高い山から

 自分はシブサワ派かもしれない。だがタカヤマ派だろうかと自問すると、やはり違うような気がする。タカヤマ本はたいてい読んでいるが、いや正確に言うとたいていページをめくってはいるのだが、あれら膨大な著作の基調をなすメッセージが、シブサワの場合ほどうまくとらえられないからだ。全著作を通じて一貫するメッセージがあるらしいことは感知できる。だがそれが何かと言われると……。

 タカヤマ本からおおいに啓発を受けたのはむしろその身振りだ。ちょうどヤクザ映画を見た観客が肩で風を切って映画館を出るように。あるいは『燃えよドラゴン』の上映後、売店のヌンチャクが一本残らず売れてしまうように。

 具体例で言おう。『メデューサの知』という本がある。これは「アリス狩り」シリーズの第三集である。この「アリス狩り」というタイトルは、(たとえば「鷹狩り」という場合のように)アリスが狩るのか、それとも(「イチゴ狩り」という場合のように)アリスを狩るのか、判然としない(前者のような気はする)。ともあれこの本に収められた論文には、ちょうど亜愛一郎シリーズの逆三角の頭をした老婦人みたいに、各編にアリスが、すなわちルイス・キャロルの化身が、チョコっと顔を覗かせる。この少女は狩っているのか。それとも狩られているのか。

 話がそれた。身振りの話に戻る。たとえば『メデューサの知』に《Wittgenspiel》という論文がある。ここでは『記号論理学』の著者でありながら一方でナンセンス物語を書いたルイス・キャロルが、どういうコンテキストでウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と出会うかを述べたものだ。

 それはいい。そこまではわかる。

 問題はこの『論理哲学論考』なるシロモノが素人には歯が立たない超難解なものであるところにある。たとえばその5.6にこんなことが書いてある。

5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

 これを普通の人は、「言語の限界は世界の限界である」という定理あるいは定義のごときものと受けとって、「ウーンなんとなくわかるようなわからないようなわからないような……」と悩む。

 だがタカヤマ御大は「存外分かりやすいヴィトゲンシュタインというものがあって」(『メデューサの知』p.276)とのたまっておられる。この「存外分かりやすい」を追体験するには、「身振り」ということが必要になる。すなわち何はともあれ、売店でヌンチャクを買って振り回してみるということだ。

 そこでつらつら想像するに、超絶的な唯我独尊性を持つタカヤマ氏はこの文を一般的な定理や定義としては読まないだろう。氏はたぶんこう読むはずだ。

5.6 高山宏の言語の限界が高山宏の世界の限界を意味する。


 なるほど!と、納得感がぐーんとアップしたような気がしないだろうか。なにしろOEDをなめるように読む人だから、そりゃまあ言語の限界が世界の限界を意味しても不思議ではない……。同時にこのあとの5.62で一見唐突に現れる「唯我論」という言葉とのつながりもそれほど唐突には見えなくなってくる。

 「身振りに啓発を受けた」「ヌンチャクを振り回す」というのはたとえばこういうことなのであった。