シブサワなう


 『カラマーゾフの兄弟』中のゾシマ長老伝のはじめのほうに、二十歳前に結核で夭折した長老の兄マルケルのエピソードがでてくる。その兄は死ぬ一か月前にこんなことを言ったそうだ。

 「お母さん、泣かないでください。人生は楽園です。僕たちはみんな楽園に住んでいるのです。ただそれを知ろうとしないだけなのです。もし知ろうとする気を起こしたら、あすにもこの世に楽園が出現するのです」
(池田健太郎訳)

 このくだりを読んで瞬時にその意味がわかる人が、おそらくはシブサワ派になるのだろう。わたしは陣営的にはタネムラ派のはずだけれど、その意味ではシブサワ派でもあるのかもしれない。『黄金時代』も、『夢の宇宙誌』も、『胡桃の中の世界』も、『思考の紋章学』も、それからもちろん『高丘親王航海記』も、あるいは『サド侯爵の生涯』さえ、煎じ詰めればただこのマルケルの一言を言いたいがための本ではなかったろうか。

 これこそわれわれが澁澤龍彦の本を読んで無意識のうちに受けるメッセージで、ウェルズのいう「塀についたドア」は探せばそこら中にあるんだよ、ということだ。

 澁澤龍彦というと「いろいろ変なことを知っている博識な人」、「好きなものに囲まれて生きた幸せな人」、「書物的(リヴレスク)な生涯を送った書斎派」という評価が一般にはあるようだ。それらも間違ってはいないけれどやはり間違っている。世に博識家やコレクターや書斎人は多いけれど、そういう人たちは澁澤龍彦の光輝を持っていない。

 「色盲」ならぬ「現在盲」とでも呼びたい人がいる。非シブサワの典型である。「現在が見えない? そんなバカなことがあるものか」と人は言うかもしれない。でもね、たとえば、地方の100スペースくらいの文学フリマは何かの商業施設のホールを借りてやるわけだけれど、そういうところで店を開いていると、暇をもてあましているみたいなおっちゃんが寄ってきてたずねるのだ。「何のためにこんなことしてるの?」

 「余計なお世話である」と答えるのも大人げないので、「でもここにいる人たちはみんな同じなんですよ*1」と言うと、「そりゃそうだろうけど……」とか何とかブツブツ言いながら去っていく。

 「何のためにこんなことしてるの?」は不思議な問いだけれど、想像するに、たぶん、そういう人の目は、現在の行為が何らかの成果をもたらす将来にだけ向いているのだろう。「現在盲」たるゆえんである。たぶんそういう人は時間をカレンダーの予定表みたいにイメージしているのだろう(シブサワ的時間は針のない時計だというのに……)。

 シブサワの頻出フレーズ(オリジナルはたぶん花田清輝)「そんなことはどうでもよろしい」にぶつかると、現在盲の人は、あっどうでもよかったのか! 読んで損した! それにしても何でどうでもいいことを書くんだ! と思うのかもしれない。

 高原英理さんのめっぽう面白い小説『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』を読んでいるとしきりにシブサワのことが思い出されるのでちょっと書いてみた。この小説そのものについてはまた別に語る機会もあろうと思う。締めくくりにまた『カラマーゾフの兄弟』の、マルケルの死の場面を引用しよう。

 やがて兄は復活祭のあと二週間たってから、最後まで意識を失わずにこの世を去った。もう口はきけなかったけれども、最後の瞬間までいつもと変わらず嬉しそうな顔をして、目にははればれとした色をたたえ、私たちを眼差で探しては、にっこりほほえんで私たちを呼んでいた。

 
 澁澤の最期もきっとこんなふうだったに違いない。

*1:「ここはお前の来るところではない」の婉曲表現