オーストリアギャグ


今後出してもらえることになっている本は今のところA、B、Cと三冊あって、Aは初校を戻して解説も書いたのですでに山は越した気分。Bは来月以降初校ゲラがポツポツ来る模様。Cはスケジュールさえはっきり決まっていないメロンタ・タウタ(="these things are in the future")状態であります。当然一字も訳していません。本文以前にタイトルの訳し方が難しくてそれに頭を悩ませているていたらくです。
このCはとある版元の○○コレクションの中の一巻なのですが、巷間漏れ伝わる噂によれば、他の巻を担当している方の中にはもう八割方訳し終わった人もおられるそうです。恐ろしい話ではありませんか……

それはともかく、そういった事情で今現在は急いで訳さなければならないようなものもなく、台風の目に入ったような状態です。したがってこの時間を活かして文学フリマに出す予定の本をせっせと進めています。その作品には朗読CDもあるので参考のために聞いているのですが、これがちょっと悩ましい。
なぜ悩ましいかというと、この朗読は少人数のサロンみたいなところでやっているらしくて、聴衆の笑い声がときどき入っているのです。最終章なんかはもう笑いの渦といった感じです。ところが聞いているこちらにはどこがおかしいのか全然わからない。ここは実は笑うところであったのか! という新発見の連続です。
モンティ・パイソンみたいな英国ギャグはまあわからないでもありません。アメリカンギャグになるとだいぶ怪しくなってきます。たとえばほら、『SFカー二バル』(創元推理文庫)に入ってる「SF作家失格」っていう短篇があるじゃないですか。あの中の未来人のギャグがわからないのは当然としても、現代人のギャグのほうもいったいどこが面白いのやら……
しかしそれに輪をかけてわからないのがオーストリア・ギャグであります。この人たちはいったい何に笑っているのでありましょうか。