高原英理『精霊の語彙』


 

高原英理さんの短篇ひとつだけを収めた小冊子を作者の好意により落掌した。なんたる僥倖。この「精霊の語彙」は来月末に出る連作長篇『祝福』の中の一篇なのだそうだ。『祝福』というとなんだかめでたい感じがするが、本のカバー上部に下半分だけ見える漢字は「祝」ではなくて「呪」のように見えなくもない。カバー下部の漢字も一見「福」に見えるが、長く見つめていると別のものに化けそうで怖い。

この本を十全に味わうためには、おそらく以下の文章は読まないほうがいいと思う。来月末にどえらい本が出ることだけを知っていればいいと思う。というのも、これから書くことに自分としては確信を持ってはいるものの、この短篇の二ページ目に書いてあるとおり、「言えば間違う」からだ。つまりこれは「評すれば間違う」といったたぐいの作品である。なぜならこれはおそらく出来合いの言葉が届かないところで成立している話だからだ。というのも言葉はネットワークであり水路であり、つまり作中の言葉でいえば「導いてしまう」からだ。

孤立した言葉、すなわちどこからも流れてこないしどこにも流れ込まない言葉は、ある種の詩作品を除いては存在しがたい。水路を無理やり作ってどこかに導いてやろうとするとそれはもはや孤立した言葉ではなくなる。前に言った「評すれば間違う」というのはそういう意味である。

しかし流れる言葉は孤立した言葉にはかなわない。『祝福』もまた孤立した言葉について語る本なのかもしれない。あるいは水路を持たない孤絶した言葉がいかにして他者に伝達されうるか。それを語る本なのかもしれない。


むかしむかし、日本にまだバブルの余韻が残っていたころ、栗本慎一郎が『パンツを脱いだサル』という本を書いた。この本によれば世界史の真の主役はウイルスであって、人はただウイルスの乗り物、つまりウイルスに操られ利用されるだけの存在にすぎないのだという。

この短篇でウイルスにあたるものは言葉の群れであり、おそらくタイトルにある「精霊の語彙」とはそれを指しているのだろう。その「言葉の群れ」は、作中人物の言によれば、万巻の書を読み、それをいったん全部忘れたのちに、自らつむいだ言葉だという。疑ってまことに申し訳ないのだが、いやそれは違うだろう、と自分は思う。そのまことしやかな説明自体がウソ臭い。だいいち、そうした生成プロセスを経てできた言葉は、おそらくAIのChatGPTのようなものになると思うが、作中に引用されている断片はそんなものとは似ても似つかない。だから、単にその作中人物がそう思い込んでいるだけで、実はウイルスにも似たその「言葉の群れ」に操られているだけではないのか。

むろんこの短篇を、ある孤絶的な詩作品——伝達を拒否しながら伝達を願う詩作品(今自分が具体的に思い浮かべているのは左川ちかの詩なのだが)の誕生する瞬間を散文によってぎりぎりの極限までアプローチしたものと見ることもできなくはないとは思う。だが、やはり、ここで伝授される言葉を個人の創造したものとみなすとあまり話が面白くなくなってしまいはしまいか(ここで竹本健治が東海洋士の『刻丫卵』に付した解説を思い合わしてもいい)。この短篇で引用されている面妖な「言葉の群れ」は、言葉であって世の常の言葉ではないウイルスのようなものと考えたほうがつじつまが合いはしないか。

作中の世界観では死後の世界は存在しない。死者が残すものは「残念」という念だけだという。といってもこれは「恨めしや」みたいな私的感情ではなく、大まかにいえばある特定の他者への伝達への意志である。とすると、とふたたびここで立ち止まって考えざるをえない。それは本当にその人の意志であるのか。伝達され存続を願う「言葉の群れ」に単に操られているだけではないのか。

ウイルスが宿主を必要とするように、「精霊の語彙」も日本語を解するものを必要とする。宿主は必ずしもその意味を全面的に解しなくともよいのだが、他人に伝達できる程度には解さなくてはならない。その言葉は人を慰めたり元気づけたり幸せにしたりはしない、かといって絶望に落としたりもしない。ただ人を媒介にして伝わっていくだけである。そういう言葉の群れ——ある種の詩作品は現実にも存在すると思う。

そういえばこの短篇に出てくる登場人物の誰もかれもが、スタイリッシュな装いを持ちながら、まるで何かに操られているようではないか。ちょうど中井英夫のある種の作品がそうであるように。