ショートショート・カーニヴァル


 

新紀元社から牧原勝志氏編纂による『幻想と怪奇 ショートショート・カーニヴァル』をいただいた。どうもありがとうございます。

一読して驚くのはオリジナル・アンソロジーとしては尋常でない質の高さだ。ベテラン勢が健在を見せつけるいっぽう、中堅や若手も盛んに気を吐いている。このテンションの高さの背後には『幻想と怪奇』という雑誌へのリスペクトがあるのは間違いない。『幻想と怪奇』からお呼びがかかったからにはあだやおろそかなものは書けない! という熱気が紙面を通して伝わってくるようである。

しかしもっと驚いたのはショートショート・コンテストの入選作だ。これにはほんとうにでんぐりがえった! 新人らしからぬ完成度である。なかんずく最優秀作、西聖氏の「無色の幽霊」には「世の中にはとんでもない才能が隠れているものだなあ」と感じ入った。

デ・ラ・メアの目


 

デ・ラ・メアの『トランペット』を訳者の和爾桃子さんからいただいた。どうもありがとうございます。

マラルメの「メ」はマナコなり、と誰かが言ったそうだが、デ・ラ・メアもやはり目の人である。その小説にはストーリーを統御しようとする作者の手があまり感じられない。作者は文字通り手をこまねいて、ただ見ているだけのような気がする。

デ・ラ・メアの手法は朦朧法と言われることもある。だがその目はいつもクリアで、朦朧としたところはない(和爾さんの今回の訳は、その目のクリアさがよく表現されているように思う)。だから朦朧法というのは少なくともデ・ラ・メアに関していえば当たっていないのではなかろうか。

ただ見たものについて判断はくださない。そこが朦朧法と呼ばれるゆえんなのかもしれない。たとえば「トランペット」ではディックは主人公の異母兄弟であるまいかという気がするが、作中の視点人物はそういう判断はくださない。ただメイドが急に解雇されたことや、主人公の母がディックの母に口止め料とも思われる物品を渡したことや、両親のディックへの奇妙な態度を「見る」だけなのである。

デ・ラ・メアの視点人物は、ちょうどリュウ・アーチャーのように、悲劇をせき止めることもなく、人を幸せにすることもなく、ただ見ているだけだ。そういえばきびきびしてときに口語的にくだける和爾さんの訳文もハードボイルドな感じを強めている。もっともアーチャーと違って、そこに謎があっても誰も推理はしない。もちろん推理小説ではないからそれはそれでかまわない。ロジャー・シェリンガムみたいにムチャクチャな推理をする人が出てこないだけなんぼかましともいえる。

そして不動産物件ではないけれど、デ・ラ・メアの作品中に登場する人物は多かれ少なかれ(やはりロスマク作品に登場する人物と同じく)「わけあり」である。その「わけあり」の人を視点人物が曇りのない目で観察対象として見るというパターンが多い。そしてその「わけ」は最後まで隠されている。作者がもったいぶって隠しているというよりは、その「わけ」を名指しすると雲散してしまうようなものすごく微妙なものこそが作者が描きたかったものだろうと思う。

高原英理『精霊の語彙』


 

高原英理さんの短篇ひとつだけを収めた小冊子を作者の好意により落掌した。なんたる僥倖。この「精霊の語彙」は来月末に出る連作長篇『祝福』の中の一篇なのだそうだ。『祝福』というとなんだかめでたい感じがするが、本のカバー上部に下半分だけ見える漢字は「祝」ではなくて「呪」のように見えなくもない。カバー下部の漢字も一見「福」に見えるが、長く見つめていると別のものに化けそうで怖い。

この本を十全に味わうためには、おそらく以下の文章は読まないほうがいいと思う。来月末にどえらい本が出ることだけを知っていればいいと思う。というのも、これから書くことに自分としては確信を持ってはいるものの、この短篇の二ページ目に書いてあるとおり、「言えば間違う」からだ。つまりこれは「評すれば間違う」といったたぐいの作品である。なぜならこれはおそらく出来合いの言葉が届かないところで成立している話だからだ。というのも言葉はネットワークであり水路であり、つまり作中の言葉でいえば「導いてしまう」からだ。

孤立した言葉、すなわちどこからも流れてこないしどこにも流れ込まない言葉は、ある種の詩作品を除いては存在しがたい。水路を無理やり作ってどこかに導いてやろうとするとそれはもはや孤立した言葉ではなくなる。前に言った「評すれば間違う」というのはそういう意味である。

しかし流れる言葉は孤立した言葉にはかなわない。『祝福』もまた孤立した言葉について語る本なのかもしれない。あるいは水路を持たない孤絶した言葉がいかにして他者に伝達されうるか。それを語る本なのかもしれない。


むかしむかし、日本にまだバブルの余韻が残っていたころ、栗本慎一郎が『パンツを脱いだサル』という本を書いた。この本によれば世界史の真の主役はウイルスであって、人はただウイルスの乗り物、つまりウイルスに操られ利用されるだけの存在にすぎないのだという。

この短篇でウイルスにあたるものは言葉の群れであり、おそらくタイトルにある「精霊の語彙」とはそれを指しているのだろう。その「言葉の群れ」は、作中人物の言によれば、万巻の書を読み、それをいったん全部忘れたのちに、自らつむいだ言葉だという。疑ってまことに申し訳ないのだが、いやそれは違うだろう、と自分は思う。そのまことしやかな説明自体がウソ臭い。だいいち、そうした生成プロセスを経てできた言葉は、おそらくAIのChatGPTのようなものになると思うが、作中に引用されている断片はそんなものとは似ても似つかない。だから、単にその作中人物がそう思い込んでいるだけで、実はウイルスにも似たその「言葉の群れ」に操られているだけではないのか。

むろんこの短篇を、ある孤絶的な詩作品——伝達を拒否しながら伝達を願う詩作品(今自分が具体的に思い浮かべているのは左川ちかの詩なのだが)の誕生する瞬間を散文によってぎりぎりの極限までアプローチしたものと見ることもできなくはないとは思う。だが、やはり、ここで伝授される言葉を個人の創造したものとみなすとあまり話が面白くなくなってしまいはしまいか(ここで竹本健治が東海洋士の『刻丫卵』に付した解説を思い合わしてもいい)。この短篇で引用されている面妖な「言葉の群れ」は、言葉であって世の常の言葉ではないウイルスのようなものと考えたほうがつじつまが合いはしないか。

作中の世界観では死後の世界は存在しない。死者が残すものは「残念」という念だけだという。といってもこれは「恨めしや」みたいな私的感情ではなく、大まかにいえばある特定の他者への伝達への意志である。とすると、とふたたびここで立ち止まって考えざるをえない。それは本当にその人の意志であるのか。伝達され存続を願う「言葉の群れ」に単に操られているだけではないのか。

ウイルスが宿主を必要とするように、「精霊の語彙」も日本語を解するものを必要とする。宿主は必ずしもその意味を全面的に解しなくともよいのだが、他人に伝達できる程度には解さなくてはならない。その言葉は人を慰めたり元気づけたり幸せにしたりはしない、かといって絶望に落としたりもしない。ただ人を媒介にして伝わっていくだけである。そういう言葉の群れ——ある種の詩作品は現実にも存在すると思う。

そういえばこの短篇に出てくる登場人物の誰もかれもが、スタイリッシュな装いを持ちながら、まるで何かに操られているようではないか。ちょうど中井英夫のある種の作品がそうであるように。

平井と小林信彦


 

(これは昨日の日記の続きです)

こういう、フランス料理を箸で食べるような感じにときどきなる平井の翻訳態度が、ある種の人たちをいらだたせるのは当然といえば当然だろう。「ある種の人たち」というのは、大ざっぱにいうと海外の文化にあこがれる人たちである。

小林信彦はまぎれもなくそうした者の一人で、アメリカ文化へのあこがれは、たとえば『ぼくたちの好きな戦争』に痛いほどあらわれている。おそらく都筑道夫にしてもそれは同じだと思う。

この小林信彦は、身辺の人物を極端にカリカチュアライズして喜劇的人物に仕立てるのが得意であった。『仮面の道化師——定本小林信彦研究』をまとめた藤脇邦夫によれば、小林信彦の第一長篇『虚栄の市』の主要登場人物には全員モデルがいるという。藤脇氏はそのモデルを「全員当てられると思う」とこの本に書いているが、自分には大藪春彦と宇野利泰くらいしかわからない。モデルにされた宇野がこの『虚栄の市』を読んだときのエピソードは宮田昇の『戦後「翻訳」風雲録——翻訳者が神々だった時代』に出てくる。

そういう人であるから平井呈一も標的にならないわけはなくて、平井をモデルにしたとおぼしい短篇がひとつある——いやモデルというと言いすぎかもしれない。ヒント程度だろう。何かというと、短篇集『発語訓練』に収められた「翻訳・神話時代」で、ここで小林は「久保田万太郎の弟子にあたる人が訳した『マルタの鷹』」なるパスティーシュを試みている。

その一部が上の画像で、小林はもちろんギャグのつもりでこれを書いているのだが、自分のような平井ファンにはこれはこれで悪くないと思う。この調子で訳された『マルタの鷹』の全文を読んでみたいとさえ思う。

日夏と平井


 

『迷いの谷』が出た。さいわい好評のようでうれしい。漏れ聞く噂によれば今度の『ジャーロ』でも取りあげられるという。そこでこの機会に解説で書き漏らしたことをひとつふたつ。

平井呈一と日夏耿之介はどちらもゴシック・ロマンス移入の功労者で、また超自然に親しんだ者であるが、ゴシック・ロマンス(あるいはさらに話を広げると怪奇小説)へ向けるまなざしは正反対といっていいように思う。日夏の愛したポーに平井が妙に冷淡であるところにそれは端的にあらわれている。

日夏は晦渋で綺語にあふれた自らの詩体を「ゴシック・ローマン詩体」と名付けた。つまり日夏のゴシシズムはロマン派寄りのもので、そこには彼方への憧れ、まだ見ぬものへの憧れがある。つまり中世にあこがれたホレス・ウォルポールと同じように(あるいはウォルポールの感化を受けて?)日夏はゴシックにあこがれるのである。

ところが平井は「彼方」というような距離感とは無縁だったように思われる。むしろゴシックに親しむことはそのまま己のふるさとへの回帰だったように思う。建部綾足の文体模写で訳した『おとらんと城綺譚』は日本文学史上の一大奇観ともいうべき摩訶不思議なもので、比肩できるものとしては昔国書から出た神西清のバルザック訳しか思い浮かばないけれど、どういう心的機構を通ってこういうものができたのだろう。それはドルリー・レーンのせりふに躊躇なくある歌舞伎役者の口調を移してしまうこととつながっているような気がするがどんなもんだろう。

日本男児ここにあり


 

盛林堂ミステリアス文庫の新刊は渡辺啓助。この前皆進社から出た『空気男爵』がやや期待外れだったので、今度の啓助はどうだろうとおそるおそるページをめくってみた。だがこれは大当たりだった。まだ最初の二篇を読んだだけだが、めっぽう面白い。短い枚数で波乱万丈の物語を要領よく語る腕の冴えがみごとだ。

一篇目は放浪医師の話、二篇目はコモド島でコモドオオトカゲと戦う話で、どちらも日本男児が秘境で大活躍する。二篇とも昭和十七年、つまりシンガポール陥落の年に発表されたもので、当然ながら大国策小説である。

しかしいくら国策に沿っていたからといって、たとえばイギリス文学でいえば、『キム』や『知恵の七柱』を読まないのはあまりにもったいない。そうした時代環境ならではの人間精神の広がりというものがあって、それは他の時代には求めがたいものだからだ。

同じように、かつての日本が植民地を求めて秘境や人外魔境に進出していたという経験は貴重なものだ。善悪の問題は別として、そういう事実がなければ広がらなかったであろう想像力は絶対にあるだろうから。

同時にこれは明治の押川春浪と戦後の香山滋の人見十吉ものやウルトラQをつなぐミッシング・リンクの一本であるような気もする。もちろん秘境冒険小説には他に虫太郎のものもあるが、主人公が変に屈折していて(まあそこがいいのだけど)春浪直系熱血路線とは言いかねる。

ウルトラQではやたらに怪獣が東京を襲うけれど、あれはもしかしたら、日本が秘境に進出していた記憶の遠い残響ではあるまいか。

実在したケルト・ルネサンス様式


 

黒死館附属幻稚園の新刊がすばらしい。今回の文学フリマで出たマーガレット・オリファント『秘密の部屋』である。これも黒死館研究史に新たな一歩をしるすものだと思う。

『黒死館殺人事件』の舞台、黒死館の建築様式は「ケルト・ルネサンス式」であるらしい。しかしこれは作者虫太郎の捏造というか妄想の産物であるというのが今では定説になっていると思う。しかしこの『秘密の部屋』を読んであっとびっくり。最初のページにこんなくだりがある。

「アングロサクソンの王族は初期ケルト文明の技術を一つにまとめて整備しようとしていたが、彼らが技術を互いに持ち寄る頃には、少なくともゴーリー城の一部は完成していたのである。初期のケルト文化とは、例えば未完成の墓の上に切り出した石を載せたり、十字架に神秘的な結び目を捩って飾りつけるような技巧の中に認められるものだ。ゴーリー城の装飾にはこうした原始的なケルトの遺風を見出すことができる。」

つまりこのゴーリー城は古代ケルトの文化や技術を今に蘇らせて建てられたものらしい。これがケルトの再生、ケルト・ルネサンスでなくて何であろう。

しかもこのゴーリー城はスコットランドにあるという。いやでも黒死館の建つ丘の描写「ちょうどそれは、マクベスの所領クオーダーのあった——北部蘇古蘭 (スコットランド) そっくりだと云えよう。そこには木も草もなく……」を思い合わさざるをえない。

むろんこのゴーリー城のモデルとなった(と巻末解説に書いてある)グラームス城がケルト式であったかどうかはわからない。つまりケルト・ルネサンス様式の建物が「実在」したとはかぎらない。

むしろ虫太郎とオリファント夫人が時をへだてて同じ城館の夢を見た可能性が大きいと思う。だがそれはそれでボルヘス的な驚異ではあるまいか。

文学フリマ御礼とおわび

昨日の文学フリマでは大勢の方に来ていただきありがとうございました。

一月の文学フリマ京都では5部、二月の文学フリマ広島では1部しか新刊が売れなかったので、たかをくくって15部くらいしか作って行かなかったところ、予想を上回る方に来ていただき、40分ほどで全部売り切れてしまいました。まことに申し訳ありません。

また今回は会場が二手に分かれていたためもあり、ひんぱんに席を外してしまいました。そのため留守のときにお見えになった方もいらっしゃったかもしれません。まことに失礼しました。

それにしても今回はとても文学フリマとは思えない人出でした。あたかも三日目のコミケのようです。これは完全な誤算でした。反省して次回に臨むつもりなのでどうか見捨てないでくださいますよう。

明後日は文学フリマ

ということで明後日は文学フリマですが、おかげさまでなんとか新刊が出せそうな雲行きです。それから商業刊行物で現在品切増刷未定のものも何冊か持っていきます。

それから矢野目源一の『ゆりかご』が、あと3~40部くらい探せば在庫があるはずなので、見つかったら持っていきます。しかし新刊作成が忙しすぎて探す時間があるかどうか……いやそれ以前に寝る時間があるかどうか……奇絶! 怪絶! また壮絶!!!

あとそれから黒死館附属幻稚園から久々の新刊が出るそうです。なんとマーガレット・オリファント! 実に楽しみではありませんか。

仙台はいい町だ


 

『本の雑誌』六月号の掲載図書索引をながめていたら「テュルリュパン」の文字が。すわ何事かと該当ページを開くと、佐藤厚志氏が「図書カード三万円使い放題」でこの本を選んでくださっていた。ありがとうございます。

佐藤氏によれば氏の勤務先丸善仙台アエル店では、「白水uブックスの『第三の魔弾』は根強い人気で棚指しで定期的に売れている」そうだ。仙台はいい町だ。『第三の魔弾』がコンスタントに売れるとは。機会があれば一度行ってみたいと思う。

北原尚彦・永江朗・中野善夫三氏による「無尽蔵に本を置ける本棚が欲しい!」は例によって異次元を垣間見るような座談会。除湿器ってそんなにどこの家にもあるものなのか。加湿器ならわかるけど——。おすすめの機種を教えてほしい気もする。でもわが家の場合は除湿器を設置する場所を確保するのが先決か。いやいやそれより前に掃除をするのが先決か。

「本棚が見たい!」には国会図書館勤務の鈴木宏宗氏が登場。本棚にずらり並ぶ専門書にまざって『ヨコジュンのびっくりハウス』があるのがうれしかった。アメリカのディズニーランドでバンビのくつ下を買ったエピソードなどが出てくる例の本である。