デ・ラ・メアの目


 

デ・ラ・メアの『トランペット』を訳者の和爾桃子さんからいただいた。どうもありがとうございます。

マラルメの「メ」はマナコなり、と誰かが言ったそうだが、デ・ラ・メアもやはり目の人である。その小説にはストーリーを統御しようとする作者の手があまり感じられない。作者は文字通り手をこまねいて、ただ見ているだけのような気がする。

デ・ラ・メアの手法は朦朧法と言われることもある。だがその目はいつもクリアで、朦朧としたところはない(和爾さんの今回の訳は、その目のクリアさがよく表現されているように思う)。だから朦朧法というのは少なくともデ・ラ・メアに関していえば当たっていないのではなかろうか。

ただ見たものについて判断はくださない。そこが朦朧法と呼ばれるゆえんなのかもしれない。たとえば「トランペット」ではディックは主人公の異母兄弟であるまいかという気がするが、作中の視点人物はそういう判断はくださない。ただメイドが急に解雇されたことや、主人公の母がディックの母に口止め料とも思われる物品を渡したことや、両親のディックへの奇妙な態度を「見る」だけなのである。

デ・ラ・メアの視点人物は、ちょうどリュウ・アーチャーのように、悲劇をせき止めることもなく、人を幸せにすることもなく、ただ見ているだけだ。そういえばきびきびしてときに口語的にくだける和爾さんの訳文もハードボイルドな感じを強めている。もっともアーチャーと違って、そこに謎があっても誰も推理はしない。もちろん推理小説ではないからそれはそれでかまわない。ロジャー・シェリンガムみたいにムチャクチャな推理をする人が出てこないだけなんぼかましともいえる。

そして不動産物件ではないけれど、デ・ラ・メアの作品中に登場する人物は多かれ少なかれ(やはりロスマク作品に登場する人物と同じく)「わけあり」である。その「わけあり」の人を視点人物が曇りのない目で観察対象として見るというパターンが多い。そしてその「わけ」は最後まで隠されている。作者がもったいぶって隠しているというよりは、その「わけ」を名指しすると雲散してしまうようなものすごく微妙なものこそが作者が描きたかったものだろうと思う。