日夏と平井


 

『迷いの谷』が出た。さいわい好評のようでうれしい。漏れ聞く噂によれば今度の『ジャーロ』でも取りあげられるという。そこでこの機会に解説で書き漏らしたことをひとつふたつ。

平井呈一と日夏耿之介はどちらもゴシック・ロマンス移入の功労者で、また超自然に親しんだ者であるが、ゴシック・ロマンス(あるいはさらに話を広げると怪奇小説)へ向けるまなざしは正反対といっていいように思う。日夏の愛したポーに平井が妙に冷淡であるところにそれは端的にあらわれている。

日夏は晦渋で綺語にあふれた自らの詩体を「ゴシック・ローマン詩体」と名付けた。つまり日夏のゴシシズムはロマン派寄りのもので、そこには彼方への憧れ、まだ見ぬものへの憧れがある。つまり中世にあこがれたホレス・ウォルポールと同じように(あるいはウォルポールの感化を受けて?)日夏はゴシックにあこがれるのである。

ところが平井は「彼方」というような距離感とは無縁だったように思われる。むしろゴシックに親しむことはそのまま己のふるさとへの回帰だったように思う。建部綾足の文体模写で訳した『おとらんと城綺譚』は日本文学史上の一大奇観ともいうべき摩訶不思議なもので、比肩できるものとしては昔国書から出た神西清のバルザック訳しか思い浮かばないけれど、どういう心的機構を通ってこういうものができたのだろう。それはドルリー・レーンのせりふに躊躇なくある歌舞伎役者の口調を移してしまうこととつながっているような気がするがどんなもんだろう。