかったという描写を読んで、あー傷がなかったのね(にやにや)とほくそ笑む読者は、終盤で大うっちゃりをくらうことになる。

あるいは冒頭の場面で読者に先入観を与えておいて、それで真相をカモフラージュするというのは本格ミステリでたびたび使われる手だが、『逃げる幻』ほどそれが効果的に使われているのは珍しいと思う。

要するにマクロイというのは、謎解きが好きな読者を楽しませるすべを、憎いまでに心得ている作家なのである。


第二のすばらしい点は、misfit(社会不適応者)の孤独がひしひしと迫る筆致にある。これは前にも書いたことがあるのでくりかえさない。傑作『暗い鏡の中に』の成功はこれなしにありえないし、『殺す者と殺される者』のあまりにも無理筋なトリックを支えているのもこの筆致である。だが『ひとりで歩く女』のようにそれを(広い意味の)トリックにしている作品もあるから、転んでもただは起きない(?)というか、実にしたたかな根性ではある。

第三のすばらしい点は、小栗虫太郎の血筋をひいている点である。あたかも妖姫カペルロ・ビアンカの血が海を渡って降矢木算哲に流れ込んだごときものである。

たとえば『牧神の影』の激しく作り込まれた暗号に辟易する読者もたぶんいると思うが、これが虫太郎の血というものなのである。

いくつかの作品ではペダントリーが推理と解けがたく結びついている。たとえば『家蠅とカナリア』。冒頭で作者が大見得を切っているように、確かに家蠅とカナリアが真犯人を暴いている。ところがこれらは普通の人の手がかりになるようなものではない。あくまでウィリング博士専用の手がかりなのである。ちょうど虫太郎作品のいくつかの手がかりが法水専用の手がかりであるように。

『ささやく真実』の聴覚トリックもそうだし、『月明かりの男』の動機は(これは明かしてもネタバレにはならないと思うが)重酸化クロム(だったか?)である。こういう虫太郎風ペダントリ―抜きにマクロイの魅力はありえないと思う。

ジュテーム?

 
ジャズトランぺッターMiles Davisの名は英和辞典の発音表記で見るかぎり、「マイルス」ではなくて「マイルズ」である。ところが「日本で一番マイルスに近い男」と呼ばれた音楽評論家の中山康樹氏は、死ぬまで「マイルス」と表記していた。本人の言によると、マイルス自身が言うのを聞くと、「マイルス」にも「マイルズ」にも聞こえるのだという。

わたしはこれはてっきり意地を張っているものとばかり思っていた。ところが南條竹則さんの近著『英語とは何か』を読んで誤解だとわかった。この本の154ページにはこうある。

英語でも、たとえば「James」という名前を片仮名に表記するとき、今ではたいていジェームズと「ズ」を濁らせますが、古い書物や新聞などでは、「ジェームス」とか「ゼームス」という表記がよく見られます。わたしは以前、それを単純な間違いだろうと思っていましたが、今は考えを改めました。
 
[中略]最後の子音の発音は[z]ですから、「ズ」とするのが当然のように思われますが、前に申し上げたように、[z]は[dz]――日本語の「ズ」ではありません。もっと軽い発音で、舌の位置や動きは「ス」と同じです。[中略]耳で聞いた感じでは「ス」のように感じられることもあるでしょう。

 
つまり英語の[z]は舌を歯茎の裏につけないが、日本語の「ズ」はつける。だから聞きようによっては[z]の音は「ズ」より(やはり舌を歯茎に付けない)「ス」に近く聞こえるらしい。

ということでわたしも南條氏に倣い考えを改めた。中山氏が「マイルスにも聞こえる」と言っていたのは、意地でもなんでもなくて、音楽評論家としての耳の良さの証明に他ならなかったのだ。そういえば昔は「シャーロック・ホームス」という表記もあったような気がする。

あとこの本によれば、やはり同じ理由で、日本人が「ジュテーム(Je t'aime)」と言うと、フランス人の耳にはとても変な音に聞こえるという。「シュテーム」と言ったほうがまだマシのようだ。フランス人を口説く予定のある人は覚えておいて損はないと思う。

高い山から

 自分はシブサワ派かもしれない。だがタカヤマ派だろうかと自問すると、やはり違うような気がする。タカヤマ本はたいてい読んでいるが、いや正確に言うとたいていページをめくってはいるのだが、あれら膨大な著作の基調をなすメッセージが、シブサワの場合ほどうまくとらえられないからだ。全著作を通じて一貫するメッセージがあるらしいことは感知できる。だがそれが何かと言われると……。

 タカヤマ本からおおいに啓発を受けたのはむしろその身振りだ。ちょうどヤクザ映画を見た観客が肩で風を切って映画館を出るように。あるいは『燃えよドラゴン』の上映後、売店のヌンチャクが一本残らず売れてしまうように。

 具体例で言おう。『メデューサの知』という本がある。これは「アリス狩り」シリーズの第三集である。この「アリス狩り」というタイトルは、(たとえば「鷹狩り」という場合のように)アリスが狩るのか、それとも(「イチゴ狩り」という場合のように)アリスを狩るのか、判然としない(前者のような気はする)。ともあれこの本に収められた論文には、ちょうど亜愛一郎シリーズの逆三角の頭をした老婦人みたいに、各編にアリスが、すなわちルイス・キャロルの化身が、チョコっと顔を覗かせる。この少女は狩っているのか。それとも狩られているのか。

 話がそれた。身振りの話に戻る。たとえば『メデューサの知』に《Wittgenspiel》という論文がある。ここでは『記号論理学』の著者でありながら一方でナンセンス物語を書いたルイス・キャロルが、どういうコンテキストでウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と出会うかを述べたものだ。

 それはいい。そこまではわかる。

 問題はこの『論理哲学論考』なるシロモノが素人には歯が立たない超難解なものであるところにある。たとえばその5.6にこんなことが書いてある。

5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

 これを普通の人は、「言語の限界は世界の限界である」という定理あるいは定義のごときものと受けとって、「ウーンなんとなくわかるようなわからないようなわからないような……」と悩む。

 だがタカヤマ御大は「存外分かりやすいヴィトゲンシュタインというものがあって」(『メデューサの知』p.276)とのたまっておられる。この「存外分かりやすい」を追体験するには、「身振り」ということが必要になる。すなわち何はともあれ、売店でヌンチャクを買って振り回してみるということだ。

 そこでつらつら想像するに、超絶的な唯我独尊性を持つタカヤマ氏はこの文を一般的な定理や定義としては読まないだろう。氏はたぶんこう読むはずだ。

5.6 高山宏の言語の限界が高山宏の世界の限界を意味する。


 なるほど!と、納得感がぐーんとアップしたような気がしないだろうか。なにしろOEDをなめるように読む人だから、そりゃまあ言語の限界が世界の限界を意味しても不思議ではない……。同時にこのあとの5.62で一見唐突に現れる「唯我論」という言葉とのつながりもそれほど唐突には見えなくなってくる。

 「身振りに啓発を受けた」「ヌンチャクを振り回す」というのはたとえばこういうことなのであった。

シブサワなう


 『カラマーゾフの兄弟』中のゾシマ長老伝のはじめのほうに、二十歳前に結核で夭折した長老の兄マルケルのエピソードがでてくる。その兄は死ぬ一か月前にこんなことを言ったそうだ。

 「お母さん、泣かないでください。人生は楽園です。僕たちはみんな楽園に住んでいるのです。ただそれを知ろうとしないだけなのです。もし知ろうとする気を起こしたら、あすにもこの世に楽園が出現するのです」
(池田健太郎訳)

 このくだりを読んで瞬時にその意味がわかる人が、おそらくはシブサワ派になるのだろう。わたしは陣営的にはタネムラ派のはずだけれど、その意味ではシブサワ派でもあるのかもしれない。『黄金時代』も、『夢の宇宙誌』も、『胡桃の中の世界』も、『思考の紋章学』も、それからもちろん『高丘親王航海記』も、あるいは『サド侯爵の生涯』さえ、煎じ詰めればただこのマルケルの一言を言いたいがための本ではなかったろうか。

 これこそわれわれが澁澤龍彦の本を読んで無意識のうちに受けるメッセージで、ウェルズのいう「塀についたドア」は探せばそこら中にあるんだよ、ということだ。

 澁澤龍彦というと「いろいろ変なことを知っている博識な人」、「好きなものに囲まれて生きた幸せな人」、「書物的(リヴレスク)な生涯を送った書斎派」という評価が一般にはあるようだ。それらも間違ってはいないけれどやはり間違っている。世に博識家やコレクターや書斎人は多いけれど、そういう人たちは澁澤龍彦の光輝を持っていない。

 「色盲」ならぬ「現在盲」とでも呼びたい人がいる。非シブサワの典型である。「現在が見えない? そんなバカなことがあるものか」と人は言うかもしれない。でもね、たとえば、地方の100スペースくらいの文学フリマは何かの商業施設のホールを借りてやるわけだけれど、そういうところで店を開いていると、暇をもてあましているみたいなおっちゃんが寄ってきてたずねるのだ。「何のためにこんなことしてるの?」

 「余計なお世話である」と答えるのも大人げないので、「でもここにいる人たちはみんな同じなんですよ*1」と言うと、「そりゃそうだろうけど……」とか何とかブツブツ言いながら去っていく。

 「何のためにこんなことしてるの?」は不思議な問いだけれど、想像するに、たぶん、そういう人の目は、現在の行為が何らかの成果をもたらす将来にだけ向いているのだろう。「現在盲」たるゆえんである。たぶんそういう人は時間をカレンダーの予定表みたいにイメージしているのだろう(シブサワ的時間は針のない時計だというのに……)。

 シブサワの頻出フレーズ(オリジナルはたぶん花田清輝)「そんなことはどうでもよろしい」にぶつかると、現在盲の人は、あっどうでもよかったのか! 読んで損した! それにしても何でどうでもいいことを書くんだ! と思うのかもしれない。

 高原英理さんのめっぽう面白い小説『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』を読んでいるとしきりにシブサワのことが思い出されるのでちょっと書いてみた。この小説そのものについてはまた別に語る機会もあろうと思う。締めくくりにまた『カラマーゾフの兄弟』の、マルケルの死の場面を引用しよう。

 やがて兄は復活祭のあと二週間たってから、最後まで意識を失わずにこの世を去った。もう口はきけなかったけれども、最後の瞬間までいつもと変わらず嬉しそうな顔をして、目にははればれとした色をたたえ、私たちを眼差で探しては、にっこりほほえんで私たちを呼んでいた。

 
 澁澤の最期もきっとこんなふうだったに違いない。

*1:「ここはお前の来るところではない」の婉曲表現

中野さんの本

 中野善夫さんが9/15のツイートでいつものように届いた本の報告をされている。



 
 実はわたくしも同じ本を持っている。850部限定版の一冊。しかもこちらは箱入りである(ちょっと自慢)。


 
 「何の本か判った人も決してツイートしないでください」と中野さんのツイートにはあるが、「けしてブログに書かないでください」とまでは言ってないので、まあここに書いてもかまうまい。なぜ二人が同じ本を持っているのか。それはいずれ時が明らかにしてくれるものと思う。

 ところで中野さんはこの本はお持ちだろうか(しかし、ピカチュウが写り込んでいて書名が全部見えない)。